穢されたオラトリオ
リコリスは足早に、アルフォンソの眠る部屋を目指していた。かつてリコリスに礼節を説いた家庭教師の顔が一瞬、頭をよぎったが、リコリスの足は止まらない。
廊下の角を曲がる。そこに、白の衣が目に入って、足は強制的に止まった。
「陛下、ご無事で何よりでございます。」
同じ衣を身にまとっている司祭を従えた司教を、リコリスは目を細めてみた。
「お労しい。その血のなんと、お可哀そうなこと。」
リコリスの頭上に王冠を授けたディートリヒ大司教の腹心の部下と、リコリスはほとんど会ったことがない。政治と宗教は分離されるべきである。それは、リコリスだけの考えではなく、政治と宗教の癒着が生んだ悲劇の歴史を踏襲してのことだった。
「エイルホフ司教、お久しぶりね。」
この男が、宗教よりも権力を愛していることは、広く知られている。ディートリヒを差し置いて、リコリスに会いに来たことに、政の匂いがするのは、穿った見方ではないだろう。
リコリスは宗教に肩入れすることも、おもねることもしないと決めていた。だから、他の国民と同じように扱う。リコリスのその政策に、反感を持たれていることは知っている。
「それで、何の用かしら?」
「女王陛下の騎士が凶刃に倒れたと聞き、祈りを捧げるために参りました次第でございます。」
「……そう。それは、ご苦労なことね。」
リコリスがもしも、もっと教会と近しく、宗教の輝かしい部分だけを見ていられたのなら、きっと縋ったことだろう。
「大事な騎士様をお助けしとうございます。お望みとあれば、国中の教会で祈りを捧げる準備はできています。」
「そして、目覚めたら教会の手柄だとでも言うのかしら?」
「……陛下、そのような。私はただ。」
「宗教はより良き死のためにあるものよ。生を侵して、政に参画でもするつもり?」
「滅相もございません。」
エイルホフは、宗教家としては若く、あまりに権力を愛しすぎていた。その愛の深さに、大司教が頭を痛めていることも、王家に内々に相談していることもこの男は知らない。
「……出過ぎたことを言ってしまったようです。」
「ええ。分かっていただければいいのよ。あなた方が、領分を侵さない限り、私もあなたがたの領分を侵したりはしない。そこには、お互いへの尊敬がある。それで、よろしいわね?」
リコリスの言葉に、エイルホフは頭を下げた。
戴冠式のカテドラルの鐘の音を、忘れることはない。教会に与えられた王冠は、リコリスの魂を縛り上げて、安息の死すら与えない。
自分と教会には確かに、信頼と尊敬はある。だが、そこには、明確な境界線も存在している。
自分よりも年のいった男の下げられた頭を見る。権力への固執は身を亡ぼすことを教えてあげたい。
権力など、自分を幸せにはしないことを教えてあげたい。それよりも、その手にある幸せを大切にしなさいと教えてあげたい。
リコリスにはない、その幸せが羨ましくて仕方がなかった。




