わびさびに候う へうげもの 火縄銃と物流あと切れ味 時空警察編
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。
『黒衣衆!かけあし!』
騎馬とひとが群れをなして颯爽とせつげんをかけるさまは勇往邁進という四文字熟語がにあう、そんな集団とかしていた。
怒涛の勢いで進軍するさまは凄まじく、部隊いがいにも現代の走り方をおしえていたからこそできた行軍といえた。
細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していたこれを機に信長は義昭のために二条に大規模な御所・二条御所を築いた。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭の支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた。また、同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった。
『わび、さびは重要な文化財であり資産でもある。信長どのはそれはよくりかいしておられる』
利休がそういうと深井は漫画へうげものでみた、わびさびの知識を披露しようとしたが、本物相手にへたはうてないのでしらないふりをした。
『まことに、殿は聡明であられる。叡知優れる先見の明となにものもうけいれる度量の深さはしんそこ感服いたしまする』
『ほほほ、よき部下をお持ちになられる。やはり人徳がなすしょぎょうでござるな』
利休は帽子をなおしながらいうと、お茶をたてはじめた。
作法はへうげものでみたまねをした。
実際に体験したこともあるが、本物は緊張感が違ったようだ。
『下腹部が痛むので、しばしきゅうけいをいただきたい』
深井はけつをおさえながら、ご免というと、すいませんチョップをしながら外へとでていった。
『茶屋はしょうにあわん!はらがいとうなるわ緊張して』
そういって深井が懐から収納ボックスをとりだすと、名器といわれる茶碗をこっそりとしまってもちかえった。
請求はのちに信長のもとに届き深井はひどくしかられた。
1569年8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、総勢7万といわれる軍で岐阜を出陣。23日、木造城に着陣した。
『戦場ではなぁ、無能な兵士より血やひとのあぶらのほうがやっかいでなぁ。きれなくなるのよなぁ三人もきるとあぶらがべっとりとついて』
そう柴田勝家がいいながら刀をとぐと、影法師がいった。
『そこでやくだつのがこの深井どんがもってきたマセキとやらをオイルに漬け込んで抽出した液体を粉末にして打ち粉として刀にすりこむとコーティングされてきれあじがおちなくなるんじゃ』
マセキの成分が魔力をうすくのばして液体に付随して刃物をコーティングすることにきづいた影法師は戦場でのたたかいがおおきくかわるときづいた。
一人の兵士で3人きれればよかったものをもっとおおくきれるようになるのだ、革新的である。
だが信長にとってはそれよりもおおきな課題と策略があった。
それは兵農分離による職業軍人の育成と火縄銃鉄砲隊の設立である。
農業と軍人を両立しようとするとなりたたなくなり国力がちゅうとはんぱにおろそかになってしまうので、火縄銃を扱う兵団を組織させることにした。
なぜ火縄銃かというと堺を軸に火薬を仕入れることができ、ならずものをやとって兵へと練兵し、戦力に仕上げることで戦国の世をうまくわたることができるとふんだからだ。
のちに語られる織田三段並びうちの火種であった。
織田は資産も物流もあり人材も宝庫なのでありとあらゆる算段をねることができた。
長篠の戦いに歴史は続く




