第8話「予定変更――あの子が選んだ旅立ちの日」
――ある死産体験の記録――
あなたには、忘れられない日がありますか?
私には、人生を変えた日があります。
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その夜。
突然、強い痛みが彼女を襲った。
陣痛だった。
死産と診断されても、自然分娩になる可能性があるとは聞いていた。
けれど――
まさか、こんなにも急に始まるなんて。
まさか、あの子が、自ら旅立ちのタイミングを選んだなんて -。
* * *
医師は静かに言った。
「自然分娩になります。
ただし、赤ちゃんの力が借りられないため、
お母さんの身体にはかなりの負担がかかります」
「大量出血のリスクもあります。輸血の準備もしています。
正直に言うと……お母さんの命にも、通常より危険が伴います」
その言葉を聞いた瞬間、夫は震える手で、
何も言わずに書類へサインをした。
そのとき彼女の心に浮かんだのは――
どこにでもある、何気ない日常の風景だった。
⋆何でもない、普通の朝。
⋆夫と笑いながらテレビを見る夜。
⋆冷蔵庫を開けて、明日の献立を考える自分。
「幸せ」って、きっと特別なものじゃない。
何も起こらない日々こそが、どれほど尊くて、奇跡だったのか。
彼女は、ようやくそれに気づいたのだった。
* * *
出産が始まってからも、
彼女は自分の命のことなんて考えていなかった。
ただ――
赤ちゃんがこの世に出てくる、その瞬間まで、
「もしかしたら、まだ生きているかもしれない」
そんな淡い希望を、どうしても捨てきれなかった。
けれど、現実は違っていた。
奇跡は……起きなかった。
それでも、不思議と「怖い」とは思わなかった。
出血も少なく、術後の経過も驚くほど穏やかだった。
まるであの子が、
「お母さん、だいじょうぶだよ」
と、そっと背中を押してくれたような気がした。
きっとこれが、
あの子の、最初で最後の親孝行だったのかもしれない。
【あとがき】
まさか、こんなにも突然――
あの子との別れがやってくるとは、思ってもいなかった。
心の準備もないまま、彼女は「出産」という現実に向き合うことになった。
それでも、不思議と怖さはなかった。
あの子が、そっと背中を押してくれていたから。
今でも、あの夜の静けさと、
あの子のあたたかなぬくもりは、
彼女の心の奥に、そっと残り続けている。
【次回予告】
⋆第9話「静かに、生まれてきた」
泣き声のない分娩室。
けれど、彼女たちはその子にしっかりと「おめでとう」と伝えた。
この子は確かに生まれ、
彼女たちのもとに来てくれたのだった -。