35 密談の夜
王都のはずれ。
雪の静寂に包まれた老舗ティーサロン〈クロックフィールド・ハウス〉の赤煉瓦は、街灯の橙にほのかに浮かび上がっていた。
昼は貴婦人の社交場、夜はごく限られた紳士たちの密談の場。
閉店後に残るのは、心得た少数のスタッフのみ。
足音も、呼吸も、音という音を雪が殺している。臙脂の絨毯が沈黙を吸い込み、古い燭台の火が揺れる。ブランデーと古木の家具の香りがゆっくり溶け合う、そんな場所。
二階奥のサロン。
窓は厚いカーテンに閉ざされ、暖炉の火だけが壁に古地図の影を揺らしていた。
エドガーは深く座り、静かに瞳を閉じていたが──遠くに馬車の音が届くと、目を開けてゆっくり立ち上がる。
やがて、ノックの音。
「どうぞ」
背筋の伸びた支配人が姿を現し、その後ろから、灰褐色の短髪に鋭い眼差しの男──軍務卿アルフレッド・ハートレーが現れた。
エドガーは深く一礼する。
「ご足労いただき、誠にありがとうございます」
アルフレッドは軽く手を挙げ、苦みのある笑みを返した。
支配人が静かに席を勧める。
テーブルには古いオイルランプ。
二人が向かい合って腰を下ろすと、支配人は無言でブランデーを注ぎ、一礼して下がった。
扉が静かに閉まる。
しばしの沈黙のあと、アルフレッドが重い口を開いた。
「……協力はできん」
エドガーの表情はわずかに動いただけだった。
「軍務省は動けない。奴の影響力は広い。ここで軍が動けば、派閥の衝突になる」
軍務卿は、誠実さで知られる男だ。
だが、その声には苦渋が滲んでいた。
「動いたところで……我々にできるのは“足切り”程度だ」
エドガーは静かにうなずいた。
「充分です。私は、法の側から切り崩しますので」
アルフレッドは小さく笑い、ブランデーを一口含む。
「……大人しい顔をして、随分な無茶をする」
エドガーの群青の瞳を静かに見つめ、それから、グラスの中の琥珀の液体を見下ろした。
口角が、ふっと、わずかに緩む。
「私は動けん。軍務卿としては、絶対にだ。
だが──」
短い沈黙。
アルフレッドははっきりと言った。
「貴殿の邪魔はせん。そして、“戻る席”くらいは守る。今の私にできるのは、それだけだ」
軍がどんな理由で動こうと、“法務官エドガー・レイブンズ”に手は出させないという、重い誓約。
オイルランプの炎が揺れる。
二人の男の頬を、それはそっと撫でた。
エドガーは座ったまま、深く礼をした。
「感謝いたします」
アルフレッドは立ち上がる。
「レイブンズ法務官殿」
エドガーも立ち上がり、姿勢を正す。
「真実を暴くつもりなら……肚を括れ。その先にあるものは、貴殿が想像しているより深い」
エドガーは瞳を伏せた。アルフレッドの声に滲むのは単なる“脅し”ではないと分かる。それは、経験に裏打ちされた“忠告”。
エドガーは瞳を開け、口角を静かに上げた。
「承知のうえです」
アルフレッドは目を細め、短く頷いた。
「……生きて戻れ」
そう一言残し、彼は踵を返した。
毛足の長い絨毯は男の足音を吸う。
無音のまま、軍務卿は部屋を出ていった。
閉まった扉。
それを見つめ、エドガーはテーブルに視線を落とす。
残されたのは燭台の炎と、ブランデーの琥珀色だけだった。




