第1話
お腹がチクチクと痛み出してきた。呼吸もおぼつかない。気道が狭くなったように、吸っても吸っても酸素が入ってきている気がしない。心臓も激しく動いていて、バクンバクンという音が、身体全体から聞こえてくる。
だけど病気ではないことはよくわかっていた。これはきっと、緊張からくるものだ。
「お待たせしました、宮内さんどうぞ」
教室のドアが開いて、先生が、廊下にいる私たち親子に向かって言う。何てことない言葉。けれど私には、処刑台へのアナウンスに聞こえた。
「あー、疲れたあ!」
ぐたあっと机の上に倒れこむ。横顔を押しつければ、冷房でほどよく冷えた机が、緊張で火照った肌を冷やした。
気持ちいい。思わず、口から呟きがもれる。
「お疲れあかりん激写―」
パシャリ。カメラのシャッター音が聞こえた。
机に倒れこんだまま顔だけ前に向けると、楽しそうに笑っている百ちゃんが目に入った。その手には、無骨な一眼レフカメラがある。
「きゃーえっちー」
そう言いながら顔を隠すと、百ちゃんはけらけらと声をたてて笑った。くしゃりとしわくちゃにして笑う顔は、何とも愛らしい。つられて私も笑顔を浮かべていた。
永遠に続くかのような、夏休み恒例・三者面談の後、がみがみ叱ってくる母を何とかやりすごした私は、写真部の部室に来ていた。
私が所属する写真部の夏休みの活動は、週二回、火曜日と金曜日。今日は水曜日なので来なくていいのだが、そのまま母と帰るのは嫌で逃げてきた。どうせ、帰る道中、ひたすら叱られることが目に見えているし。
そうしてやって来た部室にいたのが、今机を挟んで目の前にいる百ちゃんだった。
「今日、三者面談だったんだよね? どうだった?」
首を傾げながら百ちゃんが言う。
「どうしたもこうしたも! 先生、遅刻の回数とか言うんだよ! そんなの、怒られるに決まってるでしょ。もうちょっとオブラートに包むぐらいしてよ!」
家帰って、どんな目に遭うと思ってんのよお。嘆く私に、百ちゃんは、はははっと可笑しそうに笑った。
それから、ぐちぐちと百ちゃんに文句を聞いてもらう。ひとしきり言い終わった後、そういえば百ちゃんも、三者面談が終わっていたことを思い出した。
「百ちゃんは、三者面談どうだった?」
「私も一緒。色々怒られちゃった」
百ちゃんはそう言って、照れたように笑いながら、頬を指で掻いた。だけど、これはたぶん嘘だ。
私と同じ高校二年生の彼女、園崎百ちゃんは、学年で十位以内に入る秀才だ。そのうえ運動神経も抜群で、いざという時は頼りになるしっかり者。おまけに可愛い。顔良し、頭良し、運動良し、性格良しの完璧ガールなのだ。
そんな百ちゃんが、褒められるならまだしも、叱られるなんてこと有り得ない。もしそうなら、そいつを私が叱ってやる。
「絶対嘘だー。だって、百ちゃんすっごく賢いもん」
「いやいや、そんなことないって。それに、ここにいるんだから、明里ちゃんだって十分賢いでしょ?」
思わず、言葉が詰まる。たしかに、百ちゃんの言うことは当たっていた。
ここ、三吉高校は、県内の普通科の中ではトップの進学校だ。県内全域の中学で、上位数名だった人たちが集まってくる。そのため、この学校にいること=頭がいい、ということになる。
けれど、中学校での成績なんて、当てにならないと私は思う。
「中学の時はね。今はほら、落ちこぼれですから」
「またまたー、そんな謙遜して」
「百ちゃん、私の期末の順位知ってるでしょ?」
私が言うと、百ちゃんは黙り込んでしまった。その顔は、気まずそうに微笑を浮かべている。
「で、でも、二学期からは上がるかもしれないし!」
「期末の数学が、三〇点でも?」
百ちゃんは、私の点数を聞いて目を瞬かせた。ただでさえ大きな目が、まん丸に見開かれている。
「明里ちゃん……、夏休みの再試は受けなくていいんだよね?」
恐る恐るといった風に、百ちゃんが尋ねる。学年上位の秀才からすると、三〇点なんて点数は未知の世界らしい。
「再試は、一学期のトータルだからね。……ギリギリ大丈夫だった」
「そうなんだ! よかったね!」
百ちゃんは、パチパチと拍手をする。その顔は、本当に嬉しそうに笑っていた。
「ありがとう! ……でもギリギリだからね。百ちゃんに成績アップのコツ、教えてほしいぐらいだよ」
すると百ちゃんは、一瞬考え込むような素振りをみせた。
「んー、成績上げる方法なら、私より瀬野くんが適任だと思うな」
「せのお?」
思いもよらない名前に、思わず聞き返してしまう。なぜ、彼の名前がここで出てくるのか、全然わからなかった。
私の反応を見て百ちゃんは、あれっと不思議そうに首を傾げた。肩口で切り揃えられた髪が、さらりと揺れる。
「瀬野くん、今回のテスト、学年三〇位だったんだよ?」
「さ、三〇位!」
またまた聞き返してしまう。驚いて、口を開けたまま固まってしまった。
「一年の時は私より悪かったのに。……一体どうしたんだろ」
私がそう呟いたのと同時に、ガチャリと音を立てて部室のドアが開いた。見れば、ちょうどタイミングよく、噂の瀬野が入ってくるところだった。
「なんだ、いたんだ」
後ろ手にドアを閉めながら瀬野が言う。
「うん。瀬野くんは? 何か用事?」
「ん、ちょっと忘れ物したみたい」
百ちゃんの質問に答えながら瀬野は、窓際にあるスチールキャビネットに近づいていく。腰までの高さのキャビネットの上には、ファイルが置かれていた。忘れ物はそれだったのか、瀬野はファイルを手に取ると、中身を確認し出した。
そう言えば、昨日の活動の後、誰のか部長が聞いてたな。なんて思いつつ、私はその様子を眺めていた。
『学年三〇位だったんだよ?』
頭に、百ちゃんの言葉が蘇ってくる。
テストの順位は、各学年上位五〇人までが職員室前に貼り出される。いちいち見に行くのが面倒だし、そもそも載っていないのがわかりきっていたので行かなかったが、ちゃんと見に行っておけばよかった。
瀬野って、こんなに賢い人だっただろうか。いつの間に。どんどん疑問が浮かんでくる。それと同時に生まれたのは、戸惑いだった。
彼、瀬野一輝とは、小学校から同じ学校だった。小学三年生の時と今を除けば、全部同じクラスという腐れ縁で、中学では三年間、二人でテストの一位二位争いもしていた。と言っても、一位になった回数は私の方がはるかに多かったし、瀬野より私が賢かったはずなのだが……。何だ今の状況。これじゃあまるで、私が負けてるみたいじゃない。
そんな風に思いながら、じっと彼を見つめる。瀬野は、ファイルをリュックに仕舞うと、こちらを振り返った。
ばちり。目と目が合う。瞬間、瀬野の顔がいびつに歪んだ。眉間に皺を寄せた顔は、何とも言えない表情をしている。効果音をつけるなら、うげっみたいな感じだろうか。
「何よ……」
文句でもあるのだろうか、と思って尋ねる。けれど瀬野は、すぐに視線を逸らすと、何事もなかったように、入口へ引き返して行った。
「お疲れさまでしたー」
挨拶をして、さっさと部室から出て行ってしまう。ピシャリと音を立てて閉まったドアを見ながら私は、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
「な、何あれ! 見た? 百ちゃん見た?」
「う、ん。見たよ……?」
「何なのあの顔! 私、何もしてないのに!」
「まあまあ! ……でも瀬野くん、ここのところずっとあんな感じだよね?」
無視された苛立ちが抑えられず、机をバンバン叩く。けれど、百ちゃんの言葉を聞いて、ぴたりと動きが止まった。思い出したかのように、急に掌がジンジン痛んでくる。
「うん……」
瀬野とは、一年生の時たまたま同じクラスになって、たまたま同じ写真部に入った。ここまで腐れ縁かと、うんざりはしたが、百ちゃんと同学年三人で仲良くやっていた。それが突然、瀬野が私を避けるようになった。
「私、何かしたのかな?」
瀬野と最後に口をきいたのは一年生の冬。それ以来、話しかけても無視したり、素っ気ない返事をするばかりだ。おまけに、そのときは決まって、さっきのような嫌そうな顔をしている。
「どうなんだろうね。もう最悪、本人に聞くしかないんじゃないかな?」
何でもないように百ちゃんが言う。けれどそれは、私にはすごくハードルが高いことのように思えた。




