となりにいた人
序章「となりにいた人」
田中直樹と大石早苗。
のちに世界中の陸上ファンが、その名前を知ることになる二人。
一人は、男子5000メートル。
もう一人は、女子100メートル。
走る距離も違えば、レースの戦い方もまるで違う。
けれど、二人の物語が始まった場所は、オリンピックスタジアムでも、陸上競技場でもなかった。
もっと小さくて、もっと普通の場所だった。
二人は同じ時代に生まれた。
直樹の父・田中克也と母・真由美。
早苗の父・大石恒一。
それぞれの家族に祝福され、二人はまだ互いの存在すら知らない赤ん坊として人生最初の日を迎えた。
もちろん、この頃は誰にも分からない。
この二人が将来、世界の頂点まで走っていくことなど。
ましてや、その長い人生を隣同士で歩くことなど。
幼い頃の早苗は、とにかく元気だった。
歩けるようになれば走る。
走れば転ぶ。
転べば泣く。
ところが数分後には、また走っている。
「早苗、走ったらまた転ぶぞ」
恒一が声をかけても、
「だいじょうぶ!」
そう答えた直後に転ぶ。
「ほら!」
幼い頃から、見事なまでに期待を裏切らない娘だった。
一方の直樹は、早苗とは対照的だった。
気になったものをじっと見る。
考える。
確かめる。
特に夢中になったのが鉄道だった。
踏切が鳴れば立ち止まり、列車が通り過ぎるまで見送る。
駅へ連れていけば、ホームへ入ってくる列車から目を離さない。
「直樹、電車好きなん?」
真由美に聞かれると、小さな直樹は大きくうなずいた。
やがて二人は出会った。
近所の子どもとして遊ぶようになり、気がつけばいつも一緒にいた。
ただし、遊び方にも性格が出た。
「直樹、競走しよう!」
「また?」
「よーい、ドン!」
「まだ『いいよ』って言ってない!」
早苗はもう走っている。
直樹も仕方なく追いかける。
短い距離なら、早苗はとにかく速かった。
最初の数歩から一気に飛び出す。
ところが長く走ると、様子が変わる。
「直樹ぃ……待ってぇ……」
「早苗が競走しようって言ったんだろ」
「長すぎるぅ……」
「まだそんなに走ってないよ」
この頃から、二人の違いははっきりしていた。
早苗は、一瞬で飛び出す。
直樹は、長く走り続ける。
小学校へ入ると、その違いはさらに大きくなった。
運動会。
早苗は短距離走で抜群の速さを見せる。
直樹は持久走になると、最後までほとんどペースを崩さない。
先生たちも気づき始める。
「大石さん、短い距離、本当に速いね」
「田中君は長い距離が得意なんだな」
けれど本人たちにとっては、まだ競技ではなかった。
ただ走ることが楽しかった。
学校が終われば一緒に帰る。
宿題をする。
遊ぶ。
直樹が鉄道の話を始める。
早苗が途中から分からなくなる。
「つまりね、この列車がここで――」
「直樹」
「何?」
「おなかすいた」
「聞いてた?」
「途中までは」
「どこまで?」
「電車の話だったところ」
「最初から最後まで電車の話だよ!」
そんな二人だった。
そして早苗には、幼い頃から妙な習慣があった。
暑い日に冷たい梅ジュースを飲む。
ごくごく飲んで。
コップを置く。
「ぷっは〜!」
恒一が振り返る。
「早苗、お前どこでそんな飲み方覚えた?」
「おいしい!」
「梅ジュースだよな?」
「うん!」
見た目だけなら、仕事帰りに一杯やっている大人そのもの。
のちに世界的スプリンターとなってからも語り継がれる「ぷっは〜!」は、この頃からすでに完成しつつあった。
もっとも、成長した早苗は酒には滅茶苦茶弱い。
直樹も同じだった。
それを、この頃の二人はまだ知らない。
中学生になると、二人は本格的に陸上競技へ向き合い始めた。
早苗は短距離。
直樹は長距離。
早苗はスタートラインへ立つと、普段の天然ぶりが嘘のように表情が変わった。
号砲。
一歩目。
二歩目。
加速。
風を切るように走る。
直樹は初めてその姿をじっくり見たとき、言葉を失った。
「早苗って……こんな速かったんだ」
一方。
直樹が長距離を走る姿を、早苗も見る。
派手な飛び出しはない。
前半から無理もしない。
相手を見る。
自分の呼吸を見る。
残りの距離を考える。
そして最後まで崩れない。
「直樹って、ずっと走れるんだね」
「それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
二人は少しずつ記録を伸ばしていった。
勝つ日もあった。
負ける日もあった。
早苗がスタートで失敗して落ち込んだ日。
直樹は隣に座った。
直樹が思うようなタイムを出せなかった日。
早苗は何も難しいことを言わず、ジュースを一本渡した。
「また走ればいいやん」
その一言に救われることもあった。
恋人ではない。
けれど、ただの友達と言うには近すぎる。
幼い頃から当たり前のように隣にいたからこそ、二人ともまだ、その関係に名前を付けようとはしなかった。
中学最後の大会を終えた日。
二人は並んで帰った。
夕暮れ。
いつもの道。
早苗が言った。
「高校でも走る?」
「走るよ」
直樹は即答した。
「早苗は?」
「僕も走る」
「100メートル?」
「うん」
「俺は5000かな」
「長っ」
「今さら?」
早苗が笑う。
「僕、絶対無理」
「俺も100メートルで早苗に勝てる気しないよ」
「じゃあちょうどいいね」
「何が?」
早苗は少し考えてから答えた。
「違うところ走れば、二人とも一番になれるかもしれんやん」
直樹は吹き出した。
「そんな簡単じゃないだろ」
「やってみないと分からんよ」
早苗は前を向く。
その先に高校生活が待っていた。
まだ二人は知らない。
高校でさらに記録を伸ばすことも。
大学へ進むことも。
世界を相手に走ることも。
オリンピックのスタートラインに立つことも。
金メダルを手にすることも。
やがて互いを人生の伴侶として選ぶことも。
早織と大樹という二人の子どもの父と母になることも。
何も知らない。
ただ、この日の二人には一つだけ分かっていた。
高校へ行っても。
早苗は100メートルを走る。
直樹は長い距離を走る。
そしてレースが終われば。
また隣へ戻ってくる。
春。
二人は高校の校門の前に立った。
早苗が大きく息を吸う。
「よし!」
「何?」
「高校生活、スタート!」
「まだ入学式だよ」
「スタートはスタートやろ」
「まあ、それはそうだけど」
早苗は笑って、一歩を踏み出した。
直樹も、その隣を歩き始める。
二人はまだ知らなかった。
ここから始まる高校生活が、
世界へ続く本当のスタートラインになることを。




