弟切の1日【前編】
姉様の書斎の隣には3畳程の納戸がある。私が普段眠る場所だ。
窓もなく、空調も整ってはいないが、元の媒体が蚊である為か、さほど苦痛に感じたことはない。
朝を知らせる目覚まし時計を止めると、私は眠っていた体を起こし、布団を畳んで部屋の隅へと置く。天気のいい日は二階のベランダで干してもらうこともあるが、今日は生憎の雨模様のようだ。じとりとまとわりつく湿気に小さく溜め息を吐くと、戸を開け、ぺこりと一礼をする。そこにはタバコを吸いながらパソコンにかじりつき、コントローラーをかちかち動かす姉様がいる。
「おはようございます、姉様」
「おはよう、弟切。今良いところだからちょっと待って」
「はい。では私は身支度を整えさせていただきます」
姉様はタバコの吸殻を傍らの灰皿に押し付けて消すと、改めてパソコンのモニターへと向き直る。
私は姉様の後ろを通り過ぎ、洗面台へと向かう。歯を磨き、顔を洗う。髪も伸びず、髭が伸びることもない式神の自分にはあまり意味のない行動ではあるが、幼い頃から姉様の側にいたので、その模範となる為の習慣になっている。そして空中に人差し指を立て、自分の武器でもある扇を現し世に顕現させるとくるりと舞う。着ていた寝間着の浴衣は普段着である浅葱色の狩衣へと変化した。
「おはよう、弟切」
キッチンへ向かうと、姉様の弟君である湘様が卵焼き器を片手に笑っている。姉様の妹君である由比様のお弁当に入れる卵焼きを焼いているのであろう。小さな扇風機の前には、既に作られた数々のおかずが置かれ、傷まぬように冷やされていた。
「茅姉は?」
「まだゲームをなさっています。今日は調子が良いようで」
「あの人もしょうがねぇなぁ。ま、朝飯食べたら昼まで寝るだろ。出来たら教えるから、呼んできてくれるか?」
「かしこまりました」
リビングに置かれた新聞に目を通し、姉様の不利益になるようなニュースがないのを確認していると、ぱたぱた、カツカツと廊下を歩く足音と、爪が床を蹴る音が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、弟切さん、おはよう!」
「おはよう、しょう、おとぎり!」
「おはよう、由比、テオ」
「おはようございます」
おふたりの元気のいい声にあぁ、朝が来たのだと実感する。少し遅れてエノシマ様が寝ぼけ眼でリビングへとやってくる。
「朝から賑やかいのう、お主らは」
「エノシマ、ずいぶん眠そうだけどどうしたの」
「昨晩の宿題がなかなか終わらなかったんじゃ。もう割り算は見とうないというくらい見たぞ」
そう言ってエノシマ様は大きく伸びをする。そうこうしている間に湘様が朝食を作り終えたらしい。
「弟切、茅姉呼んできてくれるか」
「わかりました」
私は立ち上がり、書斎の前で姉様に声をかける。
「姉様、朝食ができたそうです。お食べになって少しお休みください」
「はぁい……」
ごとり、とコントローラーを置く音が響き、襖を開けて姉様が顔を出す。リビングに向かう姉様の後を私は音を立てずについてゆく。
リビングの大きなテーブルの上には鯖の塩焼きとほうれん草の和え物と味噌汁が並べられていた。
姉様が席につき、「いただきます」と言うと、「いただきます」の合唱が響いた。私は夕食に果物をいただくだけでいいので、朝食と昼食は姉様の後ろに控えている。
「む、兄貴殿。少し疲れておるのではないか?」
「えっ、なんで?」
「味噌汁の味がいつもより濃い。いかんぞ、休息はしっかり取らねば。兄貴殿にとっては家事は楽しいのかもしれんが、他の気晴らしも人生には必要じゃからな」
「ごめんごめん、気をつけるよ」
「エノシマ、小姑みたい……」
「由比、何か言ったか?」
「なんでもないでーす」
朝食が終わり、エノシマ様はランドセルを背負い、由比様は湘様の作られたお弁当を鞄に入れて各々学校へ向かわれていった。姉様はそれをお茶を飲みながら見送り、湘様は食器を洗っている。テオは由比様の背中を見て、寂しそうにくぅ、と鼻を鳴らしていた。
「さてと、じゃあ私はお昼まで少し寝ようかな」
姉様がそう言ってのびをするのを見て、湘様が声をかける。
「茅姉、昼飯どうするんだ?」
「今日はいいわ。夕方から仕事だし」
「また会合か。姉さんも忙しいなぁ」
「月1だからあんた程じゃないわよ。じゃあ、おやすみー」
「はいはい、おやすみ」
姉様が寝室でもある私室へ向かうのを見送り、ダイニングには我々男衆だけが取り残された。小雨はいつの間にか止み、私は今日の会合で使われる書類に目を通し、湘殿は眠る姉様に気を使ってか、掃除機ではなくフローリングモップをかけている。テオは環境音の流れるんネイチャー番組をぼんやりと見つめていた。
「テオ、今日の昼は何が食べたい?」
フローリングモップからウェットシートを剥がしながら湘様が訊ねると、テオは尻尾を振りながら「ごはん、いためたやつ! あじのついた、にくのはいった!」と答える。
「炒飯か。じゃあそれにするか。テオ、今日も組み手に付き合ってくれるか? 中庭、泥濘んでるけど」
「うん、やる!」
そう言ってふたりは中庭に向かい、しばらくすると重い打撃音が部屋の中にまで聞こえてくる。それを聞きながら私は書類に必要な資料をまとめていた。
私は肉弾戦は得意としていないので、湘様のお相手はとても務まらない。その点、テオは肉弾戦に特化しているのでまさにうってつけだ。湘様も良い訓練相手が出来て、訓練に張り合いが出来ているのだろう。基礎トレーニングや、さぼりがちだったジム通いも最近は精力的に行っている。
私は姉様の式神なので、姉様のお役に立てればそれでいいと思っていたが、幼い頃に湘様の遊び相手をさせて頂いていた頃を思い出すと、少し感傷的になってしまう。湘様にはもう、私はお役に立てないのだ。
「あー動いた動いた。やっぱりテオの打撃は重いなぁ。爪が出てたら大抵のものは引き裂けるだろ?」
「わからない。でも、しょうはやっぱりけりがつよいね。ふっとばされそうだった!」
「そうかぁ? 全然平気そうに見えたけどなぁ。シャワーで汗だけ流してくるよ。そしたら昼飯作るから」
「うん、いってらっしゃい」
テオは泥まみれの足と体を古いタオルで丁寧に拭い、私の方へとにじり寄ってくる。
「おとぎり、しごとおわった?」
「はい、もう終わります」
「かやのしごともしてるんでしょう? たいへんだね」
「姉様のお役に立つのが私の役目ですから」
「でも、かやのしごとをぜんぶやっちゃって、かや、だいじょうぶなの? カイゴーって、はなしあいとかするんでしょう?」
「姉様は書類に目を通せば、全て理解して下さりますから」
「ふぅん。やっぱりかやもすごいんだね」
「えぇ、あの若さで東の魔術師を率いておられるのですから、とても優秀な魔術師ですよ。それに、式神は主の力に左右される存在です。私が出来ることは、姉様も出来て当然のことです」
「そっかぁ。テオはしょうかんじゅうだからよくわからないけど……」
「召喚獣も同じですよ。術者が未熟ならば、それ相応の召喚獣しか召喚できません。テオは立派な召喚獣ですから、主を存分に誇ってください。由比様も優秀な魔術師なのです。まだ、経験が足りていないだけで」
「うん、ゆいはすごい! テオ、ゆいをすごいってしってるよ!」
「それでいいのですよ」
私とテオは小さく笑い合う。そうこうしている間にシャワーと着替えを済ませた湘様が戻ってこられ、キッチンに立つ。冷蔵庫から野菜や焼豚の切れ端を取り出し、まな板に乗せると小気味のいい包丁の音が聞こえてきた。冷凍してあった余った白飯は電子レンジで半解凍され、コンロに乗せられたフライパンに火をかけて油を引くと、やがて香ばしい匂いが漂ってくる。
「いいにおい!」
「そうですね。私には食べられないので解りませんが、やはり湘様の料理は美味しいですか?」
「おいしいよ。テオはしょういがいのつくったもの、ほとんどたべたことないけど、おいしいとおもう。おとぎりもふつうのごはんがたべられたらよかったのにね」
「そうですね。それだけが残念です。ですが、姉様が選んでくださった媒体ですから、悲しいとは思いませんね」
「おとぎりはかやがだいすきだもんね」
「ええ、テオと同じです。テオが由比様を慕っているように、私も姉様をお慕いしています」
テオが召喚されてから、我々はこうして自分の主人を恥じらうこと無く誇れるようになった。私はそれが嬉しかった。テオは、私にとっても救いであった。
「テオー、昼飯出来たぞー」
「やったあ!」
テオが席につくと、湘様も席に座り、姉様の代わりにいただきます、と言う。それに続いてテオもいただきますと言い、スプーンを持つと炒飯をもりもりと食べだした。私はそれを横目に見ながら、最後の書類をファイルに収める。時計に目を向けると、13時になろうとしていた。




