死に至るラプソディー
リコリスは暗い闇の中で、静かに呼吸の音を聞いていた。浅い呼吸、閉じられた瞼、しっとり濡れている髪、額には熱を下げるための濡れ布が置かれている。負担のないように替えられた服から覗く手は、力を失っているように見えた。
ベッドサイドにおかれた椅子に深く腰掛け、リコリスは、ただその呼吸に自分の呼吸を重ねていた。
カーテンの隙間からわずかに差し込む月光が、アルフォンソが昇る天上への道のように思えて、恐ろしかった。
彼を、騎士としてそばに置かなければ、こんな苦しみを味わうことは無かったのだろうか。
帝国のローズベルのもとに行ってくれていたら、こんなことにはならなかった。リコリスは、想像し続けられただろう。こんな風に苦しむ姿ではなく、幸せなアルフォンソの微笑む姿を。
それに身を焦がすことくらい甘んじて受け入れた。
守られる苦しみを知るくらいなら、孤独な死の方が受け入れられた。
リコリスは、額に手を当てて、小さなため息を漏らす。一人で看病をしたいというリコリスのわがままに、侍従もレティシアも首肯したが、控えていることくらい知っている。
女王が、ため息を漏らし、わが身を憂いていることなど、感じ取られてはならない。そう、思うのに、女王らしからぬ、この振る舞いを改めることができなかった。
「ひ、め?」
部屋を支配していたのは、アルフォンソの寝息と時計の歯車の音だけだった。静かなブルーの湖面に、石を投げ入れられたような感覚が、リコリスの中に波となって広がった。
「クルツバッハ公?」
椅子から立ち上がる。その所作に、貴族の女性らしさは失われていたかもしれない。アルフォンソのもとに駆け寄るようにしてから、リコリスはその所作を恥じる。
「ああ。目を、覚まされたのね。すぐに、医者を。お水がいるかしら?何か、欲しいものはある?」
矢継ぎ早に聞いてから、自分がいつになく焦りを覚えていたことを自覚した。何かを失うとき、何かを得られなかったとき、リコリスが感じたのは確かに焦燥だった。でも、それを表情に出したことは一度としてなかった。
「……ひめ、」
「ごめんなさい、私、焦っていたみたい。やっぱり、お医者様もお呼びするわね。」
リコリスが離れようとすると、その手が掴まれる。思いのほか、強くて、その手に掴まれた部分から痺れが広がっていった。
「……姫が、ほしい。そう言ったら、おゆるし、いただけますか?」
今まで聞いたことのあるアルフォンソのどの声よりも掠れていて、力が無いのに、リコリスはその声に縛られたように動けなくなった。
「それは、」
「ずるいのは、承知しております。もう、なにもかも、遅いのも。」
アルフォンソの深い青色の瞳は、暗がりの中でもよく見えた。その瞳に迷いがないことも、嘘がないことも、リコリスには分かっていた。でも、その手を取れば、どうなるというのだろうか。
何もかも、遅い。
アルフォンソの言う通り、リコリスは彼の手をすでに離してしまった。もう、何もかもが遅くて、手遅れだ。
その手をもう一度取り、結婚という道を選ぶことは、女王には許されない。
「でも、あの時、本当は、」
そこで言葉が切られて、アルフォンソは呻き声を上げた。背中につけられた刀の傷は、アルフォンソの人生を制約しないだろうか。
「ずっと、お慕いしておりました。私と、人生を共にしてください。」
そう言いたかった。
リコリスは、小さく首を横に振る。そんなこと、あるはずがない。そんなこと、あっていいはずがない。
リコリスはずっと孤独だった。孤独なことを言い訳に、人を寄せ付けず、そんな自分を心の内で憐れんでいたのだ。何の努力もしていないくせに、愛を欲した。
その愛を与えられないと、勝手に見限って、顧みることをやめた。
「そんな、うそ、」
「信じていただけないのは、分かっています。私は、あなたを愛していたが、思いを届けることはしなかった。許される身分でもなかった。」
リコリスの震える手を、アルフォンソは握りしめた。その手の大きさに、リコリスは余計に震えを大きくした。
「でも、この気持ちは誠です。私が姫に、捧げられるすべてだ。」
「……私は、」
「すべて、私のせいにして下さい。命を助けた、その褒美に私があなたに強引に迫ったことにすればいい。そこに、私への感情はないと言ってくださって構わない。」
「それは、嘘になるわ。私は、」
私は、あなたが好きだった。
それを言う前に、アルフォンソの指先がリコリスの唇に押し当てられて、止められる。その指先は、血を失っているせいか、冷たい。
リコリスは、力を使い果たしたアルフォンソが唇を閉ざすのを見つめながら、この先に未来が無いことを知った。
この手を取る道は、リコリスにとって、孤独との戦いの道になる。この手を取らない道は、リコリスにとって、苦しみとの戦いの道になる。
リコリスは静かに目を閉じようとしているアルフォンソの唇にそっと唇を寄せた。
もう二度と触れることがないと思ったその唇は、記憶よりも冷たく、かさついていた。




