根性なしの意気地なし
好き、嫌い、好き。
手元に置かれたメモ帳の隅っこに書かれたマーガレットのイラストの花びらを数えてみる。脳裏に過るふたつの顔。私はそのどちらが好きなのだろう?
「和田さん! 聞こえてるの!?」
「はっ、はい!?」
昼間働いている職場で声をかけられ、私は我に返る。夜の仕事の翌日はどうもぼんやりしていけない。しっかりしないと。
「ここの計算、間違ってたわよ? 入力するだけなのにどうして間違えられるの」
「はい……すみません。すぐやり直します」
「頼むわよ、本当に……」
婚期を逃したお局様に内心でベロを出しながらファイルを受け取る。昼間は事務職で働いている私には、それすら日常だった。ズレた眼鏡を掛け直し、前に垂れたひっつめ髪にした長い髪を後ろに戻し、私は自分のデスクへ戻る。あぁ、あんなもの見かけなかったら良かった。やっぱりメンバーの昼の顔なんて知らないに限る。
ちらちらと雪の降る一ヶ月前の土曜日、休日の昼に私は買い物をしていた。レトルトやお惣菜で詰まった買い物袋を抱えて商店街を横切る時、見知った顔を見かけてしまったのだ。
その人は夜は表情一つ変えずに黙々と仕事をこなすエージェント。メンバーの中で一番若いのに、凄まじい実力を持った次世代の幹部候補と呼ばれるような人。ただそれだけの存在だったのに。
垣根に咲く椿の雪を払って、穏やかな笑みを浮かべる姿を遠巻きに見かけてしまったのだ。
まさか、同じ町内に住んでいるなんて思いもしなかった。それよりも、あんなに優しい顔をする人だなんて、想像もしていなかった。私の心臓はばくばくと煩く、ただ呆然と彼を見つめることしか出来なかった。
メンバーのプライベートには干渉しない。それが処理班の掟。けれど、思わぬ形で昼の顔を知ってしまった。昼間、私は本名すら知らない彼のことばかり考えている。
夜になって出会っても、悪態しか吐かないのにね。
けれど昼間の私は奥手で地味で、彼に釣り合うような女では決して無い。
この想いは永遠に封印してしまうことにした。私が知っているのはクールな『空歩』だけ。彼が知っているのもドライな『切裂』だけ。ただ、それだけ。それだけなのに、昼間のただの『和田華乃子』は、道端で出会ったあの優しい顔を浮かべる彼のことばかり考えている。
もしも、また道端で出会うことが会ったとしても、私と彼は他人同士なのだから、声を掛け合うこともない。夜の顔と昼の顔は違うのだから。
パソコンの編集ソフトを開き、保存してあったファイルを開き、慎重に間違えた箇所を確認して、直す。それを印刷してファイルに留めて、改めて上司に手渡した。
家に帰って髪を三つ編みにして、黒いジャージを着込み、眼鏡からコンタクトレンズに変えて廃ビルに向かう。時間は待ち合わせの五分前、案の定『空歩』はもう来ていて、『千里眼』から説明を受けていた。
「『切裂』クン、丁度良かった。今日のミッションを説明するよ」
『千里眼』に手招きされて、インカムを受け取り、ミッションの説明を受ける。私は努めて冷静に、それを聞き、そして言われたことを忠実に守る。ちらりと『空歩』を見る。『空歩』は関心薄げに夜景を眺めていた。……椿を愛でていたあの表情とは全く違う、冷めた表情。そう、それが私の知っている『空歩』という男。あの『椿の君』とは全く違う、別人だ。
「……『切裂』クン? ちゃんと聞いてた?」
「え? あ、ああ。聞いてたわよ。違法召喚された精霊の強制帰還でしょ?」
「ま、ざっくり言えばそうだね。本丸はまだ調査中だけど、エーテルの残滓を探れば、来週の報告会には出せると思う。そこから先は調査班の仕事だ。私達の管轄じゃない。じゃあ、いってらっしゃい」
「……『紅蓮』は今日は来ないのか」
響く『空歩』の冷たい声。聞き慣れた声。だから、私も『切裂』でいられる。
「『紅蓮』クンはどうしても外せない用事があるから、今日は休みだよ。でも、ふたりなら何てことないミッションだろう? ほら、行った行った」
急かされるように追い払われる。私は簡易の陣を描き、自分の精霊を呼び寄せる。白い衣を纏った風精ジンは私を抱き寄せ、空を舞う。それを追うように『空歩』は空を走る。
「簡単に言ってくれちゃうわよね、『千里眼』は」
「それだけ信用してもらってるんだろう。相手はアーティズムの邪神のなりそこないだ。アーティズムはここから時空も近い。大した仕事じゃない」
「それもそうね」
普段どおりの会話。大丈夫。私は上手くやれる。『空歩』と『椿の君』は別人なのだ。
ミッションは空歩が敷いた帰還の陣と、アーティズムに馴染んだ私のエーテルで呆気なく終わった。廃ビルに戻り、インカムを返す。今日はユニフォームのジャージも無事なので、回収されることもない。
「……解った。西の方に、極めて近いエーテル反応がある。これを調査班に提出すれば仕事は終わりだ。ふたりは直帰していいよ。お疲れ様」
『千里眼』はタブレットを操作してなにやらエーテルの放射率や属性などを書き込んでいく。
「……じゃあ、俺は先に帰らせてもらう。お先」
「私は少し『千里眼』に話があるから、もう少し残るわ。お疲れ様、『空歩』」
『空歩』は手をひらひら振って古びたドアを開けて階段を下りていく。その音が聞こえなくなったことを確認して、私は『千里眼』に訊ねた。
「『千里眼』、あんた知ってたでしょう。私と『空歩』が近所に住んでること」
「あぁ、知ってたよ。でも、教える必要はないだろう? 私達は昼間は不干渉。そういうルールなんだから」
「そうだけど、私、昼間に見かけて心臓が止まるかと思ったわ」
「平気だろう。『空歩』クンだって、昼間のキミを見て干渉してくることは絶対にない」
絶対に、ない。
その言葉が胸に突き刺さる。
けれど、実際そうだろう。私だって、『和田華乃子』として『椿の君』に話しかけられるとは思えない。そんな根性も、意気地もない。だから、『千里眼』はB班に今のメンバーを選んだのかもしれないけれど。
「『千里眼』には何もかもお見通しなのね」
「そりゃあ、『千里眼』だからね」
戯けて言う『千里眼』に私は肩を竦めた。
それからも、昼間に度々『椿の君』を見かけたが、私は胸を高鳴らせるだけで、知らないふりをする。
根性なしの意気地なし。和田華乃子にはぴったりの称号だと思った。




