ブリュメールのミサ 5
オーギュスト考慮公とは、いわゆる諡号である。つまりは崩御後に継承者によって諡られる名前のことだ。登位時はオーギュスト5世を名乗っていた。要するにポーラとジョフロアの父親である。形式上はポーラが諡ったことになっているが、じっさいは妃だったアデライードが付けたと言っても過言ではない。ポーラとしては豪胆公を諡号にしたかったようだ。確かに実際にそういう側面がなかったわけではないが、あくまでも限定的で施策の多くは政治経済に費やされたようだが、だからといって先祖からの因縁であるナント王との戦争を怠ったわけではない。どちらかといえば実戦よりもそれを用意する土壌を育てる方が得意だった。崩御後、ポーラが目覚ましいほどの活躍ができたのは、将として、そして魔法の使い手としての能力が際立っていたこともさるものの、土壌が十二分に役に立ったことが一助どころか、十助になったことは事実である。
だが、はたして本当にそれを踏まえて即位時14歳だったポーラが豪胆公を提案したのか、といえば解答が難しい問いということができるだろう。
結局、アデライードの考えが通った。
それは妻と娘では同じ人物をみていても別人にみえたという例証だろう。どちらも自己の願望が色濃く出ている。前者は平和主義者であるし、後者は英雄志向が強過ぎた。娘の案を聴いたとき、太妃となった前者はいみじくも言ったものだ。そっとアニエスだけに囁いた。
「あの子が公爵などと…無駄な流血でいっそのこと済めばよいが、いや、一滴たりとも無駄に流れていい血などない、何でもできるあの子がそれは永遠に理解しないだろう」
ポーラは、少年を可憐だと思い始めている。この子をルバイヤートに連れて行かれないことを残念にすら思い始めている。
こんな考えは危険だ。なんとなれば嫉妬深いうえに神経過敏な妻がそばに控えているからだ。そのことはルイ・ド・モンタニアールで体験済みだ。
マリーは、しかし、微動だにしていない。しかし彼女が素知らぬ態度をとる時ほど恐ろしいことはない。フィリップは主君の様子に変化を読み取ったようだ。
「か、閣下、どうかなされましたか」
ポーラは何かに気づいたことを隠した。無理やりに話題を元に戻す。しかしマリーから伸びてくる触手は「忘れませんから」と言っているような気がしてならない。そんなものはもちろん無視するに限る。いま、重要視すべきは後継者に指名した弟のことに他ならぬ。
少年の何かを確かめるように彼の顔を覗き込む。
「父上の墓所に?ジョフロアが?」
フィリップは何か言いたいことがあったようだが、それを噛みしめて黙りこくってしまった。城の階下で何やら騒ぎが起き始めた。それは瘴気のありようを摑めばすぐにわかる。マリーも感じ取っている。
ポーラは突き放すように言い渡す。
「フィリップ、そなたの名前は覚えた。弟のことを頼む。私は男爵の謁見に臨まねばならぬ。マリー、ついてこい」
階下から上がってくる血の匂いに気を取られているものの、まだ少年のあどけない顔はポーラの脳裏に残っている。それは彼女としは珍しいことだった。若い公爵閣下はより血を好まれる。そうした風評を少女は公の場であえて肯定してきた。
侍従や侍女たちが慌てふためいてやってくる。そんなことは無意味だが、慣習として何事があったのかと尋ねる。
女性趣味がこんなところに余波を広げている。
彼らや彼女らは普段は感じたことのない瘴気に自分を失ってしまっている。さもありなん、宮廷で羽を伸ばしすぎた結果だろう。そういう日々を楽しんだ竜騎士や魔法の使い手がどうなるのか、連中をみていればわかる。侍従や侍女の多くはかつて戦場を暴れまわった体験を持っている。そうでないものの一定の訓練を受けている。彼らや彼女らは、太后の方針によってかなりのところ牙を抜かれてしまった。ポーラの目の及ばないところで無視できない事態に陥っている。
が、バブーフ男爵の謁見によってそれが暗転したようだ。
まだ一滴として血は流れていない。それにも関わらず血なまぐさい。
すでに家臣たちを瘴気によって怒鳴りつけていながら、ポーラは自らの戦闘への欲求を抑え込むことに苦慮している。
ほんとうの戦場には程遠いが、それでも子供の遊び場くらいの価値はある。
侍従や侍女たちに命ずる。
「そなたらは、太后さまのところに行っていなさい。すべては城主である私が把握している」
バブーフ男爵の瘴気に満ち溢れている。家臣たちが復讐のために色めきだっている。ドリアーヌはこんな芸当もできるとは、ポーラは意外だった。宿主の瘴気を出して自らの正体を幻惑させることも可能なのだ。
「マリー、彼女の、この能力について知っていたか」
「当然です、私は彼女の姉なのですよ・・・」
「そうならば、私も姉ではないか、このことについては姉妹の話し合いをしなければならならない、水入らずにな・・」
大広間は身分の上下に関係なく足を踏み入れられる。そこから流血を欲する瘴気がみなぎっている。
少女はそこ向かって螺旋階段を下っていく。
彼女が無意識のうちに怒りを表明するだけで、階下がおとなしくなったことには、マリーは驚かない、これこそが、彼女の姉上さま、なのだ。喩えようもなく輝く存在であり、それは天下を明るく照らすのだ。何分にも眩しすぎてたまに寝ていてもらいたいときは魔法という棍棒で頭を軽くドつかせていただく。それは妹に与えられた権利だと勝手に思っている。
ここは自分も存在感を示しておくべきだと、マリーは思った。
「どうしたマリー、戦場が恋しくなったのか、太后さまを呆れさせるが?そなたまでもが血の匂いに焦がれるようになったら、母はどうしていいのわかりません、とな」
マリーの瘴気もまた階下をより平伏させる。治療属性にこれほどまでに威圧されたことはなかった。家臣たちはこれまでにない体験に動揺を隠すことができない。
「姉上さまと一緒にしてもらいたくないものですね、それから母上さまはそんなにヤワなお方ではありません、おしとやかではいらっしゃいますが」
「オシトヤカ?誰のことだ?」
痴話げんかを姉妹で繰り広げている。
階下では、家臣たちが身の震えを止められずにいた。フィリップのように主君への恐怖のためではなく、ただひたすらに畏怖と尊敬のためである。
魔法源泉を巡っての試行錯誤こそが唯一の戦争の技術のすべてだった。それが過言ではなかった時代が中世にほかならない。それとの距離と本人の資質の関数が兵站確保が諸侯にとって戦場における常在課題だった。そのさじ関係が彼や彼女らの名誉に関係するのだ。
いかに竜騎士や魔法の使い手を魔法源泉に近づけるか?
それが彼らや彼女らの能力発現に決定的な影響を与える。
王、公爵並の魔法能力という言い方がよくされた。
遠方からでも源泉を利用できるナント王やポーラが、まず戦端を斬る。当然、宗教的な儀式と権威に裏付けされた一騎打ちが人々の前に展開する。その有様はまさに神々しいとしか表現できないほど輝かしく、まさに中世の華と吟遊詩人にうたわれた。
中世人は神という単語を畏れ多いとして主という言い方しかしなかったから、現代的にいえば神にも等しい存在だった。なんとなれば、ナント王やポーラならば遠距離にある魔法源泉からでもその戦争資材を使うことができる。まずは連中が斬りこみ、橋頭保を構築し、かつ中下級の魔法の使い手、竜騎士を源泉へと導く。これが中世における戦術のすべてだと言っても過言ではないのだ。
しつこいようだが、自分たちを親のように勝利に導いてくださる上位貴族は現代的にいえば軍神そのものだった。戦うだけでなく護ってくださるのだ。
契約という概念はエウロペ人の在り方そのものを規定している。そういうステレオタイプな見方からドライな主従関係を想像する人もいるだろうが、史実は違う。
さて、広間に降りたポーラは家臣たちに取り囲まれた。いずれも膝をつく。少女は笑った。
「そなたら、何だそれは?私は天使さまではないぞ」
不思議なことが起こるものだと思う。身体は自分だけのものではないような気がしてくる。そう思った瞬間に少女は本当の自分よりもはるかに大きくなった。
「もしもバブーフ男爵が約束通りに動いていれば、すでに仇敵モンタニアールは最後の審判を待つ身となっていたであろう、そして余は王位を得るために階段を上り始めていたことは間違いない。しかし、だ。事実そうならなかった。何故か?男爵と余は契約を結んでいなかったからだ。契約とは公認のもの、そうなればナント王を謀ることは難しい。それは間違いだった。余の経験不足、戦争下手が招いたことだ。余はそなたらに謝罪しなければならない・・・」
家臣の一人が這いつくばって前に出た。まるでポーラが天使さまの足に接吻するような仕草だった。
ポーラと年齢的に変わらない竜騎士だ。
「アンヌマリー、私は天使さまではない。単なる人間にすぎないのだ。そなたと契約を結んだ主君にすぎない。たしかにアンヌマリーが男爵ならば、信頼する我が家臣がそんなことをすることはありえないが、仮定としてやったならば、主が黙っておられない。ミラノ教会が主の剣となって、厳罰に処したことだろう。だが、そうはならなかった。なんとなれば、男爵はアンヌマリーではないからだ」
「?!」
一同にざわめきが起こった。少女の輝きによって押さえつけられていた血の騒めきが復活した。それはバブーフ男爵の瘴気が真に迫ったからだ。
広間に連なる巨大な扉が轟音とともに開く。
「バブーフ男爵、フランソワ・ノエル様のおなりー」
裏切りもの、本人を真の当たりにして一同は先ほどとは違った騒めきを起こした。
あれが男爵だったか?何か違う。しかし瘴気は本人だ。
自問自答する。それは何処か自慰に似ないでもない。だがそうでもしないと目の前で起こっている現象を説明できない。
バブーフ男爵とはこれほどまでに凛々しい外見を備えていただろうか?
平静を保っているポーラとて、じっさい驚いているのだ。
だんだん大きくなっていく男爵は、じつはドリアーヌなのだ。それはわかっている。それにも関わらず圧倒されているのだ。
家臣たちは、まるで男爵が主君の家族であるかのように道を一斉に開ける。
彼はそれをもろともしない。当然のように受け止めている。
それを見ていたポーラは、もちろん、片鱗も外に出さないがほっとしていた。
やっと、自分を姉と認めてくれたのか。
少女はマリーに語り掛けるように言った、しかし、主君が家臣を迎えるような視線は固定したままで・・・。
「よく来られた男爵」
少女は家臣の様子を観察している。自分の発言でどのような反応を示すのか。はたして反動はないが、それはドリアーヌに呑まれていることを意味する。この場で真実を明らかにしてもいいのだが、それは彼女の自由な動きを阻害するように思われた。マリーならばそう進言するだろう。彼女の目はそう語っている。
ポーラのまつげの動きに反応すると、マリーは口を開いた。
「これまでのことは即座に水に流すというわけには参りません。しかし今度のことで男爵もいずれに正義や理があるのか学ばれたはず、今回の謁見はそれを示したものだと見なしていいのでしょうね」
マリーの言葉は冷たい。家臣たちの間では氷と呼ばれているとポーラは聴く。冗談めかかして温かい心で溶かしてやるとポーラは抱きしめにかかると、治療属性の技術を悪用してしたたかな逆襲を受けたものだ。
しかしながら、それは茶番劇だと知っている。それでも演技だとしても、あれほど冷徹な政治家を演出できる。ポーラは大したものだと思えた。もしかしたら父公爵の施政にみられる冷徹さに通ずるものがあるかもしれない。ならば、自分の戦争遂行能力と併せれば天下を取ることができる・・・・。ナント王を凌駕できる。
もしもエイラート奪還軍の話がなければ、そのようにポーラはさぞかし活き込んだことだろう。しかし事実はそうではない。だが、家臣たち、そして今にもアラス城に押し寄せようといている配下の諸侯たちはそうは思っていない。バブーフ男爵がポーラに従うとなれば、勢いづくことは簡単に想像できる。今となっては無意味なことだが帰趨を決定していない諸侯も公爵家に膝をつくことも十分に考えらえる。
ポーラは、この城にルイ・ド・モンタニアールがいることをどう考えればいいのか迷っている。彼に渡りをつければナント王と連絡を取りやすい。周囲を気にする必要がないのだ。しかし忸怩たるおもいを否定できない。どうしてこんなときにあの男の顔が浮かぶのか。どうして彼に遠慮せねばならないのか。
それよりも重要なことがある。
ポーラが残念に思ったのは、エイラート奪還軍の宣言を自分ができないことだ。だが、次の瞬間にはそれは増長の限りだと思いなした。それをすべきなのは天使さまに他ならない。家臣に言ったとおり自分は単なる人間にすぎないのだ。
バブーフ男爵ことドリアーヌは、これまでの無礼を詫びる代わりに公爵を責め始めた。当然のことだが、家臣たちは再び、怒りを沸騰させはじめる。しかしこれは深謀遠慮だとわかる。まごうかたなきバブーフ男爵だと、どうしてもみなに印象付けたいのだろう。それには彼の家臣も含まれているにちがいない。というよりはそちらの方がより重要なのだろう。
バブーフの言葉は、平素の彼を考えれば当たり前のこと、いかにも彼が言いそうなことの羅列だった。短時間でよくもあの虫けらの特性を理解したものだ。それよりも、よくもあの汚らわしい殻の中に入ることを了承したものだ・・・そこまで敷衍して、ポーラはドリアーヌの本体を思い出した。
家臣たちにはそれが気難しい顔に見えたらしい。
男爵と公爵のやりとりはまさに本物にみえてくる。事実を知っているマリーでさえが息を呑む。吟遊詩人の出し物の多くは、事の顛末がわかっている。それなのに大人も子どもも胸を躍らせるのだ。だからこのような心理になることはおかしなことではない。ただし、よくよく考えれば、これほど知性の色艶を感じさせる言葉を男爵の口から聴くことはありえない。
しかし家臣たちは完全に騙されている。これは考えものといえば考えものだ。そういう方面に仕える人材を期待できないことを意味する。
男爵は言う。
「閣下は戦争が下手です。パリ侵攻の足並みはなっていませんでした。まこと・・・・」
男爵が言葉を中絶させた理由をみなが一瞬で理解した。
アンヌマリーが男爵に近づき、いまこそ剣を抜こうとしていた。
「・・・・ひ」
「我が君を侮辱するのか?・・・え、あ?」
外見上、男爵はおびえているが、言うまでもなく、それは演技だ。アンヌマリーはそれを見抜いたかのように後ずさった。
マリーはほくそ笑んだ。具体的にはもちろん捉えていないだろうが、もしや何か見抜いたのか?そして彼女はまだ剣を抜いていない。それは理性の仕事だろう。並外れた洞察力と判断力の証拠だ。これは使えるかもしれない。もしも殿上で剣を抜いていたら、それどころではない。改易も十分にありうる。混乱を避けるために本人の発狂ということで済まされるだろうが、彼女は18歳にしてもう二度と公爵家の家臣として剣を抜くことができない。
「カロリンヌ従子爵、どうなさったのですか?」
「は・・・ぁ、」
マリーが何か言おうとしたところで、姉上さまの声が響いた。
「従子爵、追って沙汰をする、控えておれ」
姉上さまも理解したのだろう。打ちひしがれて退場しようとするアンヌマリーだが、それは洞察できないようだ。
妹と目が合う。アンヌマリーに見抜かれたことは彼女にとっても意外なことだったらしい。
ポーラは言った。
「アニエス、アニエスはおるか?」
家臣たちは先ほどとは違った意味でどよめいた。ここに集注した彼らや彼女らは何れも若く、ここに新ドゴール伯爵が来ているとは思っていなかった。
黙って頷いた伯爵は大剣を佩いている。小柄な身体に不釣り合いな代物だ。そんな目立つ外見にもかかわらず、そして本人の瘴気の強さにもかかわらず、大多数には気づかれずに集注の中心まで達していた。若い自分たちに叶わないものをアニエスの中に発見して、若者たちは内心で忸怩たるものというか、むしろ素直に怖れを抱く者が多数だった。
ポーラは伯爵を認めると言った。
「剣を貸せ」
アニエスは、ほぼ儀式と化した言葉を発する。
「聖剣はもともとロベスピエール公爵家の者,下賜されたとは思っておりませぬ、貸与されたのです」
黙って剣を手にしたポーラは、剣を抜く。大剣は体格からいえばアニエスよりも大きなポーラが振るってもやはり巨大だった。
「いいのだな、男爵」
「・・・」
まるではるかな古代から約束された空間と時間のように、集注の目、目、目には映る。一方、内実を知る人間には笑止でしかないのだが。
ポーラは、剣先を男爵の右肩に当てる。
「フランソワ・ノエル・ド・バブーフ、そなたは主の認可のもとに、余、ロベスピエール公爵ポーラ三世と契約を結ぶ。1027年3月12日・・」




