七話
鍵を回す音が、やけに響いた。
扉を開ける。
静かだ。
誰もいない部屋。
靴を脱ぐ。
一歩、踏み込む。
止まる。
……きれいだ。
アリアが来る前、床に散らばっていた本は、棚に収まっている。
机の上は整理されていて、無駄なものがない。
ゴミも落ちていない
カーテンが開いている。
光がちゃんと入っている。
半年ほど前とは、まるで別の部屋だった。
「……なんだよ、これ」
小さく漏れる。
返事はない。
机に近づく。
積んであったはずの本が、順番に並んでいる。
よく見ると、しおりが挟まっている。
自分が途中でやめたページじゃない。
「……勝手に触るなよ」
誰に言ってるのか分からないまま、呟く。
キッチンを見る。
調味料の位置が変わっている。
使いやすいように、整えられている。
フライパンも、ちゃんと乾かされていた。
ふと、手が止まる。
……あの目玉焼き。
最初は食えたもんじゃなかった。
でも、今は普通にうまかった。
「……」
息を吐く。
ソファに座る。
かわいいぬいぐるみがこっちを見ている。
クッションが整えられている。
触ると、少しだけ沈む。
そこに、誰かが座っていた記憶だけが残る。
「……うるせぇな」
何もないのに、うるさい。
胸の奥が、ざわつく。
元に戻っただけだ。
仕事と研究の毎日。
感情を挟む余地のない生活。
それでよかったはずだ。
それが普通だったはずだ。
昨日プレゼントした花束が花瓶にきれいに収まっている。
白いダリア
オレンジのガーベラ
淡いピンクのコスモス
見たくなかった。
「……なんでだよ」
声が、掠れる。
手で顔を覆う。
気づいたときには、涙が落ちていた。
止まらない。
「……なんで、こんな……」
視界が滲む。
きれいに整えられた部屋が、ぼやける。
あいつがいた証拠だけが、そこに残っている。
でも
もう、いない。
「……ふざけんなよ」
拳を握る。
こんなに整えやがって。
こんなに、ちゃんと“生活”にしやがって。
戻れなくなるだろ。
「……くそ」
声にならない。
静かな部屋に、涙の音だけが落ちる。
・・・・・・・・
目が覚める。
アラームは鳴っていない。
設定した覚えがないのに、体が勝手に起きる。
天井を見る。
白い。
しばらく、そのまま。
枕もとのスマホが通知音を鳴らす。
画面には「不可」の二文字。
何度も、病院に面会を申し込んだ。
すべて、謝絶された。
理由は告げられない。
ただ「不可」とだけ返ってくる。
寒い。
空気が、はっきりと冷えている。
夏の重さはもうない。
代わりに、乾いた冷気が部屋に溜まっている。
体を起こす。
床に足をつける。
少しだけ冷たい。
キッチンへ向かう。
静かだ。
当たり前だが、物音がしない。
フライパンは、棚に収まったまま。
コンロも、何も使われていない。
冷蔵庫を開ける。
寂しいほどに何もない。
余りものを適当に取り出す。
パン。
コーヒー。
焼く。
少し焦げる。
「……」
そのまま食べる。
味はする。
当たり前だ。
でも
何も言わない。
食べ終える。
皿を流しに置く。
少しだけ迷う。
洗う。
水が冷たい。
手を止める。
一瞬だけ
何かを思い出しかける
やめる
蛇口を閉める。
部屋に戻る。
枯れてしまった花が眼に入る
……
コートを取る。
以前より少し厚いもの。
袖を通す。
鍵を取る。
ドアの前で、少し止まる。
「……やめろ」
そう呟き
開ける。
外の空気は、さらに冷たい。
白い息が、わずかに見える。
マンションの階段を降り、ゴミ捨て場の前を通り、角を曲がる
通勤の人間が、同じ方向へ流れている。
コート。
マフラー。
足早な歩幅。
サインも、その流れに入る。
歩く。
赤信号で止まる。
隣に、誰かが立つ。
視線を向ける。
知らない人間だ。
当たり前だ。
青に変わる。
・駅
電車に乗る。
つり革を掴む。
少しだけ、視線を上げる。
ニュースが流れるディスプレイが目に入る
「昨夜も隣国による侵攻が行われ、多くの死者が……
「……」
何も言わない。
電車が動く。
視線を外す。
窓の外。
冬に近づいた街。
色が少ない。
ただ流れていく。
サインは、それを見ている。
・・・・
会社に着く。
席に座る。
端末を起動する。
仕事を始める。
無心だ。
数値を確認する。
入力する。
報告書をまとめる。
何も考えない。
時間だけが進む。
気づけば、終業時刻だった。
立ち上がる。
帰路につく。
街は冷えている。
息が白い。
角を曲がる。ゴミ捨て場の前を通る。マンションの階段を上る。
家に着く。
扉の前で、少しだけ止まる。
開ける。
静かな部屋。
机の上に、封筒が一通。
見覚えのない紙。
手に取る。
差出人の欄。
「LH-23」
指が、少し止まる。
開ける。
中には、短い一文だけ。
「忘れてください」
それだけだった。




