0秒03の距離
第49話「0秒03の距離」
11秒42。
11秒45。
わずか0秒03。
鹿児島高校の放課後に行われた一本のタイムトライアル。
公式大会ではない。
観客もいない。
全国中継もない。
それでも。
大石早苗と川端莉央が記録した数字は、県内の陸上関係者の間で瞬く間に広まった。
ユースオリンピック金メダリスト、大石早苗。
高校二年生。
11秒42。
そして。
高校一年生、川端莉央。
11秒45。
その差。
0秒03。
世界一の先輩を、入学したばかりの後輩が追い始めていた。
世界も止まらない
しかし。
速くなっているのは鹿児島高校の二人だけではなかった。
放課後。
有馬監督が新しい記録一覧を掲示した。
「大石、川端」
「はい」
「見ておけ」
二人が並ぶ。
早苗の目が動く。
国内。
林田舞。
11秒38。
「舞ちゃん、また縮めた!」
早苗が声を上げる。
さらに海外。
アメリカ。
エマ・ジョンソン。
11秒36。
ジャマイカ。
ケイラ・ブラウン。
11秒35。
「うわ」
莉央が思わず声を漏らす。
「11秒35……」
早苗は数字をじっと見る。
アトランタでは、自分が11秒39で世界一になった。
だが今。
その11秒39ではトップに立てない。
わずか一年足らず。
世界は、それだけ進んでいる。
さらに。
アトランタには出場していなかった新しい名前もあった。
アメリカの一年生世代。
ソフィア・カーター。
11秒43。
オーストラリア。
ミア・ウィルソン。
11秒44。
そして日本でも。
関東の高校へ入学した一年生。
高瀬美羽。
11秒47。
莉央がつぶやく。
「一年生で11秒台前半が、ほかにも……」
「うん」
「大石先輩」
「何?」
「怖くないですか?」
早苗は少し考えた。
そして。
「楽しみじゃん」
莉央が早苗を見る。
「楽しみ?」
「だってさ」
早苗は記録一覧を指さした。
「ケイラが11秒35。エマが11秒36。舞ちゃんが11秒38。僕が11秒36。莉央が11秒45」
「はい」
「そこに知らん一年生まで入ってくる」
早苗は笑う。
「めちゃくちゃ面白くなってきたじゃん」
「……」
「僕一人だけ速くなっても面白くないよ」
莉央。
「世界一を取られるかもしれませんよ?」
「取られたら取り返す」
即答だった。
「僕だってアトランタでは、ケイラとかエマを追いかけてたんだよ」
早苗は莉央を見る。
「追うのも楽しいし、追われるのも楽しい」
莉央の口元にも笑みが浮かぶ。
「じゃあ僕も追います」
「おいで」
「絶対追いつきます」
「逃げるよ」
有馬監督は、少し離れたところで二人の会話を聞いていた。
それでいい。
世界一という肩書きを守ろうとすれば、身体は縮こまる。
次の一本を速く走ろうとすればいい。
5000メートルも
一方。
男子長距離にも、新しい数字が届いていた。
直樹が資料を見る。
ケニア。
ダニエル・キプトゥー。
13分14秒82。
「速いな」
アトランタ決勝。
最後まで直樹と争った最大のライバル。
日本。
三浦拓海。
13分15秒20。
エチオピア。
エリアス・ベケレ。
13分16秒03。
そして。
新しい世代。
ケニアの高校一年生世代。
ジョセフ・チェルイヨット。
13分23秒台。
国内でも一年生が13分台後半を記録し始めている。
森山海斗が横から資料を見る。
「世界、やばいですね」
「やばいな」
「田中先輩、怖くないんですか?」
直樹。
「怖いよ」
「やっぱり?」
「そりゃ、俺より速い記録出されたら悔しい」
「ですよね」
「でも」
直樹はキプトゥーの名前を見る。
「また走りたい」
「キプトゥー選手と?」
「うん」
アトランタ。
残り一周。
最後の直線。
隣にいたライバル。
「次走ったら、どうなるんだろうって思う」
海斗。
「勝てます?」
「知らん」
「え?」
「走ってみなきゃ分からんじゃん」
海斗は少し驚いた。
世界一の人なら。
必ず勝つ。
そう言うのかと思っていた。
しかし直樹は違った。
「勝つつもりでは走る。でも相手も同じだろ」
「はい」
「だから面白い」
海斗。
「早苗先輩と同じこと言いますね」
「……マジ?」
「はい」
「嫌だな」
遠くから。
「聞こえちょるよ!」
「なんで聞こえるんだよ!」
「愛の力!」
「耳の力じゃ!」
公式戦
そして迎えた県大会。
女子100メートル。
早苗と莉央。
二人が初めて同じ公式大会へ出場する。
予選は別組。
早苗。
11秒51。
余裕を残して一着。
莉央。
11秒53。
こちらも一着。
準決勝。
早苗。
11秒44。
一着。
莉央。
11秒46。
一着。
決勝進出。
スタンドがざわめき始めた。
「本当に速いぞ、川端」
「大石とほとんど変わらない」
「一年生だろ?」
「決勝どうなる?」
早苗はその声を聞いていた。
だが。
嫌ではなかった。
むしろ。
「莉央」
「はい?」
「いよいよじゃん」
「はい」
「公式戦では初めてだね」
「タイムトライアルとは違います」
「うん」
「勝ちにいきます」
「僕も」
早苗が手を出す。
莉央が軽く拳を合わせる。
「終わったら梅ジュースね」
「勝った方がですか?」
「二人とも」
「勝負になってないじゃないですか」
「梅ジュースに勝ち負けを持ち込まんの」
「そこだけ平和主義なんですね」
「そこだけって何!」
女子100メートル決勝
八人がスタートラインへ向かう。
場内アナウンスが名前を読み上げる。
4レーン。
大石早苗。
5レーン。
川端莉央。
隣同士。
早苗がブロックを調整する。
莉央も同じ。
観客席が静かになる。
「位置について」
二人の指がトラックへ触れる。
「用意」
腰が上がる。
号砲。
早苗。
完璧に近いスタート。
10メートル。
先頭。
20メートル。
早苗が出る。
莉央も追う。
30メートル。
差は半歩。
40メートル。
早苗が加速。
50メートル。
早苗がわずかに前。
しかし。
60メートル。
莉央の時間が始まる。
ストライドが伸びる。
フォームが崩れない。
70メートル。
詰まる。
80メートル。
さらに詰まる。
スタンドがどよめく。
「川端来た!」
「大石に並ぶぞ!」
早苗にも分かる。
隣にいる。
来ている。
莉央。
速い。
だから。
面白い。
90メートル。
二人。
ほぼ並ぶ。
早苗が最後の一歩を押す。
莉央も伸びる。
ゴール。
ほぼ同時。
電光掲示板。
まだ順位が出ない。
莉央が息を切らしながら早苗を見る。
「先輩……」
「分かんない」
写真判定。
数秒。
表示が変わる。
1位 大石早苗 11秒40
2位 川端莉央 11秒42
差。
0秒02。
早苗。
「……危なっ」
莉央は膝へ手をついた。
「また……届かなかった」
早苗が隣へ来る。
「0秒02になったね」
「はい」
「縮まったじゃん」
莉央が顔を上げる。
「次は0秒01です」
早苗。
「その次は?」
「勝ちます」
「いいね」
早苗は笑った。
「でも僕も速くなるよ」
「知ってます」
男子5000メートル
午後。
今度は直樹。
そして海斗。
二人は同じ5000メートルへ出場した。
海斗にとっては、世界一の先輩と走る初めての公式戦。
スタート前。
「田中先輩」
「何?」
「どこまでついていけばいいですか?」
「俺についてくるな」
「え?」
「自分のレースしろ」
海斗が直樹を見る。
「今のお前が俺のペースについてきたら、後半潰れる」
「……はい」
「勝負はいつでもできる。今日は自分のベスト出してこい」
「はい!」
スタート。
直樹は先頭集団。
海斗は第二集団。
1000メートル。
直樹、2分42秒台。
海斗は少し後ろ。
2000メートル。
直樹は淡々と刻む。
3000メートル。
後続が少しずつ離れる。
4000メートル。
直樹がペースを上げた。
スタンドから。
「直樹ー!」
聞き慣れた声。
直樹は一瞬だけ顔をしかめる。
「来た……」
早苗。
「頑張れー!」
直樹はさらに上げる。
残り一周。
独走。
最後の100メートル。
ゴール。
13分17秒08。
シーズン序盤として十分な記録で一着。
そして数十秒後。
海斗も帰ってくる。
自己ベスト。
ゴールした海斗へ、直樹が歩み寄った。
「最後よかったじゃん」
「先輩……遠すぎます」
「今はな」
「いつか追いつきます」
「おう」
直樹が笑う。
「待ってる」
みんなが追ってくる
大会終了後。
四人。
早苗。
莉央。
直樹。
海斗。
スタンドの端に座る。
早苗が保冷バッグを開けた。
直樹。
「嫌な予感しかしない」
「何で?」
中から。
梅ジュース。
四本。
莉央。
「やっぱり」
海斗。
「本当に毎回持ってるんですね」
「当然」
一本ずつ配る。
「お疲れさま!」
四人。
「乾杯!」
ごくごく。
早苗。
「ぷはぁ〜!」
直樹。
「出た」
莉央。
「梅ジュース先輩のオヤジ飲み」
「莉央まで!」
海斗。
「動画撮っていいですか?」
「やめて!」
直樹。
「アトランタ第二章になるぞ」
「絶対やめて!」
笑い声が広がった。
古文、遭難
翌日。
図書館。
大会が終われば。
学生である。
早苗が参考書を前に固まっていた。
「直樹」
「何?」
「大変」
「今度は何?」
「三平方の定理は帰ってきた」
「よかったじゃん」
「今度は古文が行方不明」
「捜索範囲広すぎるわ!」
「『いとをかし』がどっか行った」
「最初からそこに書いてある!」
「この人たち、なんで普通にしゃべらんの?」
「千年以上前の人に言え!」
「タイムマシンない?」
「あるわけない!」
「桜島フェリーじゃ行けん?」
「時代は渡れん!」
「じゃあ新幹線」
「もっと無理!」
「直樹、鉄道好きなのに役に立たんね」
「古文の時代まで線路引けっていうのか!」
図書館の職員。
「大石さん、田中さん」
二人。
「すみません……」
早苗は小声になる。
「直樹」
「何」
「古文も追いかければ、いつか追いつけるかな」
「陸上みたいに言うな」
「でもさ」
早苗は参考書を開き直した。
「追われるのも、追うのも楽しいんでしょ?」
直樹は少し笑った。
「数学と古文にも適用するんだ?」
「する」
「じゃあ逃げるなよ」
「……梅ジュース休憩してから」
「早速逃げた!」
競技でも。
勉強でも。
早苗と直樹の前には、追いかけるものがいくらでもあった。
そして。
後ろから追ってくる者もいる。
世界一。
その言葉は、頂点に立って終わるための称号ではない。
次の誰かが追いかけてくる場所に立ったということだった。
だから。
早苗は笑う。
「楽しみじゃん」
世界が速くなるなら。
自分も、もっと速くなればいい。
次回予告
第50話「高校最後の一年へ」
高校二年生の季節が駆け抜けていく。
早苗と莉央。
校内で何度も繰り返される100メートル勝負。
0秒03。
0秒02。
そして、ついに。
ほとんど差が見えない一本が生まれる。
一方。
直樹と海斗。
こちらも後輩が着実に距離を縮めていく。
そして。
大学進学。
全国大会。
そのさらに先。
2028年。
ロサンゼルス。
高校卒業後に待つ大舞台が、少しずつ現実味を帯び始める。
だが期末試験。
早苗。
「直樹」
「今度は何が遭難した?」
「化学」
「今度は教科ごとかよ!」
「元素記号が集団で家出した」
「捜索不能じゃ!」
次回、第50話「高校最後の一年へ」。
追われながら。
追いかけながら。
二人の高校生活は、いよいよ最後の一年へ向かう。




