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最終話




 次の日は金曜日で、写真部の活動の日だった。まだ暑さが本格化する前の午前九時、私は急いで学校に向かった。


 活動自体は十時からなので、こんなに早く行く必要はない。けれど、電車の都合で瀬野はいつも九時過ぎには来ている。そこを、私は狙っていた。


 夏休みの補習がない校舎は、シンと静まり返っていた。その中を、カッカッカッと、ローファーが床を打ち鳴らす音が響く。駆け足気味なその音は、今の私の気持ちを表わすようだった。

 特別棟の二階。階段を上がって少し行ったところ。そこに、写真部の部室はある。

 ドアノブに手をかけてみれば、思った通り、鍵は開いていた。急いでドアを引き開ける。思いっきり開けすぎた反動でドアが壁に跳ね返り、大きな音を立てた。


 突然鳴った、バーンッというくぐもった音に、中にいた男子が振り返る。部室の真ん中にある長テーブルについていたのは、予想通りの人だった。

 私は、何も言わないまま彼に近づいていく。いつもなら、すぐに嫌そうな顔をする彼が、今日は表情一つ変えなかった。


「……瀬野の言いたいこと、わかった」


 彼の傍まで来た私は、足を止めた。そして、椅子に座ったままの彼を見下ろすようにして話しはじめる。


「あんたの言うとおり、たしかに私、変わってた。『私バカだから』なんて言って、納得したふりして逃げてた」


 高校に入って私は、自分が井の中の蛙だったことを知った。私より賢い人なんていっぱいいて、どうせ頑張ったって、その人たちには敵わない、そう決めつけた。負けず嫌いだった私は、勝負すること自体から逃げたのだ。


「順位なんて気にしてないから」、「本気でやってるわけじゃないから」。そんな風に思って、本気で向き合おうとしなかった。最初からそうしていれば、勝つことはなくても負けることはないから。そうやって、ちっぽけなプライドや見栄を守っていた。


 それは、それまでの自分の頑張りを踏みにじったのと同じなのに。


「でも本当は、こんな風になった自分がすっごく悔しかった。……昨日だって、あんたにすごいとか言ったけど、やっぱり負けるのは性に合わないし、どうしようもないぐらい悔しい」


 瀬野は何も言わなかった。ただ、眼鏡の奥で、じっと私を見ている。

 私は一度言葉を切って、大きく息を吸った。


「だから、見てなさいよ! 必死に頑張って絶対にあんたなんか抜かしてやるから!」


 指先を突きつけながら宣言する。興奮のあまり大きくなった声が、部室に響いた。

 瀬野は、それを聞いてもまだ黙ったままだった。拍子抜けすると同時に、後から恥ずかしさが込み上げてくる。羞恥と照れで、だんだん体温が上がってきた。


「…………ちょっと、何か言ってよ」


 思わず懇願するように言ってしまう。瀬野はそれを聞いて、ゆっくり口を開いた。


「……何でわざわざ俺に言うの?」


「えっ?」


 予想外の言葉に、間抜けな声が出た。きっと顔も、間抜けな表情になっているだろう。


「いや、突然来たから黙って聞いてたんだけど、何で急に宣言?」


「なんでって……一応、あんたのおかげだから、気づけたのは。あんたが、中学の時の私の方がいいって言ったから……」


「はあっ! そ、そんなこと俺言ってないから! 曲解するな、このバカ!」


 私の言葉を聞いて、瀬野は突然立ち上がった。衝撃を受け止めきれなかったパイプ椅子が、ガタッと音を立てた。


「バカって言う方がバカなのよ!」


 むっとしながら言い返す。私は、自分で言うのはいいが、人からバカと言われるのが、一番嫌いなのだ。


「言っとくけど、今は俺の方が頭いいから」


 勝ち誇ったような顔で、瀬野が言う。


「今のうちだけだから! そのうち、すぐに私に追い抜かれるからね!」


「へえ、学年二〇〇位が三〇位を?」


 にやにやと、小馬鹿にした笑みを浮かべながら言う。私は、それを聞いて首を傾げた。


「……何であんた、私の順位知ってるのよ」


 瀬野に順位なんて教えた覚えがないし、私のは、順位表にも載っていない。それなのになぜ知っているのか……。気になって尋ねると、瀬野は大きく目を見開いた。窓から差し込む光のせいか、その顔は少し赤みがかっているように見える。


「うるさい! とにかく、次も絶対俺が勝つ」


「いやいや、私だから!」


 向かい合って、そんな押し問答を繰り返す。それは、中学の時に戻ったみたいだった。


「じゃあ、負けた方が何か奢りな!」


「いいよ! じゃあね……」


「フルーツパフェ!」


 瀬野の提案に、賭ける物を考え出したそのとき、背後から高い声が聞こえた。瀬野のとも、私のとも違う声に驚いて、慌てて振り返る。そこには、半開きになったドアの隙間から部室を覗く百ちゃんの姿があった。


「百ちゃん! いつからいたの?」


 驚いて、私は問いかける。すると百ちゃんは、部室に入ってきながら答えた。


「たぶん最初から? 邪魔するのもなんだから、黙って聞いてた」


 盗み聞きみたいなことしてごめんね。そう言って百ちゃんは、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「……で、さっきの続きだけど」


 百ちゃんは、そこまで言って言葉を止めた。それから、私と瀬野の顔を交互に見つめる。


「賭けるのは、駅前の『喫茶泰夢(たいむ)』のフルーツパフェ。ちなみに私も参加するね!」


 その顔は、満面の笑みを浮かべていた。対照的に、私はそれを聞いて青ざめる。


 『喫茶泰夢』のフルーツパフェと言えば、高いので有名だ。メロンやマンゴー、イチゴに桃、果物をふんだんに使い、生クリームやバニラアイスは、北海道産の高級品。食べた人は皆、口を揃えて絶賛するパフェなのだが、値段は一個二二八〇円。高校生にとっては大金だ。


「いやいや百ちゃん? これは瀬野と私の勝負だから」


 瀬野だけでも苦しいのに、百ちゃんまで相手にするのは、私には荷が重すぎる。

 そう思い、私が慌てて言うと、隣の瀬野も激しく頷いた。どうやら考えることは同じみたいだ。


「えー、でも、一人だけ仲間外れにするのはよくないと思うな」


 そんな私たちの考えを知ってか知らずか、百ちゃんはなかなか引きさがろうとしない。


「仲間外れとかじゃなくて、……ほら、園崎さんの実力じゃあ、俺らなんか相手にならないかなって」


「瀬野の言うとおりだよ! 百ちゃんなら、もっと上と競わなきゃ」


 言い合っていたのも忘れ、私と瀬野は必死に二人で止めようとする。百ちゃんはそれを聞いて、にこりとさらに笑みを深めた。


「……あのね、二人とも」


 百ちゃんが呟く。その声は、いつもよりオクターブ下がって聞こえた。


「二人が仲違いしてる間、私大変だったんだ。先輩はしょっちゅう探りを入れてくるし、二人の橋渡し役もしないといけないし。……色々愚痴も聞かされたしね?」


 そこで百ちゃんは、私を見た。思わず私は視線を逸らす。


「私なりに色々心配もして……それが、蓋を開けてみれば、単なる痴話喧嘩なんだもん」


「ば! 誰が痴話喧嘩だ!」


 今度は、文句を言う瀬野の方に百ちゃんが向く。瀬野は、気圧されたように黙り込んでしまった。

 二人ともが黙ったのを見て、ふっと百ちゃんは息をつく。そして、私たちを見据える。


「だからね、これぐらいのわがまま、言ってもいいと思うな」


 そう言って、可愛らしく首を傾げる。気がつけば、私と瀬野は、同時に頷いていた。


「よかった! じゃあお互い、頑張ろうね!」


 嬉しそうに笑いながら百ちゃんは言う。その顔は、いつもどおりの柔らかな笑顔に戻っていた。


「じゃあ、先に文化祭の準備してよっか」


 そう言って百ちゃんは、キャビネットへと近づいていく。その後ろ姿を見ながら私は、これは本当に、本気で頑張るしかないと、改めて腹を括った。










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