林檎の木の妖精と一人ぼっちの王女
こちらを見下ろす怜悧な眼差しには、ぞっとするような色香があった。
不思議な事なのだが、なぜだかそんな風に思ってしまい、リアンは、相変わらずこの妖精が大好きな自分を何だかとても残念に思う。
そして、そんな林檎の木の妖精は、明らかに激昂していた。
「それとも、私の言葉などは当てにせず、王太子と王太子妃が確実に死ぬところを見に行くおつもりでしたか?」
その言葉は静かであったが、吐き捨てるような響きの激しさに打たれるようで、思わず体が震えてしまう。
けれどもリアンは、ぐっと堪えた。
先程の最後の挨拶は是非にやり直させて欲しいが、ちっぽけで愚かな人間にだって、絶対に譲れない事はあるのだ。
「ジャスワン、それでも私は、……あの二人の最期は、絶対に見ておかなければなりませんでした。この国で死んでゆく多くの無関係な人々に、この災厄を齎したのは私なのですから」
「私が、彼等を逃すかもしれないと思っていたのであれば、もう少し利口な確認の仕方があったでしょう。わざわざ彼等の前に姿を現すなど、愚かにも程がある。念の為に伝えておきますが、トレアももうおりませんから、そちらを確認に行く必要はないでしょう」
「周囲をきちんと確認していなかったことについては、反省しています」
「あなたに付与した守護がなければ、最初の攻撃で仕留められていた可能性もある。………私が間に合わなければ、この妖精どころか、最も望ましくない相手に殺されていたかも知れなかった」
ジャスワンが一瞥すると、床に倒れていた騎士が、ざあっと砂になる。
そう言えば吹き飛ばされた時の傷が痛まないと思い視線を下げると、破れたドレスのスカートはそのままであったが、血を滲ませていた肌や細かな裂傷は跡形もなく消えていた。
「………そうならずに済んだのは、あなたのお陰なのでしょう。たまたま襲われかけた時に、カリアム殿下達が災いに飲み込まれたというのは都合が良過ぎるもの」
「そのような事を察せるのであれば、自覚なさい。あなたの魔術の階位は抜きん出ていますが、先程のように後方に魔術を傾けていなくても、扱う魔術はどれも戦闘行為には向いていません。身を隠す事は出来ても、攻撃から身を守る事は不得手だ。…………だからこそ、彼等を部屋から出しておいたというのに」
「………そうだったのですか?」
まるで見ていたように指摘され驚きながら尋ねると、ジャスワンは、僅かに視線を彷徨わせた。
そこ迄は言うつもりがなかったのだろうか。
「………先程の返答と意味を、お聞きしても?」
「……………む、ぐ………」
静かな問いかけに、リアンは視線を彷徨わせた。
とてもこんな筈じゃなかったという状況だが、もうこちらには留まれないのだと説明するのに、どのような言葉を選べばいいのかが分からないからこそ、リアンは、一方的に別れを告げて立ち去ろうとしたのだ。
(復讐は、ずっと自分の為だった)
だからこそ、今のジャスワンが伸ばしてくれている手を取っても、いつかきっとリアンは後悔する。
自分で幕引きを誤ったくせに、いつかジャスワンがリアンという玩具に飽きた時になって、あなたの所為でこんなことになったのだと思うだろう。
そんな後悔で身を滅ぼす人間達があまりにも多いからこそ、魔術師達は人ならざる者達の側の境界に立ち、互いの知識を交換してきた。
一度はその役割を果たせなかったリアンが、ここでまた仕損じる訳にはいかない。
周囲は悲鳴と怒号が響いていて、みしみしぱりんと、美しく豊かであった国が滅びてゆく音がする。
暗い空の下でどこまでも続く広大な森のような災厄の顕現は、この災いに飲み込まれるのが七の州だけではないことを示していた。
「…………復讐が終われば、あなたはそれで満足か」
けれども、もう一度冷静にその申し出を断ろうとしたリアンは、冷ややかな程のジャスワンの怒りに触れてぎくりとしてしまい、そんな自分になぜだかかちんときた。
どこにも行けなくなってから、なんてことを言うのだと八つ当たりしたくなってしまったのだ。
「なぜ、私が私の終わらせ方を、あなたに問わねばならないのですか?」
「リアン………?」
「あなたは、私の家族でもなく、私の友達でもない。それにあなたは、私の復讐相手でもなかった。………ジャスワン、私の物語の頁はもう残っていません。家族が死んで、友達が死んで、守るべき民達が死んだ。よく知っている人もよく知らない人も、みんな私の国の民でした。………そして、私の国を滅ぼした元婚約者も、私を陥れた女性も、もう死にました。……………もう、私という人間の物語はここまででお終いです。元よりそのつもりで、私はこの王都に来たのですから」
ぐっと手のひらで押し戻すように。
リアンはその線を引き付ける。
リアンがきっぱりと拒絶したのは、数ある選択肢の一つではなく、生き延びる事そのものだと、ジャスワンも気付いたのだろう。
ゆっくりと瞬きをし、表情をぐっと冷ややかで静かなものにする。
「…………ですが、あなたはまだ、ここにいるでしょう。その本の中から、あなたにとって意味のある者が誰もいなくなったのだとしても」
「不思議な事を言うのですね、ジャスワン。ここにはもう、誰もいないのに」
「……………リアン……まさか、」
ふっと、災厄を齎す妖精の瞳が揺らいだ。
だからリアンは、ほんの少しだけ祈る。
ああ、どうかこの妖精が悲しみませんように。
どうか、あの夢で見たように、本当にジャスワンが悲しむような、そんな酷いことだけは起こりませんように。
(だって、私はもう戻れないのだから)
戻れない事を悲しまれたら、死ぬ時にまた悲しくなってしまうから。
「ジャスワン、あなたの知るその名前の王女は、月のない暗い夜に、凍えるような砂漠の中でとうに命を落としています。ここに私がいられるのは、その王女様が、あなた達が思っているよりずっとずっと有能な魔術師だったというだけの事なのですから。……………私が犯した罪の足跡に気付けば、やがて、死者の王が私を迎えに来るでしょう。だから私は、ここに留まり、私の犯した罪を償わなければなりません」
「リアン……………まさか、あなたは」
「言ったでしょう、ジャスワン。人間は、とても簡単に死んでしまうのだって」
遠い遠い昔に、人間の文明には、復活薬という死者を生き返らせる薬のレシピがあった。
そんなことを教えてくれたのは、ジャスワンだ。
だがそれは、世界の均衡を崩すとして、死者の王や他の高位の人ならざる者達の手で回収され、ずいぶん昔に破棄されたと言う。
けれどもそれは、かつての誰かが作り出したものなのだ。
リアンは死者の国で、そう考えた。
だからもし、その誰かと同じように、一からそのレシピを組み立て直す者が現れたなら。
そうして復活薬を使うのは何も、生者が死者にというばかりではないらしい。
死者が、己の為にその薬を使っても良かったのだ。
どんな死者でも生き返らせるという復活薬は、かつて、娘を失った魔術師が数年かけて作り上げた物なのだそうだ。
その魔術師が薬を完成させる頃にはもう娘の亡骸は埋葬されてしまっていたので、復活薬には、修復の魔術を応用させ、死者の国から戻ってきた死者の肉体を再生させる為の効能も備わっている。
そして、作り手が生者である事や、自分で飲んではならないという制約は課されていない、とても良心的な魔術薬であった。
(その知識を得られたのも、このカルフェイドの図書館だった。恐らく、カルフェイドが人外者たちの剪定の対象になっていたのは、かつて復活薬を用いた国に程近かったせいで、その伝承が数多く残る土地だからなのだろう。だからこそ私も、あの禁忌について調べる事が出来てしまったのだから)
カルフェイドの図書館に残されていた記述は、伝承の残骸のようなものでしかなかったが、見る者が見れば失われた叡智の印だと気付いただろう。
この国の人々や、優秀な筈の大国の魔術師達が興味を持つこともなかった民間伝承の頁には、復活薬を構成すると思われる材料の挿絵もあったので、リアンは、その記憶を頼りにレシピの再現を果たしたのだ。
「……………リアン」
苦し気な声に顔を上げると、ぐらりと、ジャスワンの体が揺れたような気がした。
つい腹立ち紛れの報告になってしまったことに気付き、リアンはくしゅんと息を吐く。
ジャスワンと一緒に行けないからといって、ジャスワンに腹立ちをぶつけるのは間違っている。
リアンを殺したのはジャスワンではないし、リルベリア侵攻の決定にも、ジャスワン達は関わっていないのだろう。
ただ、リアンをこの国に連れてきたのはジャスワンなのだから、少しだけ皮肉めいた言い方になったことは許して欲しい。
「……………死者の国に、戻るつもりですか?」
「ええ。私は、災いの書を開いて、死者が死者の国に行かずに生者を傷付けてはならないという規則を破ってしまいました。この後で、自ら死者の門を潜って死者の国に戻れば、私は、死者の国の鴉になるのでしょう。あちらでは、罪人はみんなそうなるのですよ。……………この世界が終わる迄、もうそこからどこにも行けなくはなるけれど、道筋を外れるような振る舞いは人生で一度きりで充分ですから」
それは、死者の国で過ごした日々で教えられたことだったが、もしかすると、復活薬を作ってしまったリアンには、もっと重い罰が待っているのかもしれない。
「死者の国の鴉は、罪人の魂が練り直されたものだ。転属には、魂を捩じ切られる堪え難いほど苦痛を伴い、殆どの死者達は鴉に転じる過程で気が触れてしまうというのに?」
「そのようですね。なので、死者の国で見付けた鴉に話しかけてみましたが、お喋りは出来ませんでした」
「だとしたらなぜ!」
ぴしりと振るうような鋭い声に、リアンは微笑んだ。
なぜ自分がそうしうるのか、それを何度も考え、そしてそうするのだと決めてここまで来たのだから。
「規則だから。それがこの世の理で、これからを生きてゆく人々の為に必要な規律だから。復活薬が地上から排除されたのには、きっと理由がある筈よ。………私は出来損ないの王女で、私の国を滅ぼす運命の分岐すら見抜けない哀れな娘だったけれど、その代わりに魔術師でした。愛する魔術と、その学びを許してくれた最愛の家族の為にも、私の祖国の教えに従い、最後くらいは誠実でありたい。既に一度、私は復讐の為に誇りを捨てました。……………なので、復讐を終えたら、もう二度と、私を私たらしめる誓いを誰かに奪わせたりはしないと決めていたのです」
それは、リアンなりに渾身の覚悟だったのだが、ジャスワンは苛立ったように瞳を細めただけだ。
ああ、種族としての価値観が違うのだなと、リアンは少しだけ対話を投げ出したくなる。
「リアン、もう一度言います。死者の国で課される罰は、あなたが思うような軽いものではない。あなたの誇りも、あなたの絶望も、そんなものは意味を成さなくなるくらいに壮絶なものです」
「……………かもしれません。私は今だってとても無知で、それがどんなものなのかを知らないのでしょう。けれども、もう約束を破るのは嫌なの。ジャスワン、…………私の本は、もう閉じてしまったと言ったでしょう?最後の頁を捲り終えてしまった今、罪を犯し続けてまで生き延びようと思う程の情熱は、もう残っていないの。だって、私にとって意味のあるものは、何もかもなくなってしまったのだもの」
本当は、そんな風にはなりたくなかったのになと、リアンは思う。
せっかく死者の国で再会出来たのに、どうしてもやり残した事があるので、復活薬を使って地上に戻ると告げたリアンを、家族達は許してくれた。
リアンは、リアンの家族をよく知っている。
彼等は、リアン一人がまた地上に逃げ出すのだとしても、どこかでやり直す事が可能ならば、必ずその先で幸せになりなさいと言ってくれるような人達だ。
正しい事の為に不幸になれだなんて、絶対に言わない。
もしリルベリアがまだあって、リアンの振る舞いが国に暮らす人達を傷付ける行為ならば許さなかったに違いないが、でも、もう何も残っていないのだ。
であればせめて、地上に向かう娘には、どうか逃げ延びて幸せになれと抱き締めてくれるような家族だった。
同じように死者の国に落とされた者達の中には、リアンの我が儘を許さなかった人もいたかもしれない。
きっと大きな対価を伴うのであろう罪を犯させる訳にはいかないからと、リアンが復活薬のレシピを分け与えなかった事を恨む人もいるかもしれない。
それなのにリアンの家族は、長い長い議論の末に、死者の日にリアンを地上に逃してくれた。
(だから私は、…………大事な家族の為に、それが正しくない事でも、家族を安心させて喜ばせられるように、幸せになれる私でありたかった)
死者の王の逆鱗に触れるであろう復活薬に手を出せば、どうなるかくらいは誰にでもわかる。
それでもと娘を地上に送り出した家族は、リアンが、その先で奇跡のような幸運を手に入れ、逃げ延びられるかもしれないと考えたのかもしれない。
でも、もう疲れた。
もう疲れたのだ。
疲れ果てて、どこにも行けない。
大切にしていたものの全てが、テーブルの上から落とされて粉々にされた。
もう二度と、あの希望や願いは戻らない。
祝祭日を楽しみにして街のお店で焼き菓子を買うような日常や、家族とたわいもないお喋りをしてわらうような、この世界で生きている普通の人々が普通に望めるような幸福は、もう、リアンの手からはこぼれ落ちてしまったのだ。
歯を食い縛って幸せになろうとしたら、また頑張らなければいけないではないか。
ジャスワンに選択を問われた時、リアンはそんなことに気付いてしまったのだ。
疲れ果てたこの心で死者の王から逃げ回り、気紛れな妖精の興味がいつ尽きるのだろうかと怯えながら自分の心を生かすだけの情熱は、もはや燃やしようがない。
(ごめんなさい、………みんな)
みんなは、地上に戻ったリアンの目的を察してはいても、リアンなら、その後も諦めずに生き抜こうとするだろうと考えてくれるだろうに。
それなのにリアンは、今更、それが正しい事だからと、託された思いごと自分を投げ出そうとしている。
でも、家族のよく知る好奇心が旺盛で、魔術の学びの為なら何日も徹夜してしまうようなちょっと変わった王女にだって、この仕打ちはあんまりだった。
リアンが憧れるようなみんなとは違う作りの心だとしても、リアンの心だって、限界があるのだ。
とは言え、リアンの目の前にいるのは、災厄を司る林檎の木の妖精である。
一度はリアンに選択権を与えてくれても、それは彼の言うように己の失態の対価としてなのだろう。
その手を取らずに振り払ってしまうことになる以上、もう自分は退場するのだと、きっぱり伝えておかねばならない。
(どうしてジャスワンが、私に力を貸してくれたのかは、最後までよく分からなかったな)
リアンが死んだ時に感じた失望は、災厄を司る妖精すら、感傷的な思いにさせたのかもしれない。
だが、災厄を好むものだからこそ、リアンのように、己の欲望の為に国を滅ぼすような邪悪さを好むのかもしれない。
(それならば尚更、もうこの人間で遊んでも楽しくないのだと、しっかりと理解して貰わねばならないのだわ)
きりりと背を伸ばし、リアンは真っ直ぐにジャスワンの瞳を見上げた。
妖精程に人間に近しく、けれども恐ろしい生き物はいないだろう。
だが、彼等の問いかけにきっぱりと首を横に振り、その魔術侵食に対抗し得るだけの魔術の才があれば、妖精の誘惑を退けることは決して難しくはないのだ。
(だから、これが私の魔術師としての最後の仕事)
ジャスワンにお別れをして、ここから死者の国に戻るまでが、リアンの後始末だ。
しかし、自分を見上げた人間を一瞥し、美しい林檎の木の妖精は、薄く微笑んだ。
リアンはなぜか、その美しく恐ろしい微笑みが、ひどく悲しげに見えたような気がして、目を瞬く。
なぜだか、ほんの一瞬だけ。
一瞬だけ、この恐ろしく美しい妖精が、あの夢の中の後ろ姿のように、打ち拉がれて泣いているように見えたのだ。
「……………であればあなたは、災いというものを軽んじたようだ。魔術師らしい浅はかさで、魔術師らしい盲目さで、それが決して魔術の成果などではなく、あらゆる物を侵食し奪い去る、ただの災厄だという事を失念していたのでしょう。……………知っていましたか?リアン。妖精はとても狭量で、人間に祝福を与えもしますが、一度手に入れた獲物は、決して手放さないのだと」
「……………ジャスワン?」
伸ばされた手にぎょっとして後退りしようとしたリアンは、いつの間にか周囲の景色が、深く暗い夜の森に変わっている事に気が付いた。
空を見上げる程に高く茂っているのは、艶々とした真っ赤な林檎を実らせた林檎の木で、そのどこにももう、王宮の景色は残っていない。
それは、リアンが、ぞっとして身を竦ませるくらいに禍々しく美しい夜の森であった。
「三年前のあなたと私の契約は、成立しませんでした。………ですが、敢えて契約を放棄した私の提案をあなたが受け入れないのであれば、この国を喰らい尽くした私が、その最後の獲物であるあなたをここから逃さないという結末もあり得ます」
「…………ジャスワン、ずっと言おうとしていたのですが、………その、やはり、私を回収したり、食べたりするのはあまりお勧めしません。死者の王は、きっと、こんなちっぽけな人間の一人であっても、私が赦されざる罪を犯した事には気付いているでしょう。そんな怒れる死者の王の獲物を横取りしても、あなたには何の利益もないでしょう」
「そうだとは限りませんよ。…………それに、死者の王であればもう、この国に来ている。国を滅ぼす災いが開かれ、これだけ多くの人々が死に絶えた今、死者の行列を率いた死者の王が来ない筈もない」
(……………あ、)
その事に気付き、リアンは、はっとした。
これ迄、戦争などには縁のない小国で生きてきたリアンは、その穏やかな国が滅びた時のことは知らない。
滅びゆく国を死者の王が訪れるというのは、おとぎ話の中のことではなく事実なのだと知っていたし、自分だって死者の国にいたくせに、その訪れが実際にどうやって成されるのかは図りかねていた。
しゃん。
しゃりん。
どこからともなく、硬質な、鎖を鳴らすような音が聞こえて来る。
もしかするとそれは、鎖ではなく錫杖を打ち鳴らす音かもしれないし、石畳の地面を引き摺る剣先の音かもしれない。
(何かが来る…………)
何か、とても悍しく恐ろしいものが。
それは、目の前に国一つを喰らってみせた災いの妖精がいても、その恐ろしさとはまた違うのだ。
夜の森の向こうから、黒く黒く煮詰めた夜の闇がひたひたと近付いてくるような、凍えるような空気がゆっくりとこちらにやって来る。
(あ………!)
気付けば、森の向こうには、奇妙で美しい一団がいた。
あれが噂に聞く死者の行列だろうかと、思わず目を丸くする。
「…………っ?!」
いきなりジャスワンに腕を掴まれ、震え上がっていたリアンは飛び上がった。
しまったこちらもいたのだと呆然としていると、短く舌打ちしたジャスワンが、どこか彼らしくない乱暴な仕草でリアンの顎を持ち上げ、ふっと唇を重ねた。
「これで足りないかもしれないな………」
「な、何が?!…………と、というか、私に何をしたのですか?!」
口付けの意味は、人間と人ならざるもので違う。
人間も魔術的な意味で口付けをするが、人ならざる者達の口付けは、それ以上に魔術的な意味を持つ。
(だって、情欲の行為に紐付かない妖精の口付けは…………、)
それは確か、愛情に基づく守護や祝福を示す行為ではなかっただろうか。
そう思い至り、リアンは完全に固まった。
なぜなのだと目を瞠ってジャスワンを見上げていると、苦々しくこちらを見た美しい妖精は、途方に暮れているリアンの唇にもう一つの口付けを落とした。
「……………くち……………むが?!」
おまけに、その直後に今度は、何やら薄っぺらいものを唇に押しつけられ、リアンはむがっとなる。
「守護の最上位の口付けと、求婚にあたる妖精の内羽への口付け。これで足りればいいが」
「……………もしや私は、たった今、力尽くであなたの羽に唇を押しつけられ、あなたに求婚した事にされたのですか?!」
「……ええ、その通りです。これで、たった今からあなたは私の求婚者で、私はそれに応えましょう」
「きゃ、却下して下さい!」
「大人しくしていなさい。どうしても嫌であれば、後で破棄して差し上げますから。………私としては、あなたを手放すのは不本意ですがね」
「…………不本意?」
「とてもね。……さて、これで、あなたは私の婚約者だ。羽の庇護を与えた、妖精にとっては最上位の守護と約定を集めた立場になる。……………だが、死者の王を説得するには、何か対価も必要だろうな」
「…………ジャスワン?」
こちらを見ずに独白のように呟いたジャスワンに、思わず、突き放す為に纏った余所余所しさを落としてしまったまま、その名前を呼んでいた。
その響きにこちらを見たジャスワンが、痛みを堪えるような目をする。
綺麗な赤い瞳を見返し、リアンは今度こそ理解した。
この妖精はなぜか、深く深く傷付いている。
怒っていて、悲しんでいて、どこかで絶望し、そして、老獪に策を巡らせているのだと。
「もしかしてあなたは、………私を、………ええと、………まだ助けようとしているのですか?」
「おや、やっと分かったようだ。であれば、逆らわずに大人しくしているように」
「なぜ、……………?だって、相手は死者の王なのですよ?いくらあなたが林檎の木の、それも六枚羽の妖精でも、…………死者の王をどうこう出来る生き物なんて、この世界にはいません」
「……………真っ白なシーツを敷いて、花瓶に好きな野の花を生け、昼過ぎまで寝台の上で好きなだけ魔術書を読んで過ごしたいのだろう?」
「ジャスワン…………」
それは、哀れな王女が、部屋に様子を見に来てくれた部屋付きの妖精に語った、たわいも無いこと。
叶うことのなかった、遠い日の願い事だ。
「薔薇の庭園を歩き、自分が魔術師である事を恥じずに、誰かと魔術の話をしてみたいのだろう?好きなだけ本を読み夜更かしをして、真夜中にケーキを食べたいのではなかったのか?」
「……………でも、……………それは」
「私は、君にいつかそれを叶えると約束をしたのに、まだ、その約束を果たしていない」
「……………ジャスワン」
ぽたりと、涙がこぼれた。
慌てて拭い、その涙の温かさに、わあっと声を上げて泣きたくなった。
毎日届けられる薔薇の花に、甘いお菓子のお土産。
綺麗なレースや、リアンが喜ばない宝石ではなく、結晶化した果実やきらきら光る星の光を映した砂漠の砂など。
この国に来てから、誰も訪ねてくれない林檎の国の王女の離宮に、お土産を持って欠かさず毎日来てくれる美しい妖精に、リアンは、もう一度恋をした。
あの高慢そうな王子ではなくこの人が王子様だったら良かったのにと馬鹿げた事を思い、彼とお喋り出来る時間を、毎日こっそりと楽しみにしていた。
でも、どれだけリアンが不出来な王女でも、婚約者として連れて来られた大国の手のひらからは逃げ出せないことくらいは分かっていた。
自分一人であれば魔術を使って逃げ出す事も出来るが、国を背負ってこちらに来た以上、そんな無責任な事は出来ない。
それに、この国でずっと暮らせると思う程、リアンとて甘くはなかった。
使い時を過ぎれば、小国の王女程度の存在は簡単にいなかった事に出来る。
だから諦めたのに。
諦めてしまったけれどそれでもと触れた、あのお喋りは、そんなリアンの最後の安らぎであった。
「……………動かないで下さい」
不意に押し殺したような低い声が聞こえ、リアンは、いつの間にか鮮やかな赤い羽の内側に隠されていた。
ぞっとするような重い重い空気がのし掛かり、息が止まりそうになる。
「……………っ、」
突然、びゅおんと冷気が襲いかかってきた。
あまりの寒さに凍えそうになって、がちがちと歯を鳴らして震えるリアンを、ジャスワンは、よりしっかりと抱き締める。
でも、あんなにこの妖精の企みから逃げ出そうとしていたのに、あんなにもう終わりにして大人しく罪を償おうとしていたのに、リアンはなぜ、ジャスワンの腕の中で震えているのだろう。
(ここから飛び出して死者の王に平伏し、罪を償うと言うべきだ)
それで、リアンの長かった冒険も終わる。
その罰がどれだけ重くても、大切なものが全部なくなってしまった胸をかき抱いて一人ぼっちの夜に泣かなくてもいい。
疲れ果てた体を引き摺って生きる日々も、もうお終いだ。
もう、何もないのなら。
(でも、……………私には、本当にもう何もない…………のだろうか)
では、ここにいて、無知な王女のちっぽけな願いをまだ叶えていないと言うジャスワンは、何なのか。
誰もいない砂漠の夜に、泣きながら死んでいった哀れな王女が捨てた救いのない恋心は、まだ生かしておいてもいいのだろうか。
けれども、だとしたらいっそうに、この妖精を巻き込まないようにここから逃げ出すべきなのでは。
そんな事を考えて心をばらばらにしていると、こつりと、誰かの靴音が聞こえた。
「林檎の木か。…………相変わらず、あまりにも無慈悲に多くを殺す災いだな」
聞こえてきた声に、ひゅっと息を飲む。
ジャスワンの羽に視界を遮られていて何も見えないけれど、これが死者の王の声なのだと理解し、一気に冷たい汗が流れた。
「この国の剪定は、必要な措置だった筈ですよ」
「ああ。俺もそろそろだとは思っていた。………だが、この災いは、残った命を新たに育むべき土地まで殺してしまう。もっと他にやりようがあった筈だ。…………ジャスワン、そろそろ妖精の国に戻ったらどうだ?あちらでは、なかなか国に戻らない王弟に、何度も使者を送っていると聞いているぞ」
「では、そうしましょう。その代わり、彼女は妖精の国に連れて帰ります」
ジャスワンの言葉に、ひやりとするような沈黙が落ちる。
ややあって響いた死者の王の声は、ぞっとする程に冷たかった。
「それは罪人だ。この地上にあってはならない薬を作り、使った。人間の世界に戻されてはならない物を作る才を持つというだけでも、地上には残しておけない」
「彼女を、どうするつもりなのですか?」
「死者の国には、その薬を扱った者達の為の区画がある。死者の国が存在し続ける限り燃え続ける国だが、そこに収監するのが妥当だろう」
「それは、彼女が二度と復活薬を作らず、尚且つ私が二度と自分の意思で地上に現れないということと引き換えにしても、必要な措置でしょうか」
(……………二度と、地上に?)
ぎょっとして声を上げそうになったが、リアンの性格を熟知していたものか、ジャスワンが先んじて大きな手でリアンの口を覆ってしまった。
むがっとなったリアンはじたばたしたが、人間が人外者の力に敵う筈もない。
「……………林檎の木の王族の中でも、ここまで大きな国を喰らう程の災いを有しているのは君だけだ。最も凄惨な災いを持つ君を地上に出さずに済むのであれば、………一考には値するか。差し出す誓約は、自分の意思ばかりか?」
「召喚の魔術などについては、こちらでは防ぎようがありません。自分ではどうにも出来ない事も誓いに含め、庇護する者を取られては堪らない」
「相変わらず狡猾な事だ。……………では、それを約定としよう。ただし、その人間は早々に妖精に転属させてくれ。復活薬を作れるのは人間だけだ。人間でいる内は、その人間が約束を破らないという保証はない」
「ええ。すぐにでも花嫁にしてしまいましょう」
その言葉にまたリアンは暴れたが、ジャスワンの手は外れなかった。
「死者達の回収の間、…………そうだな、夜明けまでを猶予としよう。もしも誓いが破られた場合は、その対価は君の命かもしれないぞ」
「終焉を司る者らしい取り分ですが、それで構いませんよ。夜明けまでには、彼女を連れて妖精の国に戻ります」
「………守護を与えていた善良な人間達が酷い殺され方をし、そんな死者達を迎えに来るのは、俺とてあまりいい気分ではない。君の腕の中に隠されている人間が、………旅人として訪れた俺を、変わらず手厚くもてなしてくれたあの国の子供でなければ、こんな取り引きには応じなかったかもしれないがな」
どこか自嘲的なその声音に、リアンは思わず動きを止めた。
ジャスワンの羽で見えないが、そこにいるのは死者の王なのだろう。
けれども、生きた人間が見れば目が潰れるとも言われる死者の王の声は、どこか疲れたような哀しみが滲んでいた。
『健やかに、善良に。そして楽しく優しく生きてゆけば、多くの幸いが訪れるものだ』
そう言って笑っていた父の顔が、隣で微笑んでいた母の顔が思い出される。
(……………ああ、)
ああと、胸を押さえて涙を飲み込んだ。
死者の王の与えてくれた特赦は、ジャスワンが自分を対価のお盆に載せてくれたからこそ成されたものだ。
けれども、そうして自分に恥じる事なく正しく生きていたリアンの大事な家族もまた、この瞬間にリアンを救ってくれたのだ。
(………私は、立派な魔術師になりたかった)
生真面目にひたむきに生きる人々の中で、異端だったリアン。
そんなリアンが諦めて投げ出してしまった、千年近く変わらず続く清貧な生活を送っていた人々こそが、ここで、死者の王の心すら動かしてみせる。
本当に凄いのは、そんな人々の生き様こそだろう。
リアンの愛した家族は、あの国の民達は、こんなにも凄いのだと、声の限りに皆に自慢したくなった。
簡単に踏みつけにしていい命ではない。
死者の王すら動かす、特別な人達だったのだと。
ざざんと、柔らかな初夏の風に林檎の森が揺れる。
甘い香りのする林檎の花と、朝早くから働く勤勉で頑固な人達の、優しくてひたむきな笑顔。
遠い丘の上で手を振る家族が見えたような気がして、リアンは嗚咽を飲み込んだ。
リアンが壊してしまったあの美しい国が、最後にリアンを守ってくれた。
(お父様、お母様、………お姉様にお兄様達。小さな妹達に、可愛いローアン…………)
会いたくて会いたくて、でももう二度と会えない大切な家族。
このままリアンが妖精の国に迎えられるのなら、死者となった家族に会う事はもう二度と叶わないだろう。
でもきっとみんなは、彼等を大事にしてくれる死者の王がいる死者の国で、最後の穏やかな日々を過ごし、また新しく健やかな命に生まれ変わる。
今度こそきっと、幸せなまま生きて、その命を誰にも脅かされる事のないように。
林檎の木の妖精の国に行くのなら、これから向かうところでもきっと、林檎の花が咲くだろう。
「君達を守れなくてすまなかった。例え守護を与えた者達とは言え、個人的な執着から終焉を退けるということは、俺の役割的に許されていないんだ」
「………っ、いいえ!…………いない?!」
「もう立ち去られましたよ。………リルベリアを守護していたのは、死者の王でしたか」
なんとかしてお礼を言おうと、ジャスワンの羽の中から飛び上がって顔を出したリアンは、死者の王がもういなくなってしまったと知ってしょんぼりした。
くしゅんと項垂れたその頬に、そっとジャスワンの手が触れる。
「ひとまずは、あなたを私の花嫁にします。どうしても不快であれば、妖精の国から出る事は出来ませんが、離縁して差し上げますから、少しの間は我慢して下さい」
「………もしかして、ジャスワンは私が好きなのですか?」
「……………ほお。今の今まで、少しも想像しなかったという表情ですね?妖精に限らず、人外者が誰かに食事を振る舞うのは、求愛の証ですよ。あなたは、魔術師でありながらそんな事も知らず、あちこちで食べ物を与えられていたようですが」
「ちょっと素敵な雰囲気になるべき瞬間なのに、なぜ叱られているのだ……」
深い深い森の中。
けれどもここは、一つの国を飲み込んだ災いの底。
今も死者の行列が森の向こうを歩き、おまけにリアンは元死者だ。
(ジャスワンが、…………私を?)
けれども、遅れて先程の言葉の意味を噛み締め、目を丸くして呆然としているリアンにこちらを見た妖精は、はっとする程に安らかな優しい目をして微笑む。
「やっと、あなたを手に入れました」
「…………でも、結局私は、復讐も死者の王との交渉も、全てをあなたにさせてしまいました。もう二度と地上に…」
「そんな事で泣く必要はありません。騎士の役目としてお引き受けしますよ。…………ただし、これからは一時的にとは言えあなたの伴侶となるのですから、あまりにも無謀な振る舞いをしないよう、厳しく指導してゆかねばなりませんね」
どこか遠い目でそう言ったジャスワンに、涙を拭われながら、リアンはくすりと笑った。
とっておきの秘密を告げるのなら、きっとここがいいだろう。
めでたしめでたしで終わる物語は、こんな風に締め括られる事が多いのだ。
失ったものが多過ぎても、この先に行くと決めるのなら、テーブルの上の宝物がもうなくても、罪を背負っていても、この先の道を照らすような、きらきらと輝くような希望を持って。
「……………ジャスワン、私の好きだった方はジャスワンなので、その、………離縁はしないで欲しいです」
「……………私が、……?」
「ええ。私は、リルベリアの林檎畑で出会った妖精に恋をしたので………ぎゃ!!なぜいきなり、持ち上げられたのですか?!下ろして下さい!!」
「………抱き上げるのにも苦労するとは、これからは、是非にあなたの情緒を育ててゆきませんとね。幸い、あなたがどれだけ厄介な生徒でも、これから時間は幾らでもあるようですから」
「なぜ教育の話になるのだ………」
その夜、とある強く豊かな国の州都が一晩で滅び去り、翌朝までに幾つもの州都を失ったその国は、大樹が腐り落ちるように衰退して滅びたという。
その国を滅ぼしたのが、幾つもの都を覆った林檎の木の災いであることを多くの人々が知っていたが、それは、数年前に滅びた林檎畑の有名な国の齎した災いだと言う者達も少なくなかったそうだ。
かつてリルベリアという国だった場所では、死者の日に地上に戻った国民達が、見たこともないような美しい妖精達と一緒に夜通しお祝いをしていたという噂もある。
リルベリアの国の跡地は、その後、林檎の木の妖精達が治めることになり、深い深い林檎の森の奥には、美しい王宮が造られたという。
だが、妖精に取られてしまった土地は人間には立ち入れず、やがて、地図上からもその土地の名前は消されてしまったそうだ。
本日は、二話更新させていただきます。