001.「魔獣に追われて」
シンヤ・レメンディス。
冒険者でもなければ、名のある魔獣使いでもない。それは雇い主の屋敷に住み込み、いいように使い潰されている、しがない調教師の少年の名だ。本来なら、血生臭い争いとは無縁の下働き。
――そのはずだった。
ブオオオオオーッ!!!
鬱蒼と木々の生い茂る森に、濁った咆哮が轟く。続けて響いたのは、太い木々がバキバキと薙ぎ倒される破砕音だ。
「くそっ……!」
シンヤは即席でテイムした狼型の魔獣に跨がり、森の中を疾走していた。狼の四肢が湿った地面を蹴り、張り出した木の根を次々と跳び越える。一度でも足を取られれば、その瞬間に追いつかれる。
そのすぐ背後まで、巨大な怪物が迫っていた。牛の頭蓋を思わせる禍々しい頭部。岩塊のように膨れ上がった人型の巨軀。それが太く長い両腕で木々を押し退け、踏み砕きながら、まっすぐシンヤを追ってくる。
しかも、追っ手はそれだけではない。木々の間を、シンヤが跨がるものと同じ狼型の魔獣が追走する。頭上では蜘蛛型の影が枝から枝へ飛び移り、地面では分裂したスライムがウニョウニョと粘つく身体を滑らせていた。
そのすべてが、シンヤひとりを狙っている。今跨がっている狼も、襲いかかってきたところを魔眼で無理やり従えただけだ。いつ効力が切れるかわからない。けれど降りれば、たちまち追いつかれる。目の奥を針で抉られるような痛みに耐えながら、走らせ続けるしかなかった。
「なんで、こんなことに……!」
理由なら、わかっていた。自分のせいだ。
どこまでも甘く、世間知らずだった自分の。
(まさか、あんなことをしてくるなんて……!)
今さら後悔してもしきれない。どうして信用してしまったのか。なぜ、わずかでも心を許してしまったのか。散々思い知らされたはずなのに、平然と同じ過ちを繰り返した。そんな自身の愚かさが、今は何よりも腹立たしい。
歯噛みし、忌々しく思う。だが今はその猶予すらシンヤには与えられなかった。木々の合間を縫うように並走していた狼の一匹が、木の幹を蹴る。その反動で向きを変え、横合いからシンヤへ飛びかかってくる。涎を撒き散らしながら開かれた口吻が、喉笛へ迫った。
「……っ!」
シンヤは前髪をかき上げた。露わになった片目には、歪な紋様が刻まれている。そのままギンと魔眼を発動。何かが繋がるような確かな手応えがあり、一瞬だけ結ばれた主従関係により、狼は中空で大きくバランスを崩した。あとはシンヤが身を屈め、頭上を掠めるその体躯を躱せば、その魔獣は無様なほど着地に失敗。
キャウンと甲高い悲鳴のあと、ゴロゴロと盛大に地を転がる。そしておそらくは何が起こったかを知ることもなく、グシャリ。荒れ狂うように追従する魔牛の掌に跡形もなく踏み潰された。
「……っ」
痛む目を押さえながら、シンヤは皮肉を込めて感謝する。わかりやすい見本だった。ここで一度でも転べば、自分もああなるわけだ。だが。
(今は、そんなこと考えてる場合じゃない……!)
今跨がっている狼との繋がりも、長くは持たない。攻撃魔法で追っ手を退けることもできなかった。シンヤが扱えるのは、魔獣を戒めるために覚えた初歩的な雷術だけだ。狼一頭を怯ませる程度ならともかく、この数が相手ではどうにもならない。
(何か、逃げる手段を……!)
必死に活路を探す。だが、それを見つけるより早く、跨がっていた狼の足がもつれた。魔眼の効力が切れたのだ。
「なっ――」
狼の背が大きく跳ね上がる。シンヤの指が離れ、その身体は宙へ放り出された。次の瞬間、背中から樹木の幹へ叩きつけられる。
「がっ……!」
肺から空気が押し出された。幹をずり落ち、膝から地面へ崩れる。どうにか顔を上げたときには、魔牛の怪物が目の前まで迫っていた。丸太のような腕が振り上げられる。
避けられない。
シンヤは残る魔力を振り絞り、再び魔眼を発動した。怪物と目が合う。一瞬だけ、主従関係が成立する。だが、これほど強大な相手を完全に支配できるはずがない。怪物の動きが、ほんの一瞬鈍っただけだ。
それでも、その一瞬にすべてを込め、身体を投げ出す。直撃こそ免れた。しかし横薙ぎに振るわれた指先が、シンヤの胸元を掠める。
たった、それだけだった。
ゴリ、と胸骨の辺りから嫌な音がした。シンヤの身体は枯れ葉のように弾き飛ばされ、地面を何度も転がった。
息ができない。
指一本、満足に動かせない。
一方、シンヤへ攻撃を加えた怪物も、頭を抱えて苦悶の声を上げていた。たとえ一瞬でも、二人の間には主従関係が結ばれていた。その状態で主人へ牙を剥けば、主従の戒めが反動となって自分へ返る。
怪物は見境なく腕を振り回し、周囲の木々や魔獣を殴り飛ばしていく。
(ざまあ、みろ……)
霞む視界で、それを見た。けれど、状況は何ひとつ好転していない。怪物の暴走を恐れ、ほかの魔獣は距離を取っただけだ。木々の間では狼が牙を剥き、頭上からは鳥獣型の魔獣がこちらを見下ろしている。
いくら何でも多すぎる。まるで、この森にいる魔獣という魔獣が、何かに呼び寄せられているようだった。
逃げ場はない。
身体も動かない。
失明を覚悟すれば、魔眼はあと一度くらい使えるかもしれないが――。
「……はっ」
乾いた笑いが漏れた。足元から、ぬるりと生温かいものが這い上がってきたからだ。
スライム。
よりによって、シンヤがもっともテイムを苦手とする魔物だった。目玉がどこにあるのかさえ、わからない。目を合わせられなければ、魔眼による主従関係も結べない。スライムの身体が、腰から胸へ這い上がってくる。
もう、どうにもならなかった。
――終わったな。
このまま呑み込まれ、窒息して死ぬ。誰の目にも触れず、森の奥でたったひとり。自分にはお似合いの、惨めな最期だ。そう思い、すべてを諦めて目を閉じた。そのはずだった。
「いや、だ……」
気づけば、スライムを押し退けようと手を突き出していた。
「放せ……放せよ……っ!」
残った魔力を注ぎ込み、なけなしの雷撃を放つ。バチリ、と青白い火花が弾けた。攻撃と呼べるほどの威力ではない。それでも、スライムの身体が驚いたように震える。その隙に、倒れ込むように地面を這った。
死にたくない。
それだけだった。土を掻き、必死に身を引きずる。けれど、最後の抵抗も虚しく、シンヤの身体はあっけなく引き戻された。粘つく感触が首筋を這い上がる。
「助、け……」
呼吸を奪われる寸前、絞り出したそれが最後の声だった。意味がないことくらい、わかっている。こんな森の奥を通りかかる者などいない。たとえ誰かいたとしても、自分の手を取ってくれるはずがない。それでも、シンヤは手を伸ばした。
往生際が悪くても。みっともなくても。そうせずにはいられなかった。
そして――触れた。
温かな感触が、伸ばした指先を包んでいる。
誰かの手だ。
「……?」
薄く目を開く。
桃色がかった被膜の向こうに、人影があった。その口元が、しきりに動いている。魔獣に襲われる様子もなく、こんな場所にはあまりにも似つかわしくない、華奢な人影だった。
「――ください。もう――ですよ。動かないで」
水の底から聞こえてくるような、くぐもった声。
「――が――と、――けますからね」
誰なのか。何を言われているのか。何ひとつわからないまま、その光景を最後に、シンヤの意識は途絶えた。




