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となりのスタートライン  作者: リンダ


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世界一を追いかけて

 第47話「世界一を追いかけて」


 高校二年生になって最初の実力測定。


 大石早苗。


 女子100メートル。


 11秒36。


 田中直樹。


 男子5000メートル。


 13分15秒94。


 二人そろって自己ベスト。


 アトランタで世界一になった記録を、さらに更新した。


 その数字は、瞬く間に全国の陸上関係者へ広がった。


 しかし。


 世界は、二人が走っている間に立ち止まってくれるわけではなかった。


 世界から届く数字


 部室。


 有馬監督が資料を机に置いた。


「二人とも、これ見てみろ」


 早苗と直樹が覗き込む。


 国内。


 海外。


 同世代の選手たちの今季記録だった。


 林田舞。


 100メートル、11秒40。


 アトランタ銅メダルから、さらに記録を縮めている。


 早苗。


「舞ちゃん、速っ」


「お前が言うな」


「いや、速いもんは速いよ」


 アメリカ。


 エマ・ジョンソン。


 11秒38。


 ジャマイカ。


 ケイラ・ブラウン。


 11秒37。


「……」


 早苗の表情が変わった。


「ケイラ、0秒01差じゃん」


「そういうことだ」


 有馬監督が言う。


「大石が11秒36を出したからといって、世界との差が開いたわけじゃない」


「はい」


「むしろ向こうも、お前を追いかけてる」


 早苗は資料をもう一度見る。


 11秒36。


 11秒37。


 11秒38。


 11秒40。


 ほとんど差がない。


「みんな速くなっちょる……」


 その声には、恐怖よりも高揚感があった。


 一方。


 男子5000メートル。


 三浦拓海。


 13分16秒21。


 ダニエル・キプトゥー。


 13分15秒70。


 直樹の13分15秒94を、キプトゥーがわずかに上回っている。


 直樹は数字を見つめた。


「やっぱり来たな」


 早苗。


「悔しい?」


「そりゃ」


「燃える?」


「燃える」


 早苗がにやっとする。


「僕も」


 有馬監督。


「それでいい。ただし、数字だけ追いかけて練習を崩すなよ」


 二人。


「はい」


 早苗はケイラの名前をもう一度見る。


「今度会ったら負けん」


 直樹。


「梅ジュース飲み競争?」


「100メートル!」


「そっちか」


「そっちかって何!」


「前回そっちはケイラに負けたから」


「100ミリ梅ジュース競争は正式競技じゃない!」


「お前が言うと説得力ないな」


「なんでよ!」


 新しい仲間たち


 その日の放課後。


 有馬監督が新入部員を集めた。


「改めて一年生の自己紹介をするぞ」


 二年生、三年生がトラック脇に集まる。


 一年生は六人。


 最初に前へ出たのは、小柄な女子生徒だった。


「一年二組、川畑莉央です。女子100メートルと200メートルをやります。中学では県大会まででした。大石先輩みたいなスタートができるようになりたいです。よろしくお願いします!」


 早苗。


「よろしく!」


 莉央。


「よろしくお願いします、梅ジュース先輩!」


「そこ大石先輩でいいの!」


 開始十秒で崩壊した。


 二人目。


 長身の女子。


「一年五組、西園寺結菜です。走高跳をやっています。自己ベストは1メートル65です。全国大会を目指します」


 早苗が小声で直樹へ。


「背高い……」


「競技見ろ」


「僕にも五センチ分けてくれんかな」


「分けられん」


「じゃあ三センチ」


「値切るな!」


 結菜が笑いをこらえていた。


 三人目。


「一年一組、森山海斗です。男子1500メートルと5000メートルです。田中先輩の走りに憧れて入部しました」


 直樹。


「よろしく。最初から距離増やしすぎんなよ」


「はい!」


「田中先輩のラスト一周、何度も動画で見ました」


「ありがとう」


「早苗先輩の声から逃げるところも」


「そこは見なくていい!」


 早苗。


「教材じゃん」


「何の教材だよ!」


 四人目。


「一年四組、福元颯太です。男子400メートルです。中学では51秒台でした。高校では49秒台を目指します」


 有馬監督。


「いい目標だ」


 早苗。


「頑張ろうね」


「はい、6.5リットル先輩!」


「誰から聞いたの!?」


「川畑さんです」


 莉央。


「動画のリンク送りました」


「拡散源そこかぁ!」


 五人目。


「一年三組、永田美桜です。女子800メートルです。よろしくお願いします」


「よろしく!」


 美桜は少し緊張していたが、早苗を見て言った。


「大石先輩」


「うん?」


「私も梅ジュース好きです」


 早苗。


「仲間!」


 直樹。


「競技の話しろ!」


 六人目。


「一年六組、有村拓真です。男子110メートルハードルです。県大会決勝を目標にしています」


 自己紹介を終えると、有馬監督が言った。


「これで今年度のメンバーがそろった。二、三年は、自分の練習だけじゃなく後輩を見ることも覚えろ」


「はい!」


 早苗も返事をする。


 そして莉央を見る。


「スタート、一緒にやろうね」


「はい!」


「梅ジュースは?」


 莉央。


「いただきます!」


 直樹。


「もう完全に勧誘じゃん!」


 大量の差し入れ


 数日後。


「大石先輩!」


 莉央が紙袋を持ってきた。


「何?」


「差し入れです!」


「ありがとう!」


 受け取る。


 重い。


「……何これ」


「開けてください」


 早苗が中を見る。


「……」


 梅ジュース。


 一本。


 二本。


 三本。


 さらに奥にも。


「なんでぇ!?」


 莉央。


「家族に話したら、お母さんが『梅ジュース先輩に持っていきなさい』って」


「お母さんまで!?」


 直樹。


「完全に定着したな、梅ジュース先輩」


「僕の競技人生、どこで道間違えたの!?」


 直樹。


「アトランタへ6.5リットル持って行ったあたり」


「具体的!」


「しかも現地で売ってた」


「追い打ちかけるな!」


 後輩たちは大笑い。


 それでも早苗は紙袋を大切そうに抱えた。


「でも、ありがとう。みんなで飲もう」


「先輩が全部飲まないんですか?」


「僕を何だと思ってんの!」


 莉央。


「梅ジュース先輩」


「答えになっとるようでなっとらん!」


 そして現実


 陸上では。


 自己ベスト。


 世界トップクラス。


 後輩からも尊敬される。


 ところが。


 高校生活には、トラックより恐ろしい場所がある。


 教室。


 そして。


 定期テスト。


 早苗は数学の問題用紙を開いた。


「……」


 そこに現れた。


 三平方の定理。


 直角三角形。


 辺。


 平方。


 長さを求めよ。


 早苗は問題を見る。


 数字を見る。


 図を見る。


 もう一度問題を見る。


 その瞬間。


 早苗の頭の中で。


 数字たちが立ち上がった。


 2。


 3。


 4。


 5。


 平方根。


 なぜか鉢巻きを締める。


 そして。


 踊り始めた。


「踊る阿呆に見る阿呆」


 早苗の脳内で、数字が阿波踊りを始めた。


 平方根が右へ。


 二乗が左へ。


 直角三角形まで踊り出す。


 公式が後ろからやってくる。


 早苗の脳内。


「待って待って待って」


 しかし数字の阿波踊りは止まらない。


 さらに。


 なぜか舞台が徳島から鹿児島へ瞬間移動。


 桜島。


 噴煙。


 ドカン。


 数字が一斉に吹き飛んだ。


 三角形も飛んだ。


 平方根も飛んだ。


 公式まで飛んだ。


 そして全部。


 錦江湾へ。


 ざぶん。


 早苗。


「……」


 現実の教室。


 問題用紙。


 時計だけが進んでいる。


 早苗は鉛筆を握り直した。


 頼む。


 帰ってきて。


 僕の三平方の定理。


 だが。


 錦江湾へ流された公式は、戻ってこなかった。


 試験終了


 チャイム。


「やめ」


 早苗は机へ突っ伏した。


「終わった……」


 廊下へ出る。


 直樹がいた。


「どうだった?」


 早苗が顔を上げる。


「直樹」


「何?」


「三平方の定理が阿波踊りしたあと、ドカンと噴火して錦江湾に流れ込んだわ」


「……」


 直樹の動きが止まった。


「……何?」


「だから、最初は三平方の定理が阿波踊りしちょったの」


「うん……?」


「それで数字も踊り始めて」


「……?」


「そのあと桜島みたいにドッカンって噴火して」


「……?」


「全部錦江湾に流れ込んだ」


「……?」


 直樹の頭の中。


 はてなマーク。


 一個。


 二個。


 三個。


 四個。


 まだ増える。


 五個。


 六個。


 七個。


 八個。


 九個。


 十個。


「早苗」


「何?」


「何を言ってるのか、さっぱり分からん」


「だから説明したじゃん!」


「説明になってない!」


「僕の頭の中ではそうなったの!」


「おまえの頭の中で徳島と鹿児島に何があったんだよ!」


「三平方の定理!」


「三平方の定理は阿波踊りせん!」


「したの!」


「噴火もしない!」


「した!」


「錦江湾にも流れ込まない!」


「流れたんだって!」


「数学に地理と祭りを混ぜるな!」


 早苗。


「じゃあ僕にどう説明しろっていうの!」


「普通に『分からなかった』でいい!」


 早苗。


「あ」


「何?」


「それだ」


「それだじゃない!」


 廊下に爆笑が広がった。


 数学遭難者


 そこへ莉央たち一年生が通りかかる。


「大石先輩、テストどうでした?」


 早苗。


「三平方の定理が錦江湾に流れた」


 莉央。


「……はい?」


 海斗。


「どういうことですか?」


 直樹。


「聞かなくていい。俺も分からん」


 早苗。


「先輩の頭の中では大災害だったの!」


 莉央。


「11秒36で走れるのに?」


「100メートルと三平方の定理は別競技!」


 直樹。


「当たり前だ!」


 美桜。


「梅ジュース飲んだら戻ってきません?」


 早苗。


「その手があった!」


 直樹。


「ない!」


 早苗は鞄から梅ジュースを取り出す。


「ぷはぁ〜!」


 直樹。


「またオヤジ飲み!」


「数学で傷ついた心に染みるぅ〜」


「高校二年生の感想じゃない!」


 莉央。


「梅ジュース先輩、今日も絶好調ですね」


 早苗。


「数学は絶不調!」


 答案返却


 数日後。


 数学の答案が返ってきた。


 早苗は恐る恐る裏返す。


「……」


 直樹。


「どう?」


「三平方の定理」


「うん」


「錦江湾から半分くらい帰ってきた」


「点数で言え!」


 前回より少し上がっていた。


 決して高得点ではない。


 それでも。


 勉強を始めた成果は、少しずつ数字になっている。


 福留先生が早苗の机の横で言う。


「大石さん」


「はい」


「前より取れてるでしょう?」


「はい」


「だったら次も頑張る」


「はい」


「三平方の定理を錦江湾へ流さない」


 早苗。


「先生まで知ってるんですか!?」


 教室。


 大爆笑。


 直樹が机に突っ伏す。


「もう学校中に広がるぞ」


「嫌ぁ!」


 追われるということ


 放課後。


 グラウンド。


 早苗はスタートブロックへ入る。


 莉央が隣で見ていた。


「大石先輩」


「ん?」


「緊張しないんですか?」


「するよ」


「世界一でも?」


「するする」


「怖くなることも?」


「あるよ」


 莉央は少し驚いた。


 早苗はスタートブロックから立ち上がる。


「世界一になったから怖くなくなるわけじゃないよ」


「……はい」


「今は追われる側だけど、僕だってケイラとかエマとか舞ちゃんを追いかけちょるし」


「追われながら、追いかける?」


「そう」


 早苗は笑った。


「だから面白いんじゃない?」


 少し離れたトラックでは、直樹が海斗と走っている。


「田中先輩、もう一周お願いします!」


「上げすぎんなよ!」


「はい!」


 世界一になった二人。


 けれど。


 完成したわけではない。


 後輩たちに追われる。


 世界のライバルを追う。


 大学という未来も追う。


 そして。


 三平方の定理にも追われる。


 早苗。


「最後のはいらん!」


 直樹。


「誰に言ってんの!?」


 高校二年生の春。


 二人の新しい一年は。


 やはり笑い声とともに走り始めていた。


 次回予告


 第48話「追われる王者、追いかける後輩」


 川畑莉央。


 女子100メートル。


 世界一の先輩を追いかける、新しいスプリンター。


「大石先輩、本気で一本お願いします」


 早苗。


「いいよ」


 初めて並ぶスタートライン。


 莉央は、そこで初めて11秒36の世界を身体で知る。


 一方。


 男子長距離では森山海斗が直樹へ挑む。


「田中先輩、最後の一周だけでも勝負してください」


 直樹。


「最後だけならな」


 先輩から後輩へ。


 世界一の技術が少しずつ受け渡されていく。


 そして放課後。


 早苗。


「直樹、三平方の定理が帰ってきた」


「錦江湾から?」


「うん」


「どこ経由?」


「桜島フェリー」


「数学の公式がフェリー乗るな!」


 次回、第48話「追われる王者、追いかける後輩」。


 世界一になった二人が初めて知る。


 誰かに追われることは。


 誰かの目標になることでもある。

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