後編・上 美しい毎日を貴方と
主「次回で最終回だと約束したな」
読者の方々「そ、そうだ主!次で最終回と……!」
主「あれは嘘だ」
読者の方々「うわあ――――っ!!(呆れ」
彼女たちには、叶えたい夢があった。
決して有名ではない高校の野球部だったけど、努力に努力を重ねて、遂に甲子園への切符を手に入れた。高校3年間の締めくくりとして相応しい、学校史上10年ぶりの甲子園入りという快挙を果たした。甲子園球場のマウンドに立つのは長い間抱いていた夢でもあっただけに、それまでの血の滲むような練習の日々も、どのくらい流したのかわからない汗も涙も、全てが報われたと思った。
「たとえ優勝できなくてもいい。悔いのないように全力を尽くそう。どんな勝利よりも誇り高い最高の敗北を掴み取ろう」
主将が不敵な笑みで語った言葉に、俺たちは力強い頷きを返した。あの瞬間、間違いなく全員の心が一つになっていた。甲子園試合まであと2ヶ月。どんなにハードな練習にも堪えてみせると心に誓った。チームの主力ピッチャーとして、みんなの期待を背負い、不安を払うという覚悟を決めた。弱小だと舐めてかかってくる強豪チームの奴らに吠え面をかかせてみせると自信に満ち溢れていた。
ガツッと、皮の下の硬いモノが砕ける音がした。砕けてはいけないモノが砕けて、それが守っていた大事なモノを潰される感覚が頭蓋を叩き揺らした。手足が急に動かなくなって、次の瞬間には意識もズルリとずり落ちた。
誰かが悪いじゃでもない。練習試合で、俺が全力で投げたボールをバッターが思い切り打ち返して、それがたまたま思いも寄らない軌道を描いた。その先に俺がいた。偶然、当たりどころが悪くて、結果的に半身不随になってしまった。誰かに責任を押し付けることも出来ない。本当にただの不運な出来事だった。……だからこそ、納得が出来なかった。
結局、最初の試合でチームは敗北した。見事なまでの惨敗だった。手も足も出ていなかった。試合の翌日、主将が俺の病室まで来て頭を下げた。「こんなはずじゃなかった」と。
そう、こんなはずではなかった。今までの努力の日々がこんなに呆気無く無に帰すなんて、想像もしていなかった。あとほんの少しだったのに。夢の実現まで、本当にあと一歩だけのところにまで来ていたのに。
退院した後、自宅療養となった俺はそのまま部屋に引きこもった。目の前で夢を取り上げられて生き甲斐だった野球もできなくなった今、回復しようとする活力が微塵も湧いてこなかった。リハビリには長い時間がかかると医者に言われ、自暴自棄になっていた。
内向的な兄貴のゲームを借りて昼夜問わずのめり込んだ。それまでずっと朝も夜も練習に明け暮れていたから、ゲームに熱中するのは新鮮だった。家庭用ゲーム機のゲームも遊び尽くした頃、兄貴から譲ってもらったノートパソコンの中に削除し忘れたらしいゲームがあるのを見つけた。兄貴が夜中にコッソリとプレイしていた『エロゲー』だった。野球に勤しんでいる間はそういったオタク的なジャンルは敬遠していたが、今となってはどうでもいいことだ。生きる目的も理由も見いだせないヘドロのようなこの虚しい日々を少しでも忘れることが出来るのならと自棄になり、俺も遊んでみることにした。
思いの外、面白かった。パソコンの中にもう一つの世界があるような、そこに別の人生を授かったような面白さに俺は瞬く間に没頭した。涙を誘う純愛のストーリーもあれば、目を背けたくなるような鬼畜めいたストーリーもある。そこには千差万別の世界があり、人生があった。
ゲームを数タイトルほどクリアした頃、俺は一人のキャラクターと出会った。主人公の先輩で、私立瑞穂学園の生徒会長をしている夕緋 薫子だ。誰からも慕われて頼られている人気者の生徒会長は、自分の夢と現実の狭間で悩む主人公を優しく励まし、時には激しく叱咤して背中を押してくれた。当初、夢破れた俺には鬱陶しいだけのキャラクターにしか思えなかった。
だけど、ストーリーが進むに連れて、本当は彼女自身にも叶えたい夢があったことがわかる。「小さなお菓子屋さんを営みたい」というささやかな―――けれど、古くから続く旧家の娘としては決して許されない夢が。将来はどこかの跡取り息子と結婚するという運命が決まっている薫子は、自分の願望を諦めて、せめて主人公の夢を実現させる手伝いをしていたのだ。自分が叶えられなかった分、主人公に代わりに叶えてもらおうとしたのだ。
『夢を、諦めないで』
切なげに主人公に語りかけてくる薫子の今にも泣きそうな表情に、俺は心臓を掴まれたようなどうしようもない苦しさを覚えた。膨大な感情が込められたその言葉は、主人公を介して俺に投げかけられたように思えたからだ。
じんわりと心に染みこんでくる言葉を噛み締めながら、俺はしばらくスクリーンに映る薫子の瞳に釘付けになっていた。そうだ、俺は何をやっているんだ。手足をもぎ取られたわけじゃない。まだこの身体にしかと繋がってるじゃないか。「夢を諦めないで」という台詞が頭の中で再生されるたびに、ぐんぐんと活力が湧いてくる。
「……?」
やにわに、痛覚すら感じなかった足先に仄かな熱を感じた。今まで冷たい石だった脚に血が通いだしたような感覚に心臓が高鳴る。胸に背に汗が噴き出るのも無視してグッと脚全体に力を込める。まだ筋肉の落ちていない太ももが俺の気合に応えてぶるぶると震える。ほんのわずかな反応だけど、今はこれだけでも十分だ。この脚が、俺の意思を反映して動くということがわかったんだから。
長い時間をかけて会得した筋肉は簡単に消えることはない。俺はまだ若いし、動けるようになればすぐに回復できるはずだ。今までの血反吐を吐くような練習を思い出せば、ただ歩くだけのリハビリなんて苦にすらならない。たった一度夢が壊れただけで、どうして絶望した気になっていたんだ。
額に浮かんだ汗を拭い、晴れ晴れとした笑顔でもう一度スクリーンに目を向ける。薫子の表情も、気のせいか少しだけ微笑んでいるように見えた。まるで俺の変貌を見ていたかのようだ。
「ありがとよ、薫子先輩!俺、また頑張ってみるッスよ!!」
パソコンに向かって爽やかに笑いかける。エロゲーに向かって語りかけるなんてどうかしているが、背中を叩いてくれた礼くらいはしても然るべきだ。久しぶりに、こんなに気持ちのいい笑顔を浮かべることが出来たのだから。
さあ、そうと決まれば前進あるのみだ。両親も兄貴も留守にしているのは幸いだったかもしれない。みんなが帰ってきたら目が飛び出るくらいの変化を見せてやる。そのために、今から自分なりにリハビリを始めてみよう。あ、でもその前に薫子のルートをコンプしてから―――
「―――ッ!?」
ゾワッと、背筋が泡立つ。人間に備わる動物としての本能が「揺れるぞ」と悲鳴を上げる。腰から背中に冷たい戦慄が走るが、足先すらまだ満足に動かせない俺には息を呑んで身を固くすることしか出来ない。
怖気を感じてからきっかり一秒後、地面がミシリと低い音を立ててズレる。家中の柱や梁がギリギリと締め上げられ、上下左右に激しく振動を始める。引き出しやタンスの中身が踊り狂って床に次々と落ちていく。腹底に響く地鳴りと周囲の家々で上がり始めた悲鳴に横っ面を叩かれ、俺はようやく何が起こったのかを悟る。
「――――地震……!?」
それも普通の地震じゃない。今までで感じたこともない途方も無い揺れだ。「この家は保たない」と直感で理解できるくらいに大きな地殻変動が、この地面の真下で起きている。
冗談じゃない。たった今希望を見出したのに、夢を掴もうと再び歩みだしたばかりなのに、それすらも奪われてたまるものか。外に逃げなくてはと必死に腕を振り乱して身体を引きずるが、窓までは遥かに遠い。身体が十全に動いた頃は数歩跨いだだけで庭に飛び出せたのに、今では一メートル進むのにすら息が上がる。まるで地を這うナメクジのようだ。だから、絶望的に間に合わない。
バキバキメキメキ。取り返しの付かない音を立てて柱に亀裂が走り、それが支えていた二階の構造物が豪雨のように落ちてくる。天井を構成していた木材や鉄がたった今まで寝そべっていた布団の上に降り注ぐ。まだ薫子が映るノートパソコンが瓦礫に飲み込まれ、グシャリと無残に圧壊する。崩れていく瓦礫が太い梁をズルリと引きずり出し、その切っ先を傾ける。その先にいるのは、愕然として床に横たわる俺。
ゆっくりと視界を覆ってくる大きな梁を虚ろに見上げ、ぽつりと呟く。
「諦めなかったのに、どうして、」
自分が潰される感覚は覚えていない。冷たい梁が額に触れた瞬間、意識が途絶えた。気絶したのか即死だったのかは今となってはわからない。苦しまなかったことは喜んでもいいだろう。
「おーい、鈴木ー!ちゃんとキャッチしろよー!」
「ごめ~ん!」
少年の手をすり抜けたボールがコロコロとこちらに転がってくるのを何の気なしに目で追う。キャッチボールをしている子どもを見ると、前世の自分を重ねてつい立ち止まって眺めてしまう。野球からは身を遠ざけているつもりなのだけれど、染み付いた嗜好は一回死んだ程度では容易に消えてくれないらしい。
足元まで転がってきたボールを慣れた手付きで掬い上げる。試しにフォークボールの握り方を作ってみれば、案外自然に握ることが出来た。全身の筋肉が引き締まり、今すぐでも投球ができるようにじわじわと温まっていくのを感じる。この身体になってからまともにピッチングなんてしたことはないのに。肉体ではなく魂に前世の感覚が染み付いているのだろうか。
握り方を次々に変えてみる。スライダー、スローボール、カットボール、サークルチェンジ。どれも自然に握られたことに自分でも驚く。18年の歳月をかけて習得したピッチングフォームは女の子になった今も健在らしい。もう投球をすることなんてないだろうに、未練がましいというかなんというか……。
「あ、あの、お姉ちゃん。そのボール、ぼくらのなんだけど……」
「えっ?あ、ご、ごめんなさい。ちょっと懐かしくて。はい、返すわ」
「ありがとう。あの、お姉ちゃんも野球してるの?」
ポーッと見惚れる視線に見つめられて小さく苦笑する。男から含みを持った目で見られるのには馴れたけど、まだ10にも届かない子どもから恍惚とした視線を向けられるのは久しぶりだ。
小柄な少年の目線と同じ高さまでしゃがんで、ボールを優しく手渡す。年上の女性に触れられたことにドギマギと狼狽える様子が初々しくて、思わず頬笑みが溢れる。
「ええ、ずっと昔だけどね。今はもうしてないわ」
「ホントに?でも、ボールの扱い方がすごく上手かったよ。ぼくと全然ちがう……」
「簡単よ。コツさえ掴めば、あなたならすぐに出来るようになるわ。ほら、手を貸してみて」
「う、うん」
頬を染める少年の手に自分の手の平を添えて、ボールをそっと握らせる。人差し指と中指でボールをギュッと挟ませ、手首の関節を傾けさせたままピタリと固定させる。
「そのまま縦にまっすぐ思いっきり投げてみて。ボールを回転させないように意識して」
「うん、わかった。―――やあっ!」
気合の一声とともに、少年が空き地に向かってボールをぶん投げる。ボールは空気を切り裂くように宙をまっすぐ飛んだかと思うと、唐突に重力に引っ張られてカクンと地面に落ちた。もしもバッターの目前でそれが起こっていたなら、あたかもボールが消えたように見えただろう。それを遠目に見ていた少年の友人たちが一瞬の自失の後、「すげー!」と飛び跳ねてはしゃぎ始める。見事なフォークボールだ。思った通り、この少年には才能がある。
自身が放った変化球を信じられずに呆気にとられる少年の肩にそっと手を置く。キャッチボールをする子どもたちの中で、この少年のピッチングは群を抜いて力強かった。鍛えれば、この肩はもっと速くて狡猾な制球ができるようになる。
「少しだけ見てたけど、あなたの肩はとても強いわ。あなたに適した投げ方さえ身につければ、将来はプロになるのも夢じゃない。私が保証する」
「……うん!ありがとう、お姉ちゃん!ぼくがんばってみるよ!」
「ええ、頑張ってね」
ニカッと無邪気な笑顔を咲かせ、仲間のところに元気よく駆けていく。戻った途端、「今のどうやったんだよ!」「おれにも教えろよ!」と一斉に質問攻めにされる。一気に人気ものになった少年は嬉しそうに赤らんだ顔でもみくちゃにされている。
そんな子ども同士の微笑ましいじゃれ合いをしばし微笑みながら眺め、ふっと冷たい自嘲を落とす。
「あんな偉そうなこと言う資格、ホントはないんスけどねぇ」
夕緋 薫子の人生を授かったことに気がついたのは、物心がついてしばらくした頃だった。それまでも、旧家の令嬢として大事に育てられる日々に言いようのないズレを感じていた。自分の人生が借り物であるかのような空虚感を心のドコかに抱えていた。
その原因がわかったのは、両親が見ていたテレビをふとした拍子に視界の端に入れた時だ。高校球児たちの特集番組。怪我を乗り越えて試合に復帰しようとする少年がクローズアップされた瞬間、額から後頭部へ突き抜けるように18年分の記憶が蘇った。自分に前世の記憶があること、今の人生が前世でプレイしたゲームの世界であることを悟った。―――悟って、諦めた。
今さら野球をしようという気にはなれなかった。俺が希望を見出して手を伸ばしても、向こうの方が俺から離れていく。つくづく自分は夢に嫌われているのだと諦念して、夕緋 薫子という女の子として生きていこうと決めた。自分を救ってくれた薫子になれたことに嫌悪感は感じなかったし、今の生活に不満はなかった。美しい容姿、周囲からの信頼、裕福な家庭、優しい両親、多くの友人。これ以上望むことなんて、ない。
憂鬱な気分に引きずられて目を伏せる。ツインテールの“センパイ”の幻が俺をじろりと睨め上げる。「なら、なんでお前はお忍びでバッティングセンターなんかに通うんだよ」、と。
「……だって、やっぱり俺、野球が好きなんスよ」
「どうしたんべや、生徒会長?一人でボソボソ呟いで、何か悩み事でんあんべ?」
ふと肩越しに振り返れば、俺と同じように帽子とメガネで簡単な変装をしたリンジーがこちらの顔を覗き込んでいた。心配そうに様子を窺う碧眼に俺の顔が映り込む。自分で思う以上にひどい顔をしていた。
訝しげに眉を顰めるリンジーから一度顔を逸らし、両の口端をぐいと上に持ち上げて無理やり笑顔を作る。
「ごめん、何でもないッス。さ、早くイベント発生場所に行きましょ!もう時間がないっス!遅れたら天音センパイからキツくどやされるッス!怒ったらツインテールが猫のしっぽみたいに逆立つんスよ!!」
「ひょええ!そんりゃ怖えっぺ!急がね゛ぇど!」
言葉は際立った方言を帯びているのに、外国人特有の大げさな身振り手振りで慌てふためく。そのミスマッチな様子は相変わらず愉快で、憂鬱顔を奥に引っ込ませてくれた。リンジーはこの世界でもワイオミング州というアメリカのど田舎で自然とともに育ったらしいから、言動に裏がなくて純真だ。一緒にいると心が軽くなる。
元気づけられたことにくすりと顔を緩め、頬をペシペシと軽く叩く。いつまでも昔のことを引きずるのはよくない。いい加減に未練を断ち切らないと、夕緋家の長女として情けない。今の私は頼れる生徒会長なんだから、シャキっとしないと!!
「ウジウジ悩むのはここまで!さあ、楓ちゃんを適度に刺激して、トゥルーエンドに導いてあげるわよ!とびっきり派手な水着を着てやるんだからっ!!」
「オラだづのダイナマイトボデーの出番だべな!頑張んべー!!」
笑顔を交わし、二人同時にショッピングモールに歩を進める。
そう、私は夕緋 薫子なのだ。薫子がそうしたように、自分の願いを諦めた分、誰かの願いを叶える手伝いをしてあげよう。自分の望みを叶えようと頑張っている楓ちゃんに私の希望を託して、私の分まで幸せになってもらおう。
「すげー!レーザービームみてーじゃん!」
「鈴木のボールかっけえ!」
空き地ではさっきの少年が見る見る腕を上げて鋭いピッチングを繰り返していた。フォームも回数を経るごとに整ってきているし、バッティングや動作の端々に見える俊敏さも優れている。やっぱり素質があったらしい。私の見る目は正しかった。少年野球のチームにでも所属すればすぐにでもエースを張れるようになる。今から成長が楽しみだ。
「イチロー!俺にも投げ方教えてくれよ!」
……鈴木イチロー?
「まさか、ね」
よく意外だと驚かれるが、俺は女の子馴れをしていない。「すぐ近くに超絶美少女がいながら何を言いやがる殺すぞ」とフジノリにも言われたが、それは逆だ。その美少女一人しか身近に女の子がいなかったから、他の女の子との付き合いをろくに経験したことがないのだ。同年代の少年たちが異性に興味を持ち始め、試行錯誤を繰り返して女の子との多種多様な接触を重ねる中、俺は腐れ縁のバカ女が常に近くで面倒事を起こしていたからそれどころではなかった。……今思えば、それも俺を自分から離さないための策略だったのだろうが。
とまあ、上記のように不可抗力かつ不幸な経緯があるおかげで、俺はこの歳まで女の子とのデートをした経験が一度もないのだ。「楓ちゃんといつも一緒にいるだろうが殺すぞ」と襲いかかってきて俺の反撃の拳で地に沈んだのはこれまたフジノリなのだが、思い返せば楓とデートらしいことをした記憶はない。二人して買い物なんぞに出かけても、男女で一緒の行動を楽しむというよりは保護者として同行するような心持ちで付き合ってやっていた。
だから―――だから、大勢の前でこうして腕を組んで歩くことにドギマギと緊張してしまうのは、致し方のないことなのだ。
「えへへ。楽しいね、タッちゃん」
「ただショッピングモールをそぞろ歩いてるだけだろ。まだ買い物もしてねえよ」
「タッちゃんと一緒に歩くだけで私は楽しいんだよ」
肩にキスをするような勢いで腕に抱きついてくる楓からぐいと目を逸らす。モールの中は空調が整っているはずなのに、顔が火照って仕方がない。右足と右手が同時に前に出そうになるのを無理やり矯正してぎこちなく歩く。なんだか俺だけ軍隊の行進をしているようで格好がつかない。
「うっわ!なにあの娘、マジ可愛いじゃん!」
「ねえねえ、あっちの男の子の方も良くない!?ガッチガチになっちゃって可愛い!」
「ンだよ、コブ付きかよ……」
楓から波紋が広がるように、ざわざわと人だかりが波立つ。周囲からの視線が肌にチクチクと刺さる。楓に向けられるのは憧憬や羨望の眼差しだが、俺には嫉妬の眼光ばかりだ。まるで背中を包丁でザクザクと刺されてる気分で落ち着かない。人ごみの中を歩けばいつもこうなるせいで、デート気分に浸るどころではなかったのだ。しかも最近は色気のようなものまで身に纏い出したから、余計に人目を引くようになった。演技をやめて気兼ねなく自分を曝け出すようになったからかもしれない。
「一年後にはもっと綺麗になってるよ」という囁きと共に柔らかく潤った唇の感触も思い出され、我知らずゴクリと喉を鳴らす。楓の成長は天井知らずだ。どこまで綺麗になるのか想像もつかない。きっと裏では多大な努力をしているのだろう。それが全て俺のためにされているのだと思うと、フジノリや周囲の人間が怒りを覚えるのもあながち間違っていない気がしてくる。もしかして俺は相当に運がいい男なのかもしれない。
日を負うごとに洗練されていく横顔をこっそり覗き見て、
「―――ぁ―――」
「……?」
出し抜けに、その面差しが微かに曇りを見せた。桃色の髪と同じ色の瞳にスッと悲しげな影が差す。強張った瞳に映っているものは何かと正面に首を回しかけ、ぐいと腕を引っ張られて強制的に遮られる。
「お、おい。楓?」
二股に別れた目の前の通路を、人垣をかき分けて突然一方に突き進む。人の流れに身を任せて目的の店までゆったり寄り添い歩いていたのが、急に楓に引っ張られる形になった。
「タッちゃん、こっち行こう」
「俺は構わんが、こっちだと遠回りにならないか?」
「いいの。寄りたいところを見つけたから」
珍しく硬い声で言い放ったかと思うと、「あ、ペットショップがあるよ!」とコロリと表情を一変させてそちらに足を向ける。こいつも女の子だから、目に止まった店のウインドウについ意識を奪われることもあるのだろう。男には理解しがたい“ウィンドウショッピング”というやつだ。だけど今の楓は、まるで何かを避けたように見えた。
楓が避けた方の通路にチラリと目を向ける。騒がしい電子音と若者の賑わいに満ちたそこには、ゲームショップやゲームセンターがズラリと立ち並んでいた。ゲームと楓にどんな接点があっただろうかと記憶の戸棚を探り、ふと気付く。
(……そういえば、こいつがゲームで遊んでるのを見たことないな)
俺が家庭用ゲーム機に熱中している時も、その様子を傍らから眺めているだけで参戦しようとしなかった。何をするにしても子犬のように俺と行動を共にしていた楓が、コントローラにすら触れようともしなかった。昔は「女の子だからゲームに興味が湧かないのだろう」と一人合点していたが、振り返れば、それはあたかもゲームを避けていたかのようだ。
「なあ、もしかしてお前、ゲームに何か思うところでも―――
「そんなことよりっ!」
強い口調でピシャリと跳ね除けられた。思わず面食らった俺の手を掴んだ楓の表情は、いつか見た“笑顔の仮面”に似ている気がした。
「ねえ、こっち来て!ワンちゃんがプルプル震えてすっごく可愛いんだよ!」
「お、おう」
ケージの前に連れてこられる。大きなケージの中では、黒い大型犬が隅っこに縮こまって震えていた。「おいでおいで~」と楓が手招きしながら近づくと、筋肉質な背筋を跳ねあげてさらに縮こまる。「クゥン」と怯えたように喉を鳴らす犬の首輪に『ドーベルマン』と書かれているのを見つけ、俺は小さく鼻を鳴らす。もう一度楓の気色を窺ってみるが、そこにあるのはいつもの踊るような笑顔だった。そもそも、軍用犬すら怯えさせる楓が何かを怖がるなんて考えづらい。俺を殺して自分も後を追うと平気で言い放つような奴なんだから。きっと本当に、立ち寄りたい店があったんだろう。
考えすぎだとさっきまでの不信を切り捨て、楓とドーベルマンの間に割って入る。
「お前は犬猫からは距離を置け。近所の番犬を睨んで気絶させたの忘れたのか」
「あ、あれは、あの子がタッちゃんにしつこく吠えてたのが悪いんだよ!ちょっと怒っただけだもん!」
「知ってるか、あの犬、あれ以来犬小屋から出てこないらしいぞ。お前の眼力は純粋な動物には凶器なんだよ」
「ひどーい!私はみんなとこんなに仲良しなのに!ねえ、ネコちゃんたち?」
「「「ニ゛ャ―――ッ!!」」」
キャットコーナーにそっと手を伸ばせば、それまで悠々自適に寝転がっていた猫が一斉に起き上がってビシリとお座りの形に固まる。俺は経験したことがないが、楓と相対した人間は楓に対して奇妙な迫力のようなものを感じるという。まるで楓の後ろに―――もしくは中に、もう一人の誰かがいるような気がするそうだ。人間でさえその気迫に戸惑うのだから、野生本能を持った動物にはより鮮明にその存在が感じられるのだろう。楓の「お手!」という指示に機敏に反応する猫を見て他の客や店員たちが驚愕するのを横目に、俺は何度目かわからないため息を吐き出した。
だってあと少しで一万字に突入しちゃうところだったんだから、仕方ないじゃない……。これ以上長くと読みにくいんじゃないかな~、なんて思ったわけですよ。
次こそ!次こそ最終回です!信じて!トラストミー!!