6「勇者と回復術師は街へ出る。疑念が深まる」
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王都にきてから三日が経っていた。
朝、目を覚ました俺はしばらくベッドの上で天井を眺める。天井は相変わらず高くて、書庫でのリーシャの声がまだ耳の奥で鳴り響く。
——キミは何者なんだろうね。
ずっとこれの繰り返しだ。
右腕を握って開いてみると今朝は素直に動いた。
エステルの前でカップを取り落としたことも、最近たまに指先の動き出しが遅れることも、考えればきりがない。
答えを出さずにいる間は、見なくてすむ。霧の奥へ手を伸ばすのは、明日でいい。いまは魔王討伐のことを考えればいい。旅の間、毎朝そう思っていた。
さすがにもう見えないフリを続けるのは限界かもしれない。
そのとき部屋にノックの音が響いた。
控えめで、けれど迷いのない叩き方。
「アレン、起きてる?」
ドアを開けると立っていたのは、やっぱりエステルだった。その出で立ちは、街娘のようだった。色のくすんだ外套を羽織って、伸ばした髪をひとつに結っている。
「どうかしたか?」
「一度も外、出てないでしょ」
たしかにここ三日。俺はこの迎賓館にこもりっぱなしだった。
リーシャに言われたことを考えていたからだろうか、どうにも外に出る気になれなかった。
「屋台がいっぱい出ているの。街、案内するね」
「勇者がそんな気軽に出歩いても大丈夫なのか?」
「こうやって髪と服を変えて、あとは堂々としていれば大丈夫」
エステルは結った髪を指で弾いて自信げに言う。
「ビクビクするから見られるの。剣とか紋章とかなければ意外と分からないよ」
「……なるほど?」
広い街ではそんなものなのだろうか。
村では歩くと確実に声をかけられた。
「リーシャが人は思ったより記号で見ている、って言ってたから、それ?」
「……なるほど?」
首を傾げるエステルに俺も首を傾げる。情報が少なすぎた。
あまり理解していない様子の俺に、
「それはそれとして。アレンもはい」
俺の背後に回って、袖を通しやすいように外套を広げるエステル。
若干の気恥ずかしさを覚えつつも袖を通すと、サイズが驚くほどぴったりで少し怖い。
「似合ってる。うん、街の隅っこにいそうな感じ」
振り返った俺を見て満足そうにうなずく。
「……褒めてるのか」
「たぶんね。行こ」
俺の返事を待たず、彼女は笑って歩き出した。
王都の市場は村の何倍も広かった。
式典が近いせいか、石畳の両側にびっしりと屋台が並んでいる。
香辛料と焼いた肉と、甘い菓子の匂いが混ざり合って、街全体が浮かれている。
昔、初めて王都に来たときからは信じられないような光景だ。
エステルは外套の襟を少し立てて、人混みの中を慣れた足取りで進んでいく。
すれ違う誰の目も俺たちの顔で止まらなかった。
「あれ、美味しいんだって」
ひとつの屋台を指さすエステル。
屋台の前ではたくさんの人が列をなしていた。
彼女は肉が刺さった串を二本買って、片方を「はい」と俺に押しつけた。
礼を言うより先に、もう自分の分を食べている。途端、彼女の目が見開かれる。
もぐもぐと咀嚼しながら視線で俺にも食べるように促す。
「おお、これはなかなか」
たわいない。
誰も俺たちを勇者一行とは思わない。
史上最高の回復術師も、ここではただの連れの男だった。
その匿名が、心地よかった。
噴水のある広場で俺たちはベンチに腰を下ろした。
しばらく噴水を眺めていたエステルが、ふいに俺のほうを向いた。
膝の上で手を組み、言葉を選ぶように切り出した。
「手紙に書いたでしょ。ちゃんとお礼を言えていない気がする、って」
「ああ」
彼女は外套の上から、自分の右腕を軽くさすった。
「北の山脈で私、『ありがとう』くらいしか言えなかった。すぐ、また前に出たから」
「充分だ」
「充分じゃない」
めずらしく強い言い方だった。
「アレンがいなかったら、私は魔王城の門の前にも立てなかった。この腕だけじゃない。あの旅の、ぜんぶ」
噴水の音が急に大きく聞こえた。
「だから、今ちゃんと言わせて。——ありがとう、アレン」
雪の中で見たときと同じ、まっすぐな瞳が俺を捉えていた。
「礼を言われるようなことは、してない」
俺は笑ってみせた。たぶんうまく笑えていた。
勇者を立たせた。それは俺の役目で、誰かに必要とされて、あのとき俺は確かに満たされていた。
◇ ◇ ◇
立ち上がったのは、エステルが「橋まで歩こう」と言ったからだった。
太陽が真上に来るころには、人通りが増えていた。
子どもが何人か笑いながら俺たちの脇を駆け抜けていく。
その一人を俺は『避けられなかった』。
——左が見えなかった。
左目の視界が布で目隠しされたみたいに一瞬、途切れた。
腰に小さな衝撃が走って、視線を下げると子供は尻もちをついていた。
俺はようやく子供とぶつかったのだと理解する。
よかった、無事だ。それだけはすぐにわかった。
子どもは俺がなにかを言う前にけろりと立ち上がり「ごめんなさい」と残して、走り出してしまった。
「アレン?」
呆然としている俺を、エステルが不思議そうな瞳で見つめていた。
俺はゆっくりまばたきをする。一度、二度。見える。何事もなかったように噴水も、橋も、子どもたちの背中もそこにあった。
「……段差に、つまずいた」
言ってから足元を見てみるが、段差などどこにもなかった。
エステルの視線もそれを捉えていた。
きたと思った。右腕の次はこれか。
考えかけて、いつものように途中でやめた。
ここ数日、よく眠れていない。ただそれだけのことだ。
そう自分に言い聞かせるのは、もうずいぶん上手くなっていた。
エステルは橋へは行かず、川沿いのベンチに俺を座らせると自分は座らず正面に立った。しゃがみこんで目線の高さを合わせると、少し節くれだった指先で俺の頬に触れた。
「こっち、見て」
言われるまま彼女の顔を見ると、彼女の目が俺の目をまっすぐに覗き込んでいた。
「やっぱり……体調、悪いんじゃない?」
「慣れない環境のせいかもな」
言ってから苦しすぎる言い訳だと気づいた。旅をして、初めて訪れた街は数え切れない。そのどれもで、俺の体調が悪くなったことはない。
エステルは何か言いかけてやめると代わりに、長く息を吐いた。
「急に嘘が下手になるのね」
川の水が低く鳴っていた。彼女が疑っているのは俺の体調だ。眠りが足りないとか、無理が祟ったとか、どこかが静かに病んでいるとかそういう、名前のつく不調。
その見当違いに俺は少しだけ救われていた。
彼女が見ているところに答えはない。
答えはもっと奥の、霧の濃いところにある。
それでも明日にはなんともなくなっている。
きっとまた動く。毎朝そう思えるあいだはまだ大丈夫だ。
俺が立ち上がってなんでもないふうに肩を竦めてみせると、エステルはまだなにかを言いたそうな顔をしていた。
◇ ◇ ◇
エステルはアレンに部屋で休むよう言って別れた。
彼が素直にうなずいたことが、かえって気にかかった。
彼は自分が大丈夫でないときほど、大丈夫だと言う。
その夜だった。セラが迎賓館に着いたとの知らせを受けたのは。
エステルは出迎えるため、長い回廊を渡った。
外套の内側で右腕が当たり前のように揺れている。
この腕はいま、なんの痛みもなく剣を握れる。文字を書く指先も。
傷跡一つ残っていない。すごい、と素直に思う。
自慢の仲間だ。けれど昼間の光景が頭をよぎる。
ノックをして部屋に入ると旅装のままのセラはふわりと笑った。
「エステル久しぶり。ごめんなさい、到着が深夜になってしまって」
「全然、待ってたよ。セラ」
セラの笑顔は昔のままだった。
丁寧に整えられた所作で礼をする。
初めて会ったときも、その所作から少し近寄りがたい人なのかと思った。
だけど塩まみれになって、いちばん無邪気に笑っていたのか彼女だった。
旅の間は三つ編みだった亜麻色の髪は胸のあたりまで下ろされていた。
旅のあいだ、何度も綺麗だなと思った髪。
外套を脱ごうとする彼女を前にエステルは話を切り出せずにいた。
今日の広場のことを、言うべきか。アレンがない段差に躓いた。
それを彼が嫌がるだろうことを知っている。
知っていて、それでも。
「セラ、お願いがあるの」
呼びかけにセラは顔を上げると、こくりと首を傾げる。
セラの瞳をエステルは見据えた。その瞳が傷を、痛みを、呪いを、どれだけ見つけてきたかを知っている。
セラならアレンが自分で隠しているものまで、見つけてくれる。
そう思ったときなぜだろう、胸の奥がほんの少しだけ、冷たくなった。
「実は——」
言ってしまえば、もう戻れない気がした。
それでも。
「アレンを——診てほしい」
それでも言った。




