episode87
案内されたのは湖に迫り出すように建設されたレストランだ。観光客が多くいる場所からは少し離れており、ひっそりと落ち着いた雰囲気のお店だ。
通された席はテラス席で、湖がよく見渡せる。
警護の関係もあって外の席は人払いさせたのだろう。店内には他にもお客さんがいたが、テラス席は私たちだけだった。
料理は既に決まっているらしく、私達が席に座ると同時に前菜が運ばれてくる。
メインの料理は湖の中に生息している魚を使用したものであり、神々の湖から魚を捕るのは如何なものかとも考えた。
ただ、漁獲量は制限されており、極端に生息数が減るのを防いでいる。そして何より、ご利益があるということでご当地料理として振る舞われていると、料理長自ら説明してくださったので、美味しくいただくこととした。
殿下と当たり障りない会話をしつつ食事を終える。
昼食を堪能した後はいよいよ小舟に乗る時間だ。
船着き場から一隻の舟を借りて乗るらしい。先に乗船したアルバート殿下のお手を借りて私も乗り移る。
舟は小さく、二人が限界だ。護衛の方々はまた別の小舟で私たちを近くから護衛する。
「さあ行こうか」
日差しが強く、傘を差したままこくりと頷いた。
アルバート殿下がオールを漕ぎ始める。
殿下に漕いでもらうなんてとは思ったが、乗る前に私が漕ぎますよと伝えても、殿下は「自分が動かすから不要だ」と言って聞かなかった。
舟は人々が捧げた花の間をゆっくりと進み始める。穏やかな風が頬をくすぐる。
遠くの方には私達と同じように舟に乗った観光客が思い思いに過ごしているが、付近にはいない。喧騒もなく、水音だけだ。
(こうして平穏な時間を過ごす日が来るなんて、信じられないわ)
アルバート殿下と再会した幼少期は彼を視界に入れるだけで動悸がして、倒れてしまうほどだったのに。
今の心は凪いでいる。彼からの愛を求めていない今世では、優しい殿下の行動に戸惑うばかりではあるが、興味はないというか、放っておいてほしいというか……。
恋に振り回されなくなったことで落ち着いて対処できている。
(早く婚約者を選べばいいのに)
婚約者候補という中途半端な地位。
婚約者の選定は卒業と同時、もしくは第五学年の終わりだと言われている。
前者であればそこから皇宮で暮らしつつ学んでいくのだろう。後者であれば在学中に婚約を結び、最終学年の六年生の一年間で妃教育を詰め込んでそのまま婚姻だ。
私は卒業後に魔法省に入職する選択肢があるから困らないけれど、私以外の人は万が一選ばれないとなれば、また別の縁談を一から探さなければならなくなる。大変だ。
出来れば在学中に発表してほしいと皆考えているだろう。そうすれば別の殿方と学園の中で親交を深めやすくなる。卒業してからでは在学中と比べて異性との関わりを持つのが難しくなるし、比較的自由な学生生活を有効活用したいはずだ。
(将来を決める上でもさっさと決めてほしい)
私も安心したい。誰であれ、私以外の人が皇家に嫁げば、ようやく前世の呪縛から完全に逃れられる気がする。
殿下も、こうして婚約者にならない者に余計な時間を割くことなんてしなくてよくなるし、いいことずくめだ。
私はそっと湖の中に手を入れる。水はひんやりとしていて、尾を引くように線が伸びては溶けて消えていく。
(…………なのに。何を迷っておられるのかしら)
チラリと殿下を盗み見る。
事前に話を通しているエレン様、皇后から逃れたい私を除けば四人だ。爵位を気にするならば三人。
婚約者候補としてはもう十年近くになる。交流だって何十回も行ってきたし、殿下も候補者それぞれの人となりを、相性を理解しているはずだ。
もう選んでいても、発表しても、おかしくないのに。
皇家は未来の皇后を未だ定めず、アルバート殿下はこうして一人一人と過ごす時間を作っている。
(……この結婚にしがらみがないのなら、アイリーン様を推すのだけれど)
友人だから贔屓目で見ている訳ではなく、本当にアイリーン様は素晴らしい人だ。本人は皇后の座にあまり興味がないようだけれど、彼女が帝国の国母となれば殿下と手を取り合ってより良い治世が敷かれるはずだ。
唯一の懸念はレリーナが現れるかもしれないこと、並びに殿下の伴侶は不幸になることだ。
私のような思いを友人にはしてほしくない。
かと言って私は絶対に婚約者になりたくない。
やり直す機会を得たのに、あのような日々を歩むなんて絶対に嫌だ。誰が好き好んで悲惨な日々に飛び込みたいと思うのだろうか。
婚約者になりたいと奮闘するクリスティーナ様たちと顔を合わせる度に、最近では罪悪感に駆られる。私だけ未来の結末を知っていて、知っているからこそ私一人だけ避けようとして、誰かに不幸を押し付けて逃げている気分になる。
卑怯だな、とも。
(まだ殿下が前世と同じ道を通ると決まったわけではないのに)
──かと言って通らない可能性を信じられるはずがない。
だからこそ決めつけている。彼はいつか必ず、あの身体の芯まで凍えそうな眼差しを、伴侶となった者に向けるのだ。
小魚が、水の中に差し入れたままだった指の間をすり抜けていく。その動きを目で追いつつ顔を上げる。
(どうか、誰も傷つきませんように)
レリーナさえ現れなければ未来の皇后は婚約者候補の誰かであり、愛されずとも穏やかな関係性を築けるだろう。皆、素晴らしいご令嬢だ。お付き合いしていて年々強く思う。
(だからこそ、殿下に傷つけられるのは私ひとりで充分だわ)
風が吹いてサラサラと殿下の青髪が揺れる。日傘をずらせば長い睫毛と天色の瞳が私を射抜いていた。
「どうかしたか」
漕ぐのを止めて殿下が問う。
「…………殿下の背後に広がります光景が、綺麗だなと見蕩れていました」
「そうか?」
適当な誤魔化しの言葉に、殿下が背後を確認する。
小舟が通った部分を避けるように花々が左右に広がっている。幻想的な光景と湖の管理者によって整えられた岸辺と森林は、まさに楽園のような景色だ。
そのまましばらく景色を観賞した。
「舟は君の要望だったが……楽しめているか」
「はい。連れてきてくださりありがとうございます」
「それは良かった」
自然体の柔らかな微笑だった。
それっきり押し黙るかと思いきや、殿下は再度口を開く。
「実は……聞きたいことがある」
殿下は神妙な面持ちで続けるので、否が応でも背筋が伸びる。先程までは心地よかった水音も、不意に遠くなっていった。
「私に、ですか?」
「ああ。この場で聞くような類ではないのかもしれないが、尋ねられる場所も限られているから」
短い返事に身構える。オールを置いた彼は、逡巡しているようにも見えて。何を問おうとしているのだろうか。
(他の人には聞かれない、干渉されない機会で一体何を……?)
ポチャンッと魚が跳ねた音が響き渡ったのが皮切りだった。
「不躾な質問だが……──貴女は私を恐れているのか?」
ドクンと鼓動が跳ね上がる。動揺を隠さなければならないのに、顔から血の気が引いていく。
「覚えているか? 婚約者候補を立てる前、本来であれば君が私の婚約者になるはずだった。アリリエット公爵家が打診を断ったから候補者が立てられたんだ」
固まってしまった私を置いて殿下は話を続ける。
「皇太子の婚約者というのは人によっては煩わしい地位だ。婚約期間は妃教育に大半の時間を費やし、嫁いでからは公務がそれに取って代わり、私生活には自由がない。公爵が、いや、幼子が嫌がるのも今では理解できる。…………だが、そういう理由ではなかったのだろう?」
私には分かる。分かってしまう。疑問の形を取ってはいるが、殿下は確信しているのだと。
(言わ、ないで)
「君は私を見るといつも怯えている。この頃はそういうこともなくなってきたが、根底にはあるだろう」
どうして気付かないふりをしてくれないのか。そこまで知っていて、理解して、けれども長年問わなかったのなら、不敬だと糾弾しなかったのなら、そのまま見て見ぬふりをしてくだされば良いのに。
ギリッと奥歯を噛み締めたせいか、口の中は錆びた鉄の味がする。
殿下は言葉を区切る。躊躇する。それでも迷いながらも言葉にする。
「皇太子だからではない。私の婚約者だからこそ、君は今も尚この座を避け続けている。私を、恐れている」
憂いを帯びた天色の瞳は見蕩れるほど美しく、だが、私にとっては今この瞬間、あの頃同様に何よりも恐ろしい。
「──その理由を訊ねてもいいか」
まるで剣の切っ先を喉元に突きつけられた心地だった。




