五話 神は言っている。ここで死ぬ運命ではないと
結論を端的に言おう。清場和仁は殉職した。
享年二十六歳。警察庁重犯罪対策局特務執行課札幌派出所所属、階級は警部。彼はホテルへの移動中に襲われた自由アメリカ北西区大統領ウィルソン氏を庇って射線に入り、右眼窩から突き刺さった弾丸に脳を蹂躙されて即死した。
和仁が死ぬ直前の時点でSPは三人残っていた。かつて陸軍に所属し名誉勲章の受章暦もある大統領は、襲撃に対してハリウッドのアクション映画ばりの素晴らしい反応を見せ、突然操作が効かなくなり八百屋に突っ込んだ車の車内から素早く脱出。直後に爆発した車の爆風を背に受けて転がりながら横転した後続の車両の陰に飛び込んでいた。
ビルとビルの間の路地から覗いた銃口を奇跡的に発見できた和仁は反射的に飛び出して大統領の盾になり、銃弾を受ける。そして当たり所が悪く死亡。記憶しているのはそこまである。
和仁の死後、大統領と日本の行く末がどのようになったかは分からない。脳を完全に破壊された和仁に蘇生の見込みは全く無く、生物から単なる肉に成り下がった。強いて哲学的に表現するならば無に還ったのだ。
それが和仁の生死観であり、閻魔の裁きを受けたり、ヴァルハラに招かれたり、極楽浄土にたどり着いたり、自縛霊になったり、という魂の存在を前提とした状況に移行するのは全く以って有り得ない。
はずなのだが。
「話をしよう――――あれは今から四百六十……いや、百四十年前だったか……まあいい。私にとってはつい昨日の出来事だが、君にとっては多分明日の出来事だ」
「……はい?」
死んだと思ったらわけのわからない事を言う男が目の前にいた。金髪碧眼の、顔にも体格にも取り立てて特徴の無い二十歳前後の男だ。これまた特徴の無い無地の紺の長ズボンとTシャツを着ていて、まるで駅のホームで電車を待っているかのような何気ない立ち方で白い部屋の中央に立っている。
八畳ほどの部屋だ。中央を丸テーブルが占めていて、その上に柳模様が美しいティーポットとカップが一セット、白い紙の束と万年筆が置かれている。天井では蛍光灯が優しく光っていた。後ろを振り返ると出入り口らしいドアがある。
「?」
和仁は戸惑いながら自分の手を見た。記憶にある通りの手だ。服も警察の制服のまま。
手をにぎにぎしてみたが、何も異変は感じない。体が透けているとか浮遊感があるとか、その手の超常的なモノを想起させる感覚も無い。記憶が飛んでいる事を除けば、ごく普通に白い壁紙の部屋に招かれたように感じる。
死んだはずなのに、当たり前の様に続きを体験している。あまりにも日常的な状況に置かれたせいか混乱はしなかったが、困惑した。
顔を上げて前を見ると、男は変わらずにのんびりと待っていた。金髪という事で副大統領の手の者に拘束されたかとも考えたが、それにしても不審な点が多すぎる。
敵意は感じない。さっぱり状況が掴めない和仁は若干の警戒心を抱きながらも聞いてみる事にした。
「あの、ここはどこでしょう? あなたは?」
「ここはエーリュシオンで、俺は人間を転生させる転生神のようなものだ。その手の質問はマニュアル化されている。念のため確認しておくが日本人だな?」
「アッハイ」
「じゃ、これ。それを読んでもまだ質問があるなら随時受け付ける」
和仁は自称「神のようなもの」からガイドブックを受け取った。椅子を勧められ、促されるまま座って読む。
子供にも分かるように絵や易しい言葉を使って書かれたガイドブックには、驚くべき事が書かれていた。内容をまとめると以下のようになる。
・ここは地球で死んだ死後の魂が訪れる異世界である
・現在は一時的に肉体を与えている
・エーリュシオンはガイア産の知識や文化情報を必要としている。
・情報を提供して欲しい。得られた情報はエーリュシオンの技術発展に使われる。
・提供した情報の質と量に応じ、対価として正式な肉体に入ってエーリュシオンで生きたり、特典を貰えたりする
末尾に書かれた特典の例まで読んだ和仁は胡散臭げに「神のようなもの」を見た。「神のようなもの」は何をするでもなくぼんやりとしている。
異世界。そんなものが本当にあるのだろうか。和仁は宇宙が複数存在するという説を支持しており、別の宇宙という意味での異世界ならば有り得ると考える。ガイドブックにはサラリとエーリュシオンには魔法が存在すると書かれていたが、宇宙が違えば存在する粒子も違う可能性がある。地球が存在する宇宙の粒子とは異なる粒子によって起きる物理現象が、地球人には魔法のように見えるのだろう。
しかし粒子が違う――――別の物理法則に支配された宇宙に人類と意思疎通ができる知的生命体が発生するとは到底思えなかった。確率的にありえないと言っても差し支えない。が、実際こうして対面している。
故に和仁はこう考えた。ここは遥か未来の科学が進んだ地球で、昔の人類の科学や文化について調査しているのだと。高度に発達した科学もまた魔法に見える。遥か昔に死んだ人間を復元する程度造作も無いに違いない。
と、考えてすぐにそれならそうと言えばいい事に気付く。わざわざ異世界などと言う必要は無く、未来と言っても問題ない。あまりにも時代が離れていれば同じ世界でも異世界のようなものかも知れないが……
推測が間違っていて、自己完結して勘違いしたまま話が進んでしまうミスを避けるために和仁は自分の意見を「神のようなもの」に語った。
「……と、いう事では無いのでしょうか?」
「いや違う。そこに書いてある通りだ。ほれ魔法。ぽぽぽぽーんっと」
あっさり否定された。「神のようなもの」は手から水や火を出し、手も触れずにティーポットを宙に浮かせた。確かに魔法だ。
和仁はまた悩みそうになったが、悩んでも無意味である事に気付く。和仁が現状を把握するための情報源は「神のようなもの」のみで、彼が嘘を吐いているか本当の事を話しているか知る術は無い。
どう考えてもどう行動しても、結果的に和仁の選択肢は二つしかないのだ。
情報を話すか、話さないか。
「…………」
和仁はもう一度末尾の特典例を読んだ。『地球への帰還は現状不可能』『ただし将来的に可能になる可能性アリ』という文を確認する。
和仁は妻を置いてきてしまった。叶うものなら帰りたい。
「地球への帰還が可能になるまで冷凍保存状態で過ごし、可能になり次第帰還という事はできますか?」
「できるが冷凍保存中もエーリュシオンとガイアは同じ速度で時間が経過する」
「帰還実現まで最短で何年かかります?」
「最短で? ……八十年を割る事は無いだろうな。今のペースで行けば五、六百年ってとこか」
無理だった。最短の八十年ですら和仁の知り合いは全員三回ぐらい寿命が尽きる。
落胆はしたが、事実上無理だと言われた事で和仁の決意は固まった。話す事にしたのだ。
和仁が帰りたがっている事が「神のようなもの」には伝わっただろう。「神のようなもの」はここで嘘を吐き、一年二年で実現すると言う事ができた。「情報を話してもお前の願いは叶わない」と言うよりも、「情報を話せばお前の願いは叶う」と言った方が普通話したくなる。「神のようなもの」にとってはそちらの方が都合が良い。
にもかかわらずそうしなかったという事は、詐欺ではなく本当に和仁の自由意志を尊重しているという事だ(※)。メリットの無い正直さを示した「神のようなもの」ならば、情報を渡しても悪用される恐れは低いだろう。
和仁は「神のようなもの」は信用に値すると判断した。
地球に心残りはあるが、帰れないならばどうしようもない。異世界で生きるのも悪くない。
趣味の読書と絶対記憶能力のお陰で知識は大量にある。大部分が役に立たずに終わるはずだったが、死んでからこれ以上ないほど役立とうとしている。人生何が幸いするか分からないものだ。対価もかなり要求できるだろう。小雪の魂がここに来た時に、小雪が望むなら便宜を図って自分と再会できるようにしてもらうのも良い。
「分かりました。話します」
「それは良かった。記憶が曖昧になってる知識でもこちらで検証して確認するから、気楽に喋ってくれればそれでいい」
「いえ、生前絶対記憶能力があったのでその心配は無用です」
「え?」
「読書が趣味で多方面の本を読んできたので話せる情報はかなりの量になると思います」
「え?」
「では『あ』行の『アーク灯』から。
アーク灯は密封された管内でイオン化した気体に放電させることにより発光させる放電灯の中でも ナトリウムランプ、メタルハライドランプ、スカンジウムランプ、ガリウムランプ、キセノンランプなどを指す照明用途に用いられるアーク放電管。一般にアルゴン、ネオン、クリプトン、キセノンなどの希ガス、または水銀、ナトリウム、ハロゲン化金属などの金属蒸気が用いられる。金属は通常液体、または固体の状態で放電管内に封入され、放電の熱で蒸発することで管内に満たされる。 金属単体で用いられることは無く、起動のための希ガスが含まれる。アーク灯には複数種類が存在するが、単にアーク灯と言った場合、普通炭素アーク灯carbon arc lampを指す。これは二本の炭素棒の電極に電流を通し、そこに生じる放電の白熱光を用いた電灯。炭素棒はアーク放電により先端部より消耗するので、発光を維持するには電極間の距離を調整する機構を要する。炭素棒を並行に並べることで、距離調整を不要としたエレクトリック・キャンドルと呼ばれる形式も存在する。照明に用いられる場合は強すぎる光を抑制するため、周囲を着色ガラス等で覆う。 エネルギーの大半が熱として放出されるため、照明としての効率は悪い。なお、放電が弓形、すなわちarcに起こる事が語源となっている。『アーク放電』electric arcまたは電弧は、電極に電位差が生じることにより、電極間にある気体に持続的に発生する放電の一種。負極・正極間の気体分子が電離しイオン化が起こり、プラズマを生み出しその上を電流が走る。結果的にもともとは伝導性のない気体中を電流が流れることになる。この途中の空間では気体が励起状態になり高温と閃光を伴う。アーク放電は、基本的に低電圧、大電流の状態で発生する。この現象は1802年にロシアの物理学者 ヴァシーリー・ウラジーミル・ペトロフによって発見された。電流や電場で非直線状の様々な形の電弧が創発される。ふたつの電極の間の気体の場に起こり、高い温度を発生する。この温度は時に金属を溶かし、蒸発させる程度に高くなる。スパークは瞬間のみの放電であるが、電弧は連続的に放電される。電弧は直流回路、交流回路のどちらでも起こる。後者の場合、回路の半分の周期で再度衝突する事がある。電弧は白熱放電とは違い、電流の密度がかなり高く、空中を通ることでの電圧低下は少ない。陰極では一平方センチメートルの範囲にある電流の密度は100万アンペア近い。電弧は電流と電圧の比例関係にはない。電圧などによって一度電極同士の間の空中に回路ができる、あるいはグロー放電からの連続や接続された電極を離すと電流が増加し、結果低い電圧でも放電できるようになる。負のインピーダンスの効果のため、安定したアークを維持するには幾つかの回路に正の電気のインピーダンスを必要とする。この特性でコントロールされていない装置の電弧は破壊的になり、これが始まると破壊されるまで固定電圧が供給され、ますます電流量が増える。アーク放電は負極からの電子放出の形態により、負極の加熱により起こる熱電子放出による熱陰極アークと、負極表面に存在する非常に強い電界により直接電子が放出される冷陰極アークに分かれ、負極が炭素・タングステンなどの高沸点材の場合は熱陰極アーク、鉄・銅・水銀などの低沸点材の場合は冷陰極アークになるとされるが、不明な点も多い。また、放電路における気体分子の電離も電極間の気体圧力により異なり、低圧の場合はグロー放電同様α作用によるが、高圧では熱電離が主となる。電弧は溶接、プラズマ切断、放電加工、アークランプ、映写機、ステージのスポットライトなどに使用されている。アーク炉は鉄鉱石とその他の金属を生産する際に使われている。炭化カルシウムはアーク炉で2500度ほどの膨大なエネルギーをかけて生産する。低圧電弧を光源に使うことも多く、蛍光灯、水銀灯、ナトリウム灯、カメラのストロボなどに使用され――――」
「……え?」
間章終了。クッ、転生神……一体何バートなんだ……
※
和仁が死んでも代わりはいるもの。
実際には捕獲した魂はコピーとってあるので、「この」和仁が情報話すのを拒否して消滅を選んでも、次の和仁を再生して手を変え品を変え聞き出すまでです。
なお、情報の対価は情報を話した魂にのみ適用されます。