episode88
「最初は嫌われているのだと思った。だが、君の行動を見ていると、少し異なると考えるようになった」
「…………」
「勘違いだったら申し訳ないが、君は私を通して何かに怯えているように見えた。どうしてそのような言動を取らせてしまうのか、過去を振り返っても身に覚えがない。だから、知りたい。そこまで婚約者の座は忌避するものなのか」
両唇は糸で縫いつけたように開かない。
ここまで言わせてしまったのだ。
すべてを誤魔化すことは出来ない。かと言って、彼に真っ向から私が経験した悪夢のような日々を、この場で赤裸々に語ることができるだろうか?
答えは否だ。
唯一の愛に縋って、けれども報われることはなくて。最後には粉々に砕け散り、耐えられず人生を捨て、惨めなまま死を迎えた私の生涯なんて話したくない。
(今更話してどうなるというの。別の彼がしたことなのに)
皇妃とはいえ、仮にも目の前の人の妃だった。
蔑ろにされ、誰からも顧みられず、手酷くあしらわれる。
仮初のような、召使いのような妻だったが、貴方にそんなことをされたから、今世では回避しようと避けているのですよと伝えても、荒唐無稽な話で正気ではないと引かれるだけだ。頭がおかしくなったのかとお医者様を呼ばれるのがオチだ。
今の殿下は清廉潔白。誰が聞いても十中八九別人だと否定し、信じる人は存在しない。
深呼吸して心を落ち着かせる。動揺を隠して外向きの顔を作る。
「仮に、殿下を好ましくないと考えているとして……それが不都合になる場面がございますか。我が公爵家は皇室に忠誠を誓っておりますし、これまで一度たりともその忠誠心を疑われるような行いを──片鱗すら見せたことはない。そして、今後も未来永劫変わることはありません。私達は殿下や皇室の忠実な臣下です」
そういった懸念があるから、彼はこのような質問をしてくるのかもしれない。であれば払拭しておくに越したことはない。
私が彼個人を苦手としていても、我が家は皇家に反逆するなどありえない。
筆頭公爵家は彼が皇帝として君臨してもお支えするというのに、他に何を望むというのだろう。
「アリリエット公爵家の皇室への忠誠心を疑ったことはないよ。私が聞きたいのはそういうことではない。君自身のことだ」
否定し、煙に巻くことは許されない。暗に話を続けろと促してくる。
「私個人の……ですか?」
「ああ」
聞いて楽しい話には絶対にならないのに。聞かないという選択肢を、殿下は持ち合わせていないようだった。
(どこまでなら……許される? お父様たちに迷惑をかけずにすむ?)
ぐるぐると考える。
私だけならまだしも、一歩間違えたら家族に迷惑をかける。それだけは絶対に嫌だった。
「隠しても無駄ですから、一部にはお答えいたします。お察しの通り、殿下の婚約者にはなりたくありません」
ここまでなら伝えても構わないだろう。既に察されているし。
婚約者にはならないと心に決めているから。彼に見抜かれていたとしても、表面上は普通でいられるようになったのだ。
ここまで来るのに長い年月がかかった。傷は癒えない。消えない。ずっとしこりは残り続ける。
「理由は」
彼にとっても分かっていた返答だろうに。なのに、なぜ、そんなにも傷ついたかのような顔をするのだろう。いつものようにポーカーフェイスで接してほしい。
(まるで私が悪者みたい)
こっちまで苦しい。足におもり付きの枷を嵌められたようだ。
「皇后は煩わしいからです。私は自由に生きたいので」
皇妃でさえ執務漬けだった。皇后になった暁には社交関連も行わなければならない。忙殺される。彼だって先程、煩わしい地位だと口にした。
「それ以外にもあるだろうに」
「あったとしても、答えたくありません。お答えする義務もないはずです」
冷ややかに一線を引く。これ以上の干渉は許容できない。
「一つだけ言えるとするならば、今の殿下が悪いわけではないのですよ。私の心の持ちようですから、お気になさらず」
苦し紛れに答える。これが精一杯の譲歩だ。
悪手だが、全部さらけだして何の罪もない今世の殿下を糾弾するのは可能だ。
ただ、復讐を含む今世の殿下を困らせる仕打ちは望んでいない。そっとしておいてくれるのならばそれでいいのだ。
(覚えていたら文句のひとつでも言ったかもしれないけれど)
貴方のせいでと責め立てたところで前世の私は救われない。良いことなんてない。
水に流すことはできないが、触れないで蓋をしておくことはできる。
「今の、ということは過去の私が何かをしたのか」
「私の言葉選びが間違っておりました。殿下ではございません。お伝えしたように、婚約者になりたくないのは……皇后のお役目が私にとって荷が重いからです」
今世の、は心の中で付け足す。
アルバート殿下は眉間に皺を寄せている。私のぼんやりとした返答はお気に召さなかったらしい。
でも私はもうこれ以上話したくない。終わりにしたい。気分が悪くなるし、散々今の殿下は悪くないと考えても負の感情に引っ張られそうになる。
だから私は話を切り上げる。
「これ以上はどうかご容赦くださいませ。殿下も皇后としてふさわしい令嬢を見極め、お迎────」
くるりと日傘を回した矢先、甲高い悲鳴が湖に響き渡った。
反射的に声のした方へ顔を向ける。
少し離れたところにいた小舟が何やら慌ただしい。女性が舟から身を乗り出し、水面に手を伸ばしているのをもう一人の男性が引き戻そうとしている。
彼女は取り乱し、ひたすら叫んでる。今にも湖の中に飛び込んでしまいそうだ。
「殿下、少々お待ちいただけますか」
「ああ、行ってきなさい。君なら役に立つだろう」
女性の取り乱し様は只事ではない。殿下に断りを入れてから、目立たぬよう小さな魔法陣を展開した。即座に発動した陣により、私は件の小舟に転移して、浮遊魔法に切り替える。
「ミミ!」
転移したことで、彼女が何をそんなに叫んでいるのか理解した。
(名前を呼んでいる……まさか、お子さんが)
湖面に視線を走らせるが、小さな姿は見えない。
「何が起こったのですか。お力になれることはありますか」
突然現れた私に驚くこともなく、強い力で腕を掴まれた。
「娘が! 娘のミミが湖に! お願いです。娘を助けて!」
水深の深い湖に転落したのなら、一刻を争う事態だ。私にできることなら何でもしようと決める。
「分かりました。お子様の持ち物はありますか」
お子さんの帽子をお借りする。
(この範囲であれば探知魔法で引っかかる)
探知魔法であれば得意だ。モルス様のお手伝いで今回の何倍もの規模で何度も展開している。このくらいの距離且つ範囲が確定しているのであれば、失敗することはない。目や耳を塞いでいてもできる。
即座に魔法を使い、探索範囲を水底まで広げていく。
(…………ちょっと広げにくいな)
魔法を展開しにくい。それは水の中だからか、はたまた別の理由があるのか。
(ここではあまり使いたくないけれど。神々の湖なら)
チラリと殿下の乗った小舟を盗み見る。距離が離れており、人の細かい動作や変化までは追えないはず。
背に腹は代えられない。子供の命が最優先だ。
普段は封印しているノルン様由来の魔力を、髪色の変化が傍目からは分からない程度に混ぜる。
(うん、やりやすくなった)
エルニカ様との特訓のおかげで、何となく使用魔力量と色の変化の比例具合が分かるようになった。ほんの少し、ちょびっとだけであれば、それほど染まりはしないのだ。
「……見つけた」
どうやら随分と下方に沈んでいるようだ。ただ、探知魔法に引っかかったお子さんらしき人物に、別の魔力がまとわりついている。
(球体……? この魔力はノルン様……んんちょっと違う方の魔力も混ざってる?)
とはいえ害あるものではない。むしろ中にいる人物を守っているような。優しい温かな魔力だ。
物体の座標は特定できたので、探知魔法から転移魔法に切り替え、その球体を引き寄せた。




