トロイメライの虜囚
アルフォンソは夢を見ていた。
それは、アルフォンソが少年と言える年齢のころの話だ。
背が低く、体の細い自分の姿を見つめる。どこかぼんやりとした風景を眺めながら、アルフォンソは、小さなその背を追いかけ始める。
少年は父に連れられて初めて登城したようだ。
父が何を思って連れてきたのかは、分からない。父の主君に挨拶に行くわけでもなく、誰かに紹介されるわけでもなく、仕事を見せるわけでもなかったからだ。父は、仕事に向かうと息子に邪魔だから適当に時間をつぶせと言って、外に出した。
どこになにがあるかも分からない状態で、迷子になれとでもいうように外に出されて、息子は困惑しつつも歩き出した。父のそういった所業はいつものことだったからだ。
回廊は白く磨かれた石造りで、春うららかな日でも、体が底冷えする。そこかしこに配備された騎士たちは、少年の様子を窺いつつ、じっと気配を消したように立っていた。
腰にある剣は少年の右手よりもずっと大きく、たくましい。その剣を自由自在に振れる日が来るとは到底思えなくて、ため息をついた。
少年は剣術が好きではなかった。身長は伸び始める前で、体型は恵まれているとは言えない。毎日、毎日、剣の稽古をつけられるのが苦痛でたまらなかった。
少年は庭に出た。庭と呼ぶには花はなく、芝生と大きな木の足元には石でできたベンチが置かれていた。そこには、少女が一人、そして幼い娘がその少女の周りをはしゃぎまわっていた。
栗色の髪、緑の瞳の少女は、大人びた表情で、幼い娘を見つめる。
驚くほど神々しい幼女の金の髪がきらきらと光り、目を見張るほど美しかった。
思わず、少年は息をのんだ。これほど、美しい人を見たことがないと思った。少女は、そんな娘を見つめて、微笑んだ。膝に広げられた本をきゅっと握る手は白い。
「ローズベル、こちらにいらっしゃい。」
柔らかな声が、響いて少年はそちらを向いた。美しい幼女を呼んだのは、姿絵で見たことのある王妃陛下だ。少年は、思わずすくみ上って、柱の陰に隠れた。
走り寄ってきた幼女を抱き上げたのは、父親の顔をした陛下だ。両陛下とその娘は、なんとも美しい家族の理想の形のようで、少年は憧れ、羨望を抱いた。
ああ、なんと美しいのだろうか。この国を統べる人たちは。
少年は純粋にそう思った。父親に抱き上げられた美しい娘が、手を振るのを見るまでは。
その娘が振った手は、とても小さな無垢なものだった。
その先にいたのは、先ほど目の端でとらえた少女だ。茶色の髪、緑の瞳の娘は、一拍おいてから微笑んで手を振り返した。
美しい家族が過ぎ去るまで振っていた手は力なく膝に落ち、表情はすとんと落っこちた。
どうして、そんな顔をする。美しいあの娘に手を振られていたくせに、なぜ幸福な顔をしない。そう憤りに似た感情を覚えたが、それは一瞬で飛んで行った。
表情を失った少女は、静かに涙をこぼした。
こぶしに力が入る。
どうして、泣いている。どうして、そんなに静かに泣く。
どうして、子どもらしく泣かない。どうして、押し殺すように泣く。
「あの方は、」
両肩に力が込められて、少年は体をこわばらせた。振り返らずとも自分を追い出した父だと分かった。
「リコリス様だ。両陛下の長子にして、さっきの美しい娘の姉姫だよ。」
「……リコリス様。どうして、一緒に行かなかったの?」
「両陛下はお気づきになられなかったのだろう。」
「気づかなかった?」
あんなそばに居て、先ほどまで二人でいたのに、気づかないなんてことあるわけない。
理知的な瞳は泣いたことにやっと気づいたのか、瞬きを幾度か繰り返す。
美しい娘と、姉妹だと聞いても、ピンと来なかった。あの家族の一員と言われても嘘だと思った。似ていないからではなく、彼女だけ、違うもののように扱われているから。
少女は、ふっと微笑んだ。
泣いた自分を恥じ、そして、嘲笑するような微笑みだったけれど、諦めた瞬間の少女の瞳は何にも侵されない強さがあった。
「きれい、」
「あの方は、美しいだろう。誰よりも、何よりも。」
「はい。」
心からそう思った。見目の麗しさではなく、魂の美しさがある。少年は思った。
「騎士になりたいか。」
「はい。」
「お前なら、そう言うと思ったよ。」
その日から、少年は懸命に鍛錬に励んだ。自分に厳しくあるように、鍛錬に励んだ。誰よりも強くなって、認められれば姫の騎士にもなれる。そう思って、誰よりも、長く厳しい鍛錬をした。
両陛下から声がかかったとき、天にも昇る気持ちだった。そして、それは一瞬で打ち砕かれた。
そう、自分はリコリスのために騎士を目指したのだ。あの方が、泣いていたら涙をぬぐえるように。あの方が、涙を流さないように。
だが、いつからか、そんな無垢な思いは、あの方を我が物にしたいという気持ちに塗りつぶされていった。そのことに後悔はない。
あの方の背を懸命に追ううちに、愛するようになった。その愛は深く、大きくなり、いつしかその愛を返してほしいと願うようになった。
その思いを抱いてしまったことに、後悔はない。
ああ、あの方を抱きしめたい。鍛錬をする小さな背を横目に眺めて、騎士として完成した体のアルフォンソはそんなことを思った。
小さな背をしたこの時の自分は、まだ知らない。あの方の強さも、儚さも、抱きしめたときの柔らかさも小ささも。
そのすべてを、もう一度享受したい。
アルフォンソは、その手を取れるのならば、何を捨てても構わないと、思った。




