34 霧の都に帰る者
霧の街、オルドン。
塔鐘が深い音で響き、ガス灯の橙光が霧に滲んで揺れている。
王都を横切るグレイブ川には薄氷が張り、通りを急ぐ人々の肩には細かな雪片が積もっていた。
パン屋の煙突から昇る灰混じりの煙が、白い空へと溶けていく。
磨かれた黒いブーツが石畳を打ち、黒壇の杖がシャラ、と薄雪を裂いた。
黒外套の襟元へ手を添え、吐く息は白く短い。
エドガーは顔を上げる。霧を割る白い尖塔――王立裁定院。
青みを帯びた黒髪が揺れ、小さく、ほんのわずかに口角が上がった。
彼は、帰ってきた。
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三階東端の部屋。“E.レイブンズ”と刻まれたプレートの扉を開けると、懐かしい温かさが廊下へ溢れ出した。
紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。
「っ……! おはようございます!」
「おはよう、ピップ」
エドガーが外套とマフラーを掛けると、ピップは慌てて駆け寄り、帽子と杖を受け取って丁寧に壁際へ置いた。
その一生懸命な仕草に、エドガーは口元を緩める。
机へ歩き、小綺麗に整えられた書類の端をそっと撫でた。
留守のあいだも、ピップが気を配ってくれていたのだ。
「エ、エドガーさん。書簡がいくつか……。
急ぎのものはマルコム上級法務官殿が処理してくださったので、残りはこれだけです」
封筒を受け取りながら席に着き、エドガーは穏やかに笑う。
「“サー”って呼ぶの、やめたんだね」
ピップは一瞬だけ視線を泳がせた。
「先生でもいいんですけど……。その……もう少し親しくさせてもらってもいいのかなって……思って……。だめですか?」
「だめなわけないだろう。好きに呼べばいい」
封書を机に並べて差出人を確認していると、ふと視界の端で動く影。
見れば、ピップが目を赤くしていた。
エドガーは立ち上がり、そっと彼を抱き寄せた。
「……寂しかった?」
「……心配しました。危険な調査だったんですよね?
もう会えなかったら、どうしようって……本当に……」
「そうか。……ごめんね。泣かないで、ピップ。男の子だろ?」
ピップはエドガーの肩を軽く叩いて突き放す。
「泣いてません!」
エドガーは声を立てて笑った。
「次は……俺も連れて行ってください。絶対に役に立ちますから」
「……うん。頼りにしてるよ」
頭を撫でると、ぽたり、と涙が一滴。
「やっぱり泣いてるじゃないか」とエドガーが笑えば、
「泣いてません!」と返す声が震えていた。
再び椅子に座り、紅茶を一口飲む。
ストーブが小さく「コン」と鳴った。
「……ここは、暖かいね」
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「休暇をいただき、ありがとうございました。本日より業務に復帰します」
エドガーは深く頭を下げる。
暖炉の火が、マルコム・ヘインズ上級法務官の表情を揺らめかせた。
その眼差しは複雑だった。
安堵、怒り、呆れ、そして――嬉しさ。
椅子を離れたマルコムは、エドガーの目の前に立つと、
「こいつ……本当に……!」
黒髪を両手で掴み、容赦なくぐしゃぐしゃにした。
「っ、マルコム卿……!」
「心配かけさせやがって……許さん……!」
しばらく乱され、ようやく手を離されたエドガーは、髪を留めていた革紐を外して淡々と髪を整え直す。
マルコムは席に戻りながら静かに問う。
「送ったものは、役に立ったか?」
エドガーは息を整え、深く礼をした。
「……はい。
愛のこもった包み、確かに受け取りました。とても役に立ちました」
「そうか」
満足したように頷くと、マルコムは柔らかく笑った。
「週末は家へ来い。妻も心配していた」
「はい。喜んで伺います」
踵を返そうとしたとき、
「エドガー」
呼び止められる。
振り向いたエドガーに、マルコムは短く、しかし力のある声音で言った。
「こうなった以上、私は持てる力の限りを使って、お前を守る。
……好きにやれ」
胸の奥に重く、温かいものが落ちた。
エドガーは深く、深く頭を下げた。
窓の外では、雪がしんしんと降り続いていた。




