第3話 ゼロ
一週間後。
トシアキは弁護士事務所の前に立っていた。
自動ドアが開く。
中へ入るまでに、十分かかった。
相談室。
弁護士は淡々と質問した。
借入額。
カード。
消費者金融。
商品在庫。
収入。
預金。
資産。
「時計は?」
そう聞かれた。
トシアキは反射的に左腕を隠した。
そして、ゆっくり時計を外す。
机に置いた。
「あの……」
喉が乾く。
「これ、偽物です」
弁護士は何も言わない。
「一万二千八百円でした」
口にした瞬間、
急に恥ずかしくなった。
そこから、止まらなくなった。
ホテルには泊まっていなかった。
車も自分の物ではなかった。
服も借り物。
クルーザーも一時間だけ。
豪華な料理に見せていたものは、コンビニやスーパーの総菜。
SNSでは成功者を演じていた。
それを信じた人間を勧誘した。
全部話した。
誰かに本当のことを話すのは、
一年半ぶりだった。
やがて弁護士が言った。
「清水さん」
「はい」
「現在の状況でしたら、自己破産を検討することになると思います」
その言葉だけが、
妙にはっきりと聞こえた。
「自己……破産」
「はい」
机の上には、
百万円に見える一万二千八百円の時計。
成功。
自由。
経営者。
億。
夢。
仲間。
次のステージ。
頭の中を無数の言葉が流れていく。
最後に残ったのは、
自己破産。
だった。
金持ちになるために一年半を使って、
たどり着いた場所は、
法的なゼロだった。
トシアキは笑った。
弁護士が怪訝そうに見る。
「すみません」
トシアキは言った。
「なんか……面白くて」
自分でも、何がおかしいのか分からなかった。
数ヶ月後。
トシアキは実家の近くにある倉庫で働いていた。
朝八時から荷物を運ぶ。
重い。
腰が痛い。
暑い日は汗だくになる。
制服は灰色の作業着。
写真映えなどしない。
誰も、
「素敵なライフスタイルですね」
とは言わない。
誰も、
「成功の秘訣を教えてください」
とは言わない。
一日が終わる。
働いた時間の分だけ、
給料をもらう。
それが、
妙に不思議だった。
ある夜。
帰りにコンビニへ寄った。
鮭と昆布のおにぎりを買う。
公園のベンチに座った。
以前なら、
皿へ移しただろう。
横にサラダを置いた。
照明を調整した。
撮影した。
加工した。
『身体を作るシンプルディナー』
そんな文章をつけただろう。
今日は袋を破って、
そのまま食べた。
冷たい米。
海苔は少し湿っている。
別に美味くもない。
百五十円のおにぎりだった。
ふと、
スマートフォンを取り出した。
SNSのアプリはまだ残っている。
指を置く。
押せば、昔の自分が出てくる。
ホテルで笑う自分。
船の上で笑う自分。
高級車の隣で笑う自分。
成功哲学を語る自分。
何千人もの人間から、
「いいね」をもらった自分。
トシアキはアイコンを長押しした。
削除。
アプリが消える。
それだけだった。
花火も鳴らない。
音楽も流れない。
人生が変わったことを知らせる通知も来ない。
空を見上げた。
ただの夜空だった。
加工していない。
彩度も上げていない。
星すらほとんど見えなかった。
トシアキは、昆布のおにぎりを食べる。
今の自分には、
何もない。
金もない。
肩書もない。
夢を語る仲間もいない。
人に見せられるような生活もない。
本当に、
何もない。
その「何もなさ」は、
恐ろしいほど虚しかった。
けれど。
もう一口食べる。
少なくとも、
このおにぎりは、
自分で働いた金で買った。
この作業着は、
本当に今日一日働いて汚れた。
この疲れも、
この汗も、
誰かに見せるためのものではない。
トシアキは自分の左手首を見る。
百万円に見える時計は、もうない。
日に焼けた腕に、
時計の跡だけが薄く残っている。
それを見て、
少し笑った。
成功者の笑顔ではない。
誰にも見せない笑顔だった。
そしておそらく、
それが一年半ぶりに浮かべた、
本物の笑顔だった。




