第144話 初老の筋違いは、だいたい全治三ヶ月って相場が決まっている
――ゴアァァァァァァァァァァァァァァッ!!
それは、重装甲車『アイアン・マザー号』の図太い排気ダクトが、過酷な環境変化に耐えかねて吐き出した、文字通りの『悲鳴』だった。
俺たちを乗せた鉄の塊が、B70Fの分厚い『関所』のゲートを突破し、次の階層へと巨大なオフロードタイヤを踏み入れた瞬間。
フロントガラス越しに広がる光景の「彩度」が、まるで古いブラウン管テレビの電源コードを、親にブチギレられて強引に引っこ抜かれたかのように、唐突かつ暴力的に消失した。
ダンジョン第5層域、『古戦場(B71F〜)』。
そこは、見渡す限りの絶望を、鉛色の絵の具で乱雑に塗りたくったような、最悪のディストピアだった。
空を覆うのは、太陽の光を分厚く遮る、胃壁にこびりつくようなドス黒い雲の層。
ひび割れ、極限まで乾燥した赤茶けた荒野には、見上げるほどに巨大な両手剣や、中世ヨーロッパの拷問博物館から丸ごとパクってきたような意匠の朽ちた甲冑が、無数の墓標のごとく乱立している。
視界の果てまで続く、死と鉄塊と、拭い去れない怨念のパノラマ。
――ガタッ、ゴガガガガガッ!
荒れた路面の起伏を巨大なサスペンションが拾うたび、車内には、ひどく乾燥した土埃と、何百年も放置された血液が酸化したような、鼻腔の奥にへばりつく『鉄錆と死臭のブレンド』が、エアコンの吹き出し口から遠慮なく吹き込んでくる。
普通なら、あまりの禍々しいプレッシャーに交感神経がイカれ、胃酸を逆流させながらスマホのメモ帳に遺書の下書きでも始めそうな、極限のシチュエーションである。
ホラー映画なら、ここで誰かが「俺、ちょっと外の空気吸ってくる」と死亡フラグを建築し、開始五分で無残な肉塊に変わる場面だ。
しかし。
現在、このアイアン・マザー号の車内においては、その「常識的な緊張感」というやつが、完全に迷子になっていた。
いや、迷子というより、何者かによって意図的に誘拐され、コンクリ詰めにされて東京湾に沈められたレベルで不在だった。
「うおおおおおっ! うわー! 見ろよマシロ、あそこ! あのデッケェ頭蓋骨刺さってる剣! めっちゃインスタ映えしそうじゃね!? さすがB70F台、映えスポットの宝庫だな!」
後部座席から、鼓膜を物理的に破壊しにきているとしか思えない大音量の声が、空間の空気を震わせた。
爆弾魔ツムギが、窓ガラスに鼻先を押し付け、なぜか修学旅行のバスで富士山を初めて見た小学生のような、あるいは深夜のドン・キホーテで新作の柔軟剤を見つけたヤンキーのようなテンションで外を指差していた。
声がデカい。不自然なほどに、意図的なほどに、デカすぎる。
「本当だーっ! すごーい! 映えるね! 後であそこでピースして写真撮ろ! ツムギ、背景にドカーンって爆発のエフェクトよろしくね!」
隣に座る記憶喪失の幽霊、マシロもそれに同調する。
両手をぶんぶんと振り回し、まるでテーマパークの新作アトラクションの最前列に並んでいるかのような、無駄に高いテンション。
普段なら「いや、ダンジョン内でインスタ映えってなんだよ。お前ら死生観バグってんのか」と自己ツッコミを入れそうな場面でも、彼女の目は異様なほどにキラキラと――いや、不自然なほどに無理やり見開いているように――輝いていた。
「ふははははは! 左様! 我が聖剣の清らかなる光で、ライティングもバッチリというわけだな! ジン殿、後でカメラマンを頼むぞ! 最高のレフ板代わりになってやろう!」
ルーフ(屋根)の上の特等席から顔を出した白銀の騎士レオが、兜のバイザーをカシャッと上げ、ドヤ顔でサムズアップを決めてくる。
いや、お前もかよ。お前、さっきまでB60Fのボス戦でビビり散らかして胃薬ラムネみたいに食ってただろうが。
……やかましい。
とにかく、やかましいのだ。
こいつらの声は、ただうるさいだけではない。俺の鼓膜を抜け、脳髄に直接「気を使われている」という事実を叩き込んでくる。
運転席の斜め後ろ、後部座席の端に深く腰を沈めていた俺――黒鉄ジンは、ひび割れた唇から、深く、重たく、そして少しだけ苦笑いの混じった溜息を吐き出した。
俺は、ロングコートの右ポケットに、手首から先を『深く』隠したまま、左手一本で不器用にタバコの箱を取り出した。
親指で蓋を弾き開け、唇に一本咥える。
カチッ、カチッ。
左手だけで百円ライターのフリントを擦り、揺れる火をタバコの先端に押し当てる。
スゥゥゥ……、プハァ。
ニコチンとタールの混ざった紫煙が、車内の鉄錆の匂いと混ざり合い、天井へと吸い込まれていく。
俺は、半ば呆れたような、いつも通りの気怠げなトーンで、空気を切るように口を開いた。
「……おいィィィ。お前ら、修学旅行の貸切バスじゃねぇんだぞ。だいたいダンジョンの底でインスタ映えってなんだ。電波も届かねぇのに、誰に『いいね』もらう気だ。地縛霊にか? 呪いのリプライ飛んでくるぞ。炎上どころか物理的に燃やされるわ」
鋭利なツッコミを放つ。
だが、俺のその言葉すら、今のこいつらには「想定内」らしい。
「あはははは! ジンは頭固いなぁ! 今時、地下70階層の絶景スポットなんて、バズること間違いなしなんだから! ねー、ツムギ!」
「おうよ! 親父は時代遅れのガラケーだからわかんねーんだよ!」
わざとらしい笑い声。
不自然なほどに明るい空気。
……痛いほどに、伝わってくる。
(……こいつら、必死だな)
俺は、コートのポケットの中で、完全に炭化し、ピクリとも動かなくなった『右腕』を、誰にも見えないようにそっと握りしめた。
いや、握りしめようとしたが、指先の感覚すら、もう存在しない。そこにあるのは、ただの重たい「消し炭」の塊だ。
B60Fでの死闘。
『死者の共鳴』の過剰引き出しによって、俺の右腕は完全に壊死した。
それを知った家族たちは、今、全力で俺を「筋を違えただけの親父」として扱う、『優しい騙し合い(プランB)』を絶賛決行中なのだ。
俺に余計な気を使わせないため。
俺を絶対に前線に出させないため。
その過剰保護が、こんな痛々しいほどのカラ元気となって表れている。
だが、その不器用な優しさが、今はたまらなくこそばゆく、そして少しだけ息苦しかった。
ボゴボゴボゴボゴッ!!
その時。
突如として、アイアン・マザー号の周囲の泥土が、沸騰したように泡立ち始めた。
巨大なタイヤが巻き上げる排気音と、エンジンから放たれる熱量に反応したのだろう。
荒野のあちこちから、ズズズ……と不気味な摩擦音を立てて、「それ」が這い出してきた。
「ウガァァァァ……ッ!」
「ギィィィィ……!!」
錆びついた中世の甲冑を無理やり繋ぎ合わせたような、巨大な骸骨たち。
『亡霊兵士』の群れだ。
眼窩の奥にはドス黒い怨念の火を灯し、手に手にボロボロの両手剣や槍を握りしめ、アイアン・マザー号を完全に包囲するように群がってくる。
その数、ざっと三十体以上。
B70F台のモブモンスターとしては、なかなかのウェルカムパーティだ。
「……チッ。しゃあねぇな。大掃除(仕事)の時間だ」
俺は短くなったタバコを灰皿に押し付け、左手で足元に立てかけてあった『6代目デッキブラシ』の柄を掴んだ。
後部座席のドアノブに左手を掛け、外に出ようと腰を浮かせた。
俺の脳内では、わずかコンマ数秒の間に、最適な迎撃ルートと、左手一本での制圧手順が計算されていた。
だが、その計算は、身内という名のイレギュラーによって、物理的に粉砕されることになる。
――バンッッッ!!!!
俺の視界がスローモーションになる。
弾かれたように飛び出してきたマシロが、俺が開けようとしたドアを、両手で外側から強引に叩き閉めた。
窓ガラスが割れんばかりの轟音。
物理法則を無視した幽霊の膂力が、俺の脱出経路を完全に封鎖する。
「ストーーーップ!! ジンは休んでて!!」
マシロが、窓ガラスにへばりつくようにして、鬼の形相で叫んだ。
いや、近い。鼻息でガラス曇ってんぞ。
「は? いや、おい。数が多いぞ。お前らだけじゃ……」
「だーかーら!!」
俺の言葉を強引に遮って、ツムギがマシロの隣に並び立つ。
その手には、ピンを抜く寸前の凶悪なクラスター爆弾が握られていた。
「親父は! 重いモン持って『筋違えてる』初老なんだから! ここはピチピチの若者に任せて、車内で大人しく盆栽でもいじってろっての!」
「誰が初老だぶっ飛ばすぞ! そもそも車内に盆栽なんてねぇよ! 枯れ木一本見当たらねぇわ! だいたい、筋違いくらいでどんだけ重病扱い……」
俺がなおも左手でドアを開けようとすると、今度は背後から、白い影がヌッと現れた。
「……患者は大人しく座っててください。血圧上がりますよ」
闇医者ヤクモだ。
白衣を翻し、その手には、どこから取り出したのか、俺の腕よりも太い、液体の詰まったヤバすぎるサイズの注射器が握られていた。
先端から、ジュワァ……と紫色の怪しい液体が滴り落ち、床の鉄板を溶かしている。
「こ、これ以上動くなら、筋肉弛緩剤と睡眠薬のスペシャルブレンドを、静脈に直接打ち込みますよ! 物理的に眠ってもらいますからね!」
「お前それ致死量だろ! 床溶けてんじゃねぇか! 医療行為じゃなくてただの暗殺だろ!」
さらに、ルーフの上からは、レオの鬱陶しい声が降り注ぐ。
「左様! ジン殿のその貧弱な(・・・・)腕力では、この亡霊の骨すら砕けまい! 我が聖剣の冴え、特等席で見ているが良い! フハハハハ!」
「おい、貧弱ってなんだ貧弱って! テメェら、俺へのリスペクトってもんが……おい、ちょ、待てお前ら!!」
俺の悲痛な制止は、虚しくもB70Fの冷たい風に流された。
マシロ、ツムギ、ヤクモの三人は、俺を車内に完全に閉じ込めると、それぞれの武器(または凶器)を手に、歓声を上げながら亡霊兵士の群れへと突撃していった。
――ガチャッ。
ご丁寧に、外からチャイルドロックまで掛けやがった。
「…………マジかよ」
俺は、完全に一人取り残された後部座席で、窓ガラスに額を押し当て、外で展開される惨状を見つめるしかなかった。
「オラァァァァッ!! 湿布代稼ぐぞゴラァ!!」
ツムギが、満面の笑みでピンを抜いたのは、どう見ても対大型ボス用のクラスター爆弾だった。
ただのモブスケルトン数体に向けて、それを惜しげもなく放り投げる。
ドカァァァァァァァァァァンッッッ!!!!!
B71Fの荒野に、太陽が墜落したかのような閃光と爆音。
一帯の地面がすり鉢状に吹き飛び、亡霊兵士たちが骨の欠片すら残さずに蒸発していく。衝撃波がアイアン・マザー号を激しく揺さぶり、俺の体がシートでバウンドする。
「見よジン殿! これが若さだァァァッ!!」
レオが、ルーフの上から空高く跳躍する。
ただの一体のスケルトンに対し、彼は聖剣の最大出力を惜しげもなく解放した。
ズバァァァァァァァァンッ!!
眩いばかりの光の斬撃が、亡霊兵士を両断し……そのままの勢いで、後方に聳え立っていた岩山を、綺麗に真っ二つに消し飛ばした。
おい、地形変わってんぞ。
「……徹底的な消毒が必要です。フフフ……」
ヤクモに至っては、ガスマスクを装着し、広域散布型の劇毒スプレーを周囲に撒き散らしている。
シュゴォォォォォ……ッ!
紫色の毒霧に触れた瞬間、残っていた亡霊兵士たちの骨が、悲鳴を上げる間もなくドロドロに溶け落ちていく。
圧倒的。
いや、圧倒的という言葉すら生ぬるい。
これは戦闘ではない。ただの「親父の出番を完全に奪うため」の、理不尽極まりない過剰火力の押し売りだ。
作画カロリー高すぎだろ。どこの深夜アニメの最終回だ。
「……おいィィィ」
車内の特等席で、俺は呆れ果ててタバコの煙を窓ガラスに吹き付けた。
「エフェクト過剰だろ。製作委員会の予算尽きるぞ。つーか、俺の出番なくね? これじゃ尺余るぞ……バカ共が」
口では悪態をつきながらも、俺の口角は、少しだけ緩んでいた。
あいつらなりの、不器用すぎる優しさ。
それが、痛いほどに伝わってくるからだ。
俺は、外の馬鹿騒ぎをBGMに、シートの背もたれに深く体を預けた。
だが。
外でド派手な爆音と、マシロたちの馬鹿笑いが響き渡る中。
車内に「俺が一人きりになった」瞬間。
張り詰めていた「親父としての威厳」という名の糸が、プツリと切れた。
――ドクンッ。
俺の顔から、呆れたような「親父の余裕(ヤセ我慢)」が、スッと音を立てて消え失せた。
「…………ッ!!」
視界の端が、ぐにゃりと歪む。
色彩が、一瞬にして反転し、世界が白黒のノイズに包まれる。
額から、毛穴という毛穴をこじ開けるようにして、滝のような冷や汗が噴き出した。
心臓が、肋骨の内側で狂ったドラマーのように暴れ回る。不整脈。呼吸が浅く、速くなる。空気が、肺に届かない。
奥歯を、ギリッと噛み砕きそうなほどの力で噛み締め、俺はシートの上に崩れ落ちそうになる体を、左手一本で必死に支えた。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛覚なんて、もう存在しないはずなのに。
完全に炭化し、神経の根元まで死滅したはずの右腕から。
脳髄を直接バーナーで炙られ、骨髄に無数のガラス片をすり込まれ、その上で高圧電流を流されているかのような、狂おしいほどの『幻痛』が、容赦なく襲いかかってきたのだ。
(……クソが。肉体のシステムが、まだバグってやがる……)
脳が、現実逃避を始める。
この痛みはなんだ。昔、タンスの角に小指をぶつけた時の痛みか? いや、違う。あれの百倍は痛い。
じゃあ、初めてぎっくり腰になった時の、あの世界が終了したかのような絶望感か? いや、あんな生ぬるいもんじゃない。
思考が脱線し、走馬灯のように過去の記憶がフラッシュバックする。
昨日の夕飯の味。今日の朝のコーヒーの苦味。どうでもいい記憶が、痛みを散らすために脳内で乱舞する。
だが、現実は残酷だ。
腕は死んだ。
だが、脳はまだ「腕がある」と錯覚している。
失われたはずの指先が、千切れるような熱を帯びていると、脳がエラー信号を発し続けているのだ。
その矛盾が引き起こす、極限のフィードバック。
「……はぁっ……はぁっ……」
俺は震える左手で、動かない右肩を強く掴んだ。
服の上からでもわかる、炭のようになった肉の感触。生命の脈動など、微塵も感じられない。
息を荒げながら、窓ガラスに映る自分の顔を睨みつける。
そこに映っていたのは、余裕ぶった掃除屋の顔ではない。
今にも痛みに負けて、泥水でも啜りそうな、惨めで、無様な男の顔だった。
(……こんなところで、立ち止まってる余裕はねぇんだよ)
俺は、脳髄を焦がす痛みを、奥歯を砕く力で無理やり意識の底の底へと押し込み、左手でコートの奥深くから『それ』を取り出した。
銀色の、古びた懐中時計(No.001)。
表面のガラスはひび割れ、秒針はとうの昔に止まっている。
だが、俺にとって、この時計はただのガラクタではない。
止まった時間は、俺の罪の象徴であり、前に進むための唯一の道標だ。
俺の目は、目の前で爆炎を上げる現在の光景ではなく。
「5年前の過去」の、あの絶望の淵だけを、鋭く見据えていた。
痛みを、トラウマを、幻痛を、すべてをこの時計に吸い込ませるように。
「……待たせたな、ガードナー」
外のやかましい騒音と、車内の息の詰まるような孤独。
強烈なコントラストが、俺の死に損ないの身体を、ただ静かに蝕んでいく。
だが、歩みを止めるつもりは、毛頭なかった。




