10話 君と出会えたその日から
アリアの五感喪失が確認された直後、彼女はもはや兵器としての再利用価値を持たないと判断され、IBT内部では速やかに実験解剖と後処分の手続きが進められた。
遺体は第4研究所にて保管・解析されることが決定されたが、その決定に対して強く異議を唱えたのがサイン博士であった。
担当研究者としてではなく、一人の人間として遺体の引き渡しを要求し続け、企業規律を無視した独断行動や機密資料の持ち出し、無許可での面会申請の強行など、数々の違反を重ねながらも半年に及ぶ執拗な交渉を続けた結果――
前例のない形で遺体の所有権は彼へと移行された。
その代償として、サイン博士はIBTを懲戒免職となり、長年の努力の末に辿り着いた研究者としての地位も、将来も、すべてを失った。
・・・・・・・・・
それからしばらくして、彼は研究の道を完全に断ち、街の片隅にある小さな花屋で働くようになっていた。
白衣の代わりにエプロンを身につけ、試験管ではなく花を扱う日々。
それはどこか現実味に欠けながらも、確かに静かに続いていた。
八月の強い日差しが街を焼くようなある日。
世間がお盆の帰省や墓参りで慌ただしく動く中、サインは店先で時間をかけて一つの花束を作り上げていた。
白いダリア
オレンジのガーベラ
淡いピンクのコスモス
無意識のうちに選んだその組み合わせに、理由をつけることはできなかったが、手は迷わなかった。
一本一本の花の向きを整え、色のバランスを確かめ、最後にそっと全体を包み込む。
その手つきは、かつて精密な実験器具を扱っていた頃と変わらないほど慎重で、どこか祈るようでもあった。
出来上がった花束を抱え、彼は住み慣れたマンションを出る。
見慣れた廊下、見慣れた階段。
何も変わっていないはずの景色なのに、その静けさは以前よりもずっと重く感じられた。
階段を一段一段、ゆっくりと下りる。
足音だけがやけに響く。
一階に辿り着き、外へ出ると、熱を含んだ空気が肌にまとわりつく。
ゴミ捨て場の前を通り過ぎたとき、ほんの一瞬だけ足が止まりそうになる。
去年の夏、あの日の光景が脳裏をよぎる。
夏の朝の光は、やわらかく街の輪郭をなぞっていた。
どこからか蝉の鳴き声が聞こえてくる
高層ビルのガラスには、雲がゆっくりと流れている。
反射した空は現実よりも少しだけ青く見えた。
だがサインは視線を逸らし、そのまま歩き出した。
駅へ向かう道。
人の流れがある。
赤信号で止まる
家族連れ、帰省の荷物を抱えた人、笑いながら歩く子供。
その中を、彼は一人だけ取り残されたような歩調で進んでいく。
信号が青になる
・・・・・・
電車に乗り込む。
車内は混み合い、誰かの肩と触れ合う距離に立ちながら、サインは窓の外を眺めていた。
流れていく景色は見覚えのあるものばかりなのに、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。
やがて目的地に到着し、静かに電車を降りる。
改札を抜け、歩き慣れた道を進み、墓地へと足を踏み入れる。
まず母の墓の前に立つ。
何も言わず、花を手向け、ただ静かに手を合わせる。
短い時間ではあるが、その沈黙の中には確かな想いが込められていた。
やがて顔を上げ、再び歩き出す。
砂利を踏む音が、乾いた空気の中に小さく響く。
少し離れた場所にある、もう一つの墓の前で足を止める。
そこに刻まれた名前を見下ろす。
「アリア」
視線を落としたまま、ゆっくりとしゃがみ込む。
抱えていた花束を、そっと墓前に供える。
色とりどりの花が、静かに揺れる。
風が、わずかに吹き抜ける。
遠くで、誰かの笑い声がした。
墓地の向こう側では、家族が並んで手を合わせている。
世界は、変わらず続いている。
その中で、サインだけが少しだけ遅れているようだった。
長い時間をかけて、何も言わずにそこにいる。
やがて、小さく息を吐く。
唇が、わずかに動く。
「ちゃんと覚えているよ」
その言葉が届くことはないと分かっている。
それでも、言わなければ、どこかに消えてしまいそうで。
風が吹く。
花が揺れる。
その色も、形も、匂いも決して失われてはいなかった。




