王妃のカデンツァ
「リコリス!」
お茶会に招きますと書かれていた手紙の日付と時刻は、手紙を受け取った翌日で、それは、お茶会をするということよりも何か重要な用事があることを言外に示していた。
王妃のお茶会に呼ばれたことなど数える程度で、そして、公務を言い訳に、その誘いを断り続けていたのは、リコリスの方だ。
その誘いを受けていたら、自分と母の間に、何かが生まれたのかもしれないけれど。
リコリスは、公爵家に降嫁することが決まってから、アルフォンソから贈られたドレスを身に着けていた。それだけがリコリスを公爵家に縫いとめてくれる武器のように思える。それは騎士が身に着ける甲冑のように、リコリスを守ってくれる気がした。
「王妃殿下に置かれましては、ご健勝のことと、およろこび」
「ご健勝じゃないわ!」
リコリスの言葉を遮り、王妃は叫んだ。王妃は時折、とても感情的だ。感情のコントロールをすることを放棄する。王族らしからぬ人だけど、そこがこの人が愛される理由なのだろう。リコリスにはない素直さがまぶしい。
「いかがなさいましたか。」
「リコリスも知っているでしょう?帝国で内乱が起きているの。」
帝国で、内乱。政から離れて久しいリコリスは、初めてその言葉を聞いた。
「そう、なのですか。」
「そうよ!帝国の内乱のせいで、皇太子がお怪我をなさったそうなの。それで、目覚めないって聞いて。」
帝国の世情を王妃が知っていることに驚いた。政から遠く遠く離れたところにいる人だと思っていたからだ。
「第二皇子に、皇位が回ってくるかもしれないみたいなの。」
「ですが、すでに婿として受け入れられている身です。皇位継承権は返上しているかと。」
「もちろん、そうだけど。でも、あの子も、女王の夫と皇帝だったら、皇帝を選ぶと思わない?帝国からも頻繁に使者が来てるの。戻るようにって言われてるみたいなの。」
「もしかして、謁見を覗かれたんですか?」
それは、もちろん帝国との信頼関係を脅かすことになりかねない。ニコライだったら目をつぶってくれるかもしれないけれど。それは、もちろん妹の夫として、王妃の義理の息子としての立場を貫いてくれた場合に限る。非難めいたリコリスの言葉に、王妃はだって、と子供じみた言葉を返した。
「心配なんだもの!もし、あの子が帝国に帰ってしまったら?それにローズベルが付いて行ってしまったら?だから、私はあの子をニコライにやるのを反対したのよ!あなたと結婚していたら、こんな心配も無用だったのに。」
リコリスなら、手放しても惜しくはないから。たとえ、ニコライとリコリスが結婚して、同じ状況に陥ったとしても、帝国にやるのにリコリスは惜しくない。手元から離れても、王妃は悲しくない。そんなことを想像して、リコリスはそれがあまり悲しくないことに気づいた。王妃の言葉に傷つかなくなったのはいつからだろうか。テオドールに自ら公務をねだったころからだっただろうか。
「だから、アルフォンソとローズベルが結婚すればよかったのに。私は最後まで反対したのよ!リコリスとニコライならうまくいくと思ったもの。」
反対していたようには見えなかった。あの時、王妃は、王妃としてではなくただの母親としてローズベルの恋を応援していたではないか。それは、奇しくもリコリスの恋も実らせたのだけど。母にそんな気持ちはないだろう。
「今からでも、遅くないのではなくて?」
「え?」
今まで、黙って母の愚痴を聞いていたリコリスは思わず聞き返した。
「もう!だから、ローズベルとアルフォンソのことよ!」
ローズベルとアルフォンソ、並列に並べられた二人の関係を表す言葉が、言われてもいないのにリコリスの中に毒のようにしみわたっていく。初めて毒を盛られた時のしびれた感覚に似ているとリコリスは思った。
「ですが、私とアルフォンソ殿は婚約式をすませておりますし、王女殿下とニコライ殿下の婚約はすでに周辺国にも知れ渡っています。」
「婚約は、でしょ?それに、ニコライが帝国に戻ったら、契約が反故になったようなものではない?」
「それは、」
そうかもしれない。先に、裏切ったのはどちらかといえば、帝国だと周辺国からもみなされる。
のっぴきならない理由だが、それが、ローズベルが帝国についていく理由にはならない。もちろん、ローズベルがそれを望めばの話だけれど。ローズベルの恋が破れていれば、それが可能であろう。
だが、リコリスとアルフォンソの間にある教会での誓約は、たとえ王族でも覆すことは容易ではない。
「結婚はしていないのだし、もちろん、あなたは清いままなのよね?」
「……それは、もちろん。」
王妃から出た言葉に、リコリスは耳を塞ぎたくなった。自分の娘に、それを尋ねてまで、もう一人の娘を繋ぎとめておきたいものなのだろうか。
「なら、なんの問題もないわ。」
そうまでして、リコリスを絶望させたいのだろうか。
アルフォンソという庇護を失った廃材はどこに行けばいいのだろう。
王妃の言うままに婚約破棄をしたところで、王妃はきっとリコリスのその先まで考えてはくれない。ローズベルが幸せになれれば、それが王妃の幸せなのだから。
「リコリスも、アルフォンソも、ローズベルも幸せになれるじゃない!」
「私も、」
「そうね、そうしましょう!王にお話ししなくちゃ、」
無邪気な笑顔と紅茶を残して、王妃は足早に去っていった。招いた客であるはずのリコリスは置いてきぼりだ。
「私も、」
もう一度、つぶやいた。リコリスも幸せ。
どうして、リコリスも幸せなんだろうか。恋が破れたリコリスは幸せになれるのだろうか。
なんのしがらみもなくなり、愛されないことに恐怖し、真綿で首を絞められるような、苦しい幸せから逃れることが出来たら、それは幸せになるのだろうか。苦しくても身を寄せていたい、そんな場所からたたき出されて、それでもリコリスは幸せなんだろうか。
自分を守ってくれると思ったドレスをリコリスは指でなぞった。幸せになったら、このドレスはリコリスのものではなくなるのだろうか。
リコリスは立ち上がった。
誰もが、頭を垂れたが、その所作にリコリスが覚えるのは、敬愛でも、親しみでも、畏怖でもない。ただ、孤独を覚える。
王妃があの素晴らしいアイディアを王に言ってしまったら、リコリスの帰る場所はどこになるのだろうか。
知らされていなかったことが、残っていたピースのように、リコリスの内側を埋めていく。
孤独であることに言い訳もさせてもらえず、アルフォンソの優しさにも縋ることはできなくなった。
リコリスは、静かに自室に戻るための回廊を歩いた。涙を流す言い訳が欲しかった。




