伝説の男
一部で伝説の男と呼ばれている男がいる。
男の名前は東條湘。戦えば相手は尽く地に倒れると噂される、格闘技を極めた男。
肉体強化の魔術を得意としており、体重の変化も骨の強化も筋力増強もお手の物。しかし、その姿は変わることはない。姿はそのままに、肉体の強化を行うのは至難と言われているのに、彼はなんでもないようにそれを行う。高校を卒業した後、彼が何の仕事をしているのか知る者は少ない。
『空歩』と呼ばれる男がいる。
特魔処理班に所属し、街に蔓延るはぐれ魔物や、悪しき魔術師を撃退するのが彼の仕事だ。
強化された肉体を自在に操り、その身のままに空を歩く。
無駄口は叩かず、黙々と仕事をこなし、何も言わずに帰っていく。
彼のプライベートを知る者はいない。それは特魔処理班のルールがそうさせているのであるが、冷徹な彼を知ろうとする者もいない。
伝説と呼ばれた東條湘と『空歩』が同一人物だと知るのは、彼の家族だけだ。
「しょう、きょうのばんごはんはなに?」
尻尾を振りながら湘に訊ねるのは彼の妹、由比の召喚獣。湘は冷蔵庫を覗き込み、うーん、と悩む声を上げる。
「そうだなぁ。今日はオムライスにでもしようかな。でも卵が少し心もとないなぁ。野菜も買いたいし……。テオ、今日は天気もいいし、散歩がてら買い物に付き合ってくれないか?」
「でも、ゆいがかえってくるかもしれない」
「心配しなくても、まだ授業の真っ最中だよ、由比は。そんなに時間はかからないから。それにお前も運動したいだろ?」
「……うん。すぐにかえってこられるなら、いいよ。かやとおとぎりは、るすばん?」
「そうだな。茅姉はゲームの邪魔したら怒るし、弟切も茅姉の面倒見なきゃいけないからな」
「しょうとふたりだけででかけるの、はじめてだね」
「そういやそうだったか。ま、さっさと買い物終わらせるか。行こうぜ、テオ」
「わかった!」
玄関を出ると、穏やかな日差しがふたりを照らす。吹く風は優しく涼しく、散歩には絶好の日和だった。
「しょう、トイレのにおいがする」
「トイレの匂い? ……ああ、キンモクセイの匂いだよ。花の匂いだ。トイレの芳香剤によく使われてるから、そんな気がするだけだよ。俺、この匂い好きだな」
そう言うと湘は深く深呼吸する。つられてテオも深く深呼吸するが、匂いにむせてしまったのか大きなくしゃみをしてしまった。
「ははっ、鼻のいいテオには少しキツすぎたか」
「うん……。でも、しょうはこのにおいがすきなんだね」
「秋になったなぁって気分になるからかなぁ」
そこにテオに疑問が浮かんだ。それを素直に言葉にする。
「しょうはあきがすきなの?」
「うん? ……いや、春も好きだし、夏も好きだし、冬も好きだよ。季節が変わったな、って感じる瞬間が好きなのかもしれないな」
「しょうは『フーリュー』なんだね」
「あはは、そんなこと初めて言われたよ。よくそんな言葉知ってたなぁ」
アスファルトを蹴る音がふたつ並ぶ。てくてく、カツカツ。しばらく歩いていると、視線の先に見知った顔を見つけて、テオの表情がぱあっと明るくなった。
「たなかのおばちゃん!」
テオが声を上げて大きく手を振ると、田中のおばちゃんと呼ばれた近所に住む中年の女性も手を振り返す。
「湘くん、テオちゃん、こんにちは。珍しい取り合わせねぇ。テオちゃんが由比ちゃん以外の人とお出かけなんて」
「俺が頼んだんです。せっかくいい天気なんだし、テオに散歩もさせてやりたくて」
「でも、しょう、テオとたくさんてあわせしてくれるよ。いっぱいうんどうできてるよ」
「テオちゃん、湘くんと訓練してるの? すごいわねぇ! 湘くん、とっても強いのに」
「いやぁ、そんなことは……。でもテオ、庭で手合わせするのと、道を歩いて風景を見て回るのは別物じゃないか」
そう言われてテオは笑う。
「そうだね。キンモクセイのにおいもかげた」
田中のおばちゃんも声を上げて笑う。
「そうよねぇ、せっかく涼しくて、いいお天気なんだもの。外を歩くのもいいわよねぇ。そもそも湘くんは戦うこと、そんなに好きじゃないものね?」
「……まぁ、でも、俺にはこれしか能がないですから。いざって時に皆を守れなかったら、東條の名折れですし」
「あらぁ、そんなことないわよ! 湘くんは立派にやってるじゃない。お家を守れるのは、家事をこなすのはちゃんとした仕事よ? おばちゃんでも湘くんみたいに完璧にはできないもの」
「はは、あれは趣味みたいなものですよ」
しばらく談笑を続け、田中のおばちゃんと別れたふたりは、不意に空を見上げる。青空は透き通るように澄み、遠く見える。秋の空だった。
湘はそれからも、道すがら咲く花の名前をテオに教えながら歩く。
コスモス、サザンカ、オシロイバナ。
道に咲く花々はどれも美しく、テオは興味深けに顔を近づけては香りを嗅ぎ、その度に小さくくしゃみをして、湘の笑いを誘った。
「手合わせみたいな激しい運動じゃなくて、たまにはのんびりした散歩もいいもんだろ?」
湘がテオにそう訊ねると、テオも頷く。
「ゆいとあるくのもたのしいけど、しょうとあるくのもたのしい。テオがしらないこと、まだまだあるんだね。ゆいははなのなまえとか、おしえてくれないから」
「俺、好きなんだよ、花を見たりするの。ジジ臭いって言われるかもしれないけどさ。由比は……花より団子だからなぁ」
「はなよりだんご?」
「まだまだ子供だってことだ」
「そうなんだ……」
「花鳥風月を愛でるっていってな。草花とか、鳥とか、自然にあるそういうものを愛でるようになったら、一般的にはもうおっさんって言われるんだ。やっぱり、俺変わってるんだろうな」
愛するご主人を子供だと言われて、しょんぼりするテオに、湘は穏やかに、少し自虐的に語りかけた。
「同級生なんかは飲み歩いたり、遊び歩いてるけどな。俺は繁華街なんかで遊び歩いたりするより、のんびり道を歩いて花なんか見たりする方が好きだな」
「ゆいがいってた。うちのしごとをうれしそうにするしょうはやさしすぎるって。それも、しょうがかわってるからだからだって」
「飯を作って美味いって言われるのも嬉しいし、掃除をしてピカピカになった部屋を見るのも嬉しいじゃないか。洗濯物を取り込んで、畳んだときに香る太陽の匂いも、気持ちいいし」
「テオ、しょうは、かわってるとはおもわないよ。しょうがすきだとおもってやってることが、かややゆいのしあわせにつながってるんだ。だから、しょうはうれしいんだよね?」
「ははっ……そうかも、しれないな」
素直に言うテオに、湘は照れくさそうに笑った。
買い物を終えて、帰り道、湘は手に持ったエコバッグを抱え直して空を指差す。
「ほら、テオ。アキアカネだ」
指差す先には、真っ赤なトンボが空を舞っていた。
「あのいろ、あかだよね? あかいとんぼ、アキアカネっていうんだ。きれいだね」
「ああ、綺麗だなぁ。姉さんも標本にしてるけど、やっぱり虫も自由に飛んでるのが自然でいいよな」
伝説と呼ばれた男がいる。クールに仕事をこなす男がいる。男の名前は東條湘、或いは『空歩』と呼ばれる男。彼のプライベートは、謎に包まれている。だが、彼の家族だけは知っている。
東條湘は、自然を愛し、家族を愛し、四季の移ろいに頬を綻ばせるような、優しく穏やかな青年だった。




