2 灰の降る朝
街全体が息を潜めているようだった。
霧ばかりが濃い。
煤けた街灯に雪の粒が舞い、遠くの鐘楼が乾いた音を放つ。
薪と石炭の匂いが路地を満たし、露店の果実は薄く凍っていた。
商人は手袋の上から銅貨を数え、新聞売りの少年が白い息を吐きながら声を上げている。
――霧の街オルドンに、冬が訪れていた。
青いマフラーの上を、白い息が滑るように霧の中へ溶けていく。
王立裁定院の法務官、エドガー・レイブンズは黒いウールの外套の襟を立て、裾を揺らしながら霜を帯びた石畳をまっすぐに歩いていた。
一つに束ねた長い黒髪が、彼の背で静かに揺れる。
ゆっくりと軋んだ音を立て、馬車が通り過ぎた。
エドガーの群青の瞳が、その先を見上げる。
霧の空を割るように、白亜の尖塔がそびえ立っていた。
重厚な石造りの建造物――法と理を司る“王立裁定院”。
鉄門には、王家の銀の星と深紅の薔薇の紋章が鈍く光っている。
杖が石畳を小さく打ち、エドガーはその門をくぐった。
こうして今日も、法務官エドガー・レイブンズの一日が始まる。
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聴取室の扉を開ける。
白漆喰の壁に囲まれた部屋の中央で、白髪の紳士が丁寧に頭を下げた。
その後ろでは、壁際の書記机の前に立つ書記官も同じように礼をする。
エドガーは軽く会釈し、法務官席の横に立った。
「おはようございます。どうぞお掛けください」
紳士はもう一度頭を下げてから、静かに椅子に腰を下ろす。
エドガーと書記官も席に着く。
静寂が支配する部屋に、時計の針の音だけが刻まれていた。
「担当いたします、エドガー・レイブンズです。
ご存じの通り、裁定院は貴族間の契約や紛争を中立的に裁定いたします。
まずは証拠と証言を整理させていただきたい。お時間をいただきますが、よろしいですね」
「はい」
侯爵家の法律顧問は静かに応えた。
今回の案件は、戦時中に軍へ供出した武器や物資の支払い未払いを訴えるもの。
裁定院はその契約を精査することになっている。
隣国グランディアでは、いまもエッセンとの間で国境紛争が続いていた。
アルストリア王国はグランディアと友好条約を結んでおり、かつて軍の派遣を行っていた。
戦は下火になったとはいえ、火種はまだ燻っている。
「戦時下ではどうしても混乱しますから、こうした未払い報告は珍しくありません。ですが、我が家の場合、これで三度目になります」
代理人は淡々と帳簿を差し出す。
書記官がそれを受け取り、エドガーの前に置いた。
革の綴じ紐が微かに軋む。
「納品書の写しです。軍監査局の印章入りの」
「確認いたします」
エドガーは指先でページをめくりながら静かに頷いた。
「お預かりいたします。こちらで調査を進めます」
「よろしくお願いします、レイブンズ法務官殿」
その後もいくつかの質疑と書類の受け渡しを終え、顧問は最後に礼をして部屋を出ていった。
エドガーも静かに立ち上がり、廊下へ出る。
冷たい空気が、彼の頬を撫でた。
――よくある案件。
いつも通りの始まり。
誰もが、その時はそう思っていた。
灰が静かに降り積もるように。
日常がゆっくりと影に覆われていくことに、彼らはまだ気づいていない。




