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29 封蝋が告げる朝


 翌朝──街の中央、井戸のある広場に異様な人だかりができていた。

 まだ朝の光も弱く、雪がちらちらと舞っているというのに、人々は何かに吸い寄せられたように立ち尽くしている。


 人だかり。

 ざわめき。


「……なんだ、人が多いな」


「ルシアン……あれを」


 エドガーが囁き、顎で前方を示した。


 そこに“磔”にされていたのは──

 昨日、商会長室で見たイーヴリン商会代表の上着だった。


 丈夫な麻布の柱に荒縄で括りつけられ、まるで見せしめのように背中を晒されている。

 その布地の背には、どす黒い赤色で押し潰されたような封蝋がべったりと刻まれていた。


 《軍監査局》の紋章。


 ルシアンの顔から血の気が引いた。


 人々は口々に囁き合っていた。


「商会の旦那……死んだらしいぞ」


「昨夜、悲鳴が聞こえたって……誰も確かめに行けなかったらしい」


「夜明け前に“あそこに何か吊られてた”のを見た奴がいるって話だ」


「今は服しかないじゃないか」


「いや……“最初は違った”って」


「じゃあ……やっぱり……?」


「あの赤い印、なんだ?」


 封蝋の意味を知る者はいない。

 だが、“尋常ではないことが起きた”という空気だけは、広場の誰もが感じ取っていた。


 そのとき、街路を踏み鳴らす重い足音が近づいた。


「警備隊だ! 下がれ!」


 警備隊が群衆を押しのけ、荒縄ごと服を乱暴に引き剥がした。


「……まただ。こんな真似をするのは誰だ」

「広場の清掃を急げ! 痕跡は残すな!」


 封蝋は一度確認されるだけで、すぐに警備隊の袋に押し込まれた。


 ルシアンは群衆から目をそらし、エドガーの肘に軽く触れた。彼らはそっと踵を返し、宿へ戻る。


---


 部屋に戻るなり、ルシアンはベッドに身を投げるようにして腰掛けた。


「街のど真ん中であれをやってのけたってのか」


 エドガーは戸口に立って腕を組み、ルシアンは金の髪を荒々しくかきむしる。


「……監査局の連中がやったんじゃない。

 監査局の権限を盗んでいる“誰か”が見せしめに使ったんだ。

 これは俺たちへの警告だ」


「僕もそう思うよ」


 エドガーの群青の瞳がわずかに細められた。

 冷えた朝焼けのせいではない。怒りと、静かな覚悟の光だった。


「だが、まだ彼らは僕たちの存在には気づいていても、正体が分かっていない。

 すでに知られているのなら、今朝遺体になっていたのは僕たちだっただろう」


 ルシアンはエドガーに向き直る。


「……急がないと、“次”こそは俺たちかもしれない」


 その声は震えてはいない。

 だが、確実に“戦場に戻った男”の音をしていた。


「行こう」

「うん。イーヴリン商会の倉庫へ」


---


 夜の雪が静かに降り積もる通りを、二人は並んで歩いていた。

 靴底が雪を踏む音だけが、濃い霧の中で細い線のように伸びる。


「馬で行ったほうが早いんじゃない?」


 エドガーが囁く。


「音が出る。跡も残る。……潜入は徒歩だ」


 ルシアンは外套の襟を立て、街灯の下を避けるように歩いた。


 すれ違うのは、仕事帰りの鉱夫が二、三人。彼らが完全に角を曲がるまで、二人は路地の影に身を寄せた。


「この先を抜ければ、荷馬車道だ。商会倉庫はすぐ」


「……分かった」


---


 雪明かりの薄い通りを抜けると、街外れの空気が変わった。


 風の通り道が細くなり、音が吸い込まれるように静まる。


「……ここから先は、もう人はいない」


 ルシアンの声がさらに低くなる。


 エドガーは外套のボタンをもう一つ掛け、白い息をゆっくり吐いた。


「倉庫は、どの建物?」

「突き当たりを左だ。街灯が一つもない。……気配に集中しろ」


 二人は街の灯りから離れ、雪を踏む音すら抑えるように進む。

 冷えた木材の匂い、凍った土の匂いが混ざり、空気がひやりと刺す。


 視界の先──


 巨大な黒い塊が、じわりと輪郭を帯び始めた。


 四角い倉庫。

 窓は板で塞がれ、壁面には何度も上塗りされた古い業者印。

 その前に、雪で半ば埋もれた荷馬車の轍がうっすらと残っている。


「……ここだ」


 ルシアンが囁き、影のように倉庫の脇へ回り込む。


 エドガーもその背中に吸い寄せられるように動いた。

 彼の群青の瞳が、夜の闇を静かに測る。


「裏の扉を使う。鍵はすぐ開くはずだ。

 中に入ったら、声は一切出すな」


 ルシアンの手袋越しに、工具がかすかに金属音を立てた。


 そして──

 古びた錠前が小さく音を立てた。


「……よし。入るぞ」


 二人は、闇の倉庫の中へ音もなく滑り込んだ。



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