26 雪影を踏む者たち
夕暮れの終わり、紫がかった濃い灰色が森に沈むころ。
《グレイフィールド亭》の裏手では、老主人が用意した馬ぞりが待っていた。
馬の吐く白い息が、冷え切った空気の中で白く濃く揺れている。
「馬ぞりで行けるところまで行くからな」
ルシアンが革手袋を締め直し、荷を積みながら言った。
エドガーは頷き、そりの後部に腰を下ろす。木板の冷たさが中綿コート越しにも背へ沁みた。襟を少し引き上げると、漏れた白い息がすぐ雪に飲まれて消える。
長い髪は耳当て付きの飛行帽の奥へ押し込まれ、外見からは分からない。
ルシアンの防寒軍衣にはかつての“羽”の紋章が縫い付けられているが、黒糸で塗りつぶされていた。それは、過去と覚悟の証のように見えた。
老主人へ短く礼を送ると、馬ぞりは静かに動き出した。
そりの金具が雪面を擦る長い音が、夜の森へ細く延びていく。
雪の反射でわずかに青白く光る針葉樹の列。
空は雲に覆われ月も出ていないが、北方の夜は完全には暗くならず、世界そのものが淡い青の膜に沈んでいる。
「エドガー。夜の森では“視界”じゃなく“音”を信じろ。……いいな」
「うん」
雪が深くなるにつれ、馬の速度は落ちた。
やがてそりは完全に止まる。
「ここから先は歩く」
馬を木陰へ繋ぎ、鼻面を軽く叩いてなだめると、ルシアンはエドガーに向き直る。
その瞳は暗がりでも鋭い。
“調査官”ではなく“軍人”の顔だ。
「エドガー、俺の半歩後ろを歩け。……影だけ見ていればついて来られる」
「分かった」
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針葉樹が風に揺れ、雪が落ちるかすかな音だけが響く。
エドガーは、ルシアンの影を計るように見ながら歩いた。
地面はほとんど見えない。
だがルシアンの足は迷わず前へ運ばれる。
雪を踏む“コッ”という固い音──それが唯一の道標。
エドガーも同じ音を出すよう、静かに歩幅を調整した。
しばらくして、ルシアンの気配がふっと止まる。
『……止まれ』
呼吸だけの、小さな合図。
エドガーも息を止め、雪の匂いだけの世界で耳を澄ませた。
少し先で、雪が“ザリ”と沈む。
獣ではない。重い人の足音。
ルシアンが囁く。
「哨戒だ。……三人。巡回が速い。最近、警戒を上げてる」
青白い雪面の遠くで、揺れるランタンの火。
森全体が息を潜めたかのように静まり返る。
巡回が通り過ぎるまでの短い沈黙ののち、ルシアンが袖口を少し引いた。
「ここだけ掴め。……雪庇がある」
雪庇──踏み抜けば、そのまま谷底へ落ちる。
エドガーは無言でその袖を取り、慎重に段差を越えた。
離すとき、小さく礼を言う。
「……助かった」
「死ぬよりはマシだ」
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森を抜けると、夜闇の底に人工物の影が浮かび上がった。
岩壁に掘り込まれた、小規模倉庫の群れ。
人の気配はないが、雪は固く踏みしめられている。
「……ここだ。“G-3”」
低くルシアンが告げる。
エドガーは静かに息を吸い、頷いた。
「潜入しよう」
青白い雪面の夜の中、二人は闇へと溶けた。




