第10話「この子がくれたもの」
あの日、確かにあの子は、この世界に生まれてきた。
泣き声はなく、静かに――
けれど、その存在は、彼女と夫の心に深く刻まれた。
抱くことは叶わなかった。
それでも彼女の心には、あたたかなぬくもりが、確かに残っていた。
たった一度きりの命。
たった一度きりの出会い。
この最終話は、あの子への、彼女からの「ありがとう」。
-生まれてきてくれて、本当に、ありがとう。
出産を終えた彼女は、深い悲しみの中にいた。
赤ちゃんはもう、この世にはいない。
けれど、彼女の身体には、ただ“傷跡”だけが、くっきりと残されていた。
その後の日々は、容赦のない検査の連続だった。
皮膚に異常が見つかり、「皮膚がんの可能性がある」と言われ、額の皮膚を切除。
「下垂体に腫瘍の疑いがある」と告げられ、脳のMRIを受け、
「卵巣にも異常があるかもしれない」と、何度もCT検査を繰り返した。
何も確定しないまま、ただ検査だけが積み重なっていく毎日。
まるで“棚の上の鯉”のように――
どうすることもできず、ただそこに置かれたままの自分がいた。
* * *
一方、世の中は出産ラッシュだった。
友人たちは赤ちゃんの写真を見せ合い、育児の話で盛り上がっていた。
その輪の中に、彼女の居場所はなかった。
-どうして、私だけが、こんな目に遭うの?
誰にも言えない気持ちを抱えたまま、
冷たく、暗い孤独の中で、彼女は心をさまよい続けていた。
正直に言えば、
あの現実を受け止めるには、彼女はあまりにも若すぎたのかもしれない。
けれど、それでも――
不思議なことに、彼女の中には、消えない灯があった。
「この子は、また私のところに戻ってきてくれる」
そんな想いが、胸の奥にずっとあり続けた。
* * *
彼女は信じていた。
疑わなかった。
いつかまた、この手で抱ける日が来ると。
もう一度、おなかの中で育ち、今度こそ無事に生まれてきてくれると。
その想いがあったからこそ、
彼女はその後の不妊治療にも耐えることができた。
未来に希望を持ち、前を向くことができたのだ。
そして -5年後。
彼女のもとに、再び新しい命が宿った。
第2子(戸籍上は長男)として生まれてきたその子を見つめながら、
彼女は思う。
きっと、あのときおなかにいた子が、
生まれ変わって戻ってきてくれたのだと。
-今でも、そう信じている。
あの子は、「強さ」と「しなやかさ」を、彼女に残してくれた。
ほんの短い命だったけれど、たしかに「光」をくれた。
今でもふと思い出すことがある。
けれど、その記憶は、もう“ただ悲しいだけのもの”ではない。
あの子が残してくれた光は、
今もなお、彼女の人生を静かに、やさしく照らし続けている。
そして願わくば――
この小さな命と向き合った、ひとりの女性の物語が、
誰かの悲しみや孤独に、そっと寄り添うものであれたら。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
重たいテーマではありましたが、静かに最後までお付き合いくださったこと、心から感謝します。
……さて、ここまで読んでくださった方の中には、
「なぜそんなに大量の男性ホルモンが?」と不思議に思われた方もいるかもしれません。
当時の医師の説明によると、これは“卵子と精子の相性”の問題だったそうです。
「もしあなたの卵子が、ご主人ではなく別の人の精子と結合していたら、ホルモン異常は起きず、普通に出産できたでしょう」と言われたときは、本当に驚きました。
要するに -心では夫を選んだ私ですが、卵子は夫の精子を“異物”と判断していたのです。
人間の体は不思議です。
本来の免疫反応(異物を排除しようとする力)と、
命を守ろうとする働きが、私の中でせめぎ合っていたのだそうです。
その結果、大量の男性ホルモンが分泌され、妊娠の継続が難しくなった -これが真相でした。
それでも、その現象は「たまたま今回そうなっただけ」と医師は言いました。
次の妊娠では起きないかもしれないし、また起きるかもしれない。
だからこそ、命を宿すことの奇跡と、天から授かるという感覚を、強く心に刻むことになりました。
悲しみは消えません。
でも、人生はそれだけではできていません。
ときに苦く、ときに笑えて、それでもどこか切ない――
この物語の続きは、まだまだ私の中に生きています。