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星に願ったら聖女と入れ替わりました ~悪役令嬢は孤児院で「お姉ちゃん」に、聖女は王宮で「悪女」になるそうです~  作者: みなかな


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2/2

第二話 悪役令嬢、孤児院のお姉ちゃんになる

一日目


「リリア! どうしたんだい、朝っぱらから大声出して!」


 ばたん、と扉が開いて、腰の曲がった老婆が飛び込んできた。

 エプロンで手を拭きながら、目を丸くしている。


 その声で、部屋中の子どもたちが一斉に目を覚ました。


「なに? なにー?」

「おばけ?」

「リリア姉ちゃんが叫んだ……」


 ヴィオレッタは、胸の上の男の子を両手で押しのけた。

 男の子は「わっ」と声を上げて、ベッドから転がり落ちた。


「いたぁい……お姉ちゃん、なんでおすのぉ……」

「あ、あなたこそ、なんですの! わたくしの上で寝るなんて、無礼にもほどがありますわ!」

「ぶれい……?」


 男の子はきょとんとして、床の上で首をかしげた。

 老婆が、心配そうに眉を寄せて近づいてくる。


「リリア、悪い夢でも見たのかい?」

「リリアではありませんわ! わたくしはヴィオレッタ・グランディール。グランディール公爵家の娘ですのよ!」


 部屋が、しんと静まり返った。


 子どもたちが、互いに顔を見合わせている。

 老婆は、ヴィオレッタの額にそっと手を当てた。


「……熱はないねえ」

「熱なんてありませんわ!」

「昨夜、ミナの看病で寝てないからだよ。寝ぼけてるんだね。公爵令嬢だなんて、あんた、あの絵本の読みすぎだよ」


 くすくす、と子どもたちが笑い出した。


「リリア姉ちゃん、お姫様ごっこしてる」

「こうしゃくれいじょう、だって!」

「ぼくもやる! ぼく、おうじさま!」


 ヴィオレッタは、口をぱくぱくさせた。

 違う、と言おうとして、部屋の隅に転がった手鏡が目に入った。


 飛びつくように拾い上げる。

 ひびの入った鏡面に、知らない少女が映っていた。


 くすんだ栗色の髪。そばかすの散った頬。日に焼けた肌。

 寝不足でくまのできた、とろんとした垂れ目。


 鏡を持つ手が、震えた。

 自慢の銀髪も、真珠のような肌も、紫の瞳も、どこにもない。


「嘘……でしょう……?」


 鏡の中の少女も、同じように唇を動かした。


◆


 どうやら、夢ではないらしい。


 顔を洗えと言われて井戸まで連れていかれ、水の冷たさに悲鳴を上げた。

 着替えろと言われて渡された服は、何度も繕った跡のある、ごわごわした麻のワンピースだった。

 髪を結べと言われても、ヴィオレッタは自分で髪を結んだことが一度もなかった。


 結局、老婆——院長のマーサというらしい——が、ため息まじりに髪をひもで一つにまとめてくれた。


「本当にどうしちまったんだい。いつもは子どもたちの髪まで全部結んでくれるのに」

「知りませんわ、そんなこと」

「……やっぱり、頭でも打ったのかねえ」


 マーサは首をひねりながら、台所へ戻っていった。


 ヴィオレッタは、ひとり残された部屋で、ベッドの端に座り込んだ。


 リリア。

 この体の持ち主の名前らしい。孤児院の娘で、子どもたちの「お姉ちゃん」。


 昨夜の記憶をたどる。

 夜会。バルコニー。流れ星。

 ——こんなくだらない場所、早く出ていきたいですわ。


「……まさか」


 ヴィオレッタは、額を押さえた。


「出ていきたいとは言いましたけれど、こんなところに来たいとは、一言も言っていませんわ……!」


◆


 朝食の時間だと呼ばれて、狭い食堂に連れていかれた。


 長いテーブルに、子どもたちが十人並んでいる。

 ヴィオレッタの前に置かれたのは、木の器に入った、ほとんど水のようなスープだった。刻んだ芋の切れ端と、しおれた葉っぱが、申し訳程度に浮いている。

 それと、指ほどの大きさの、固そうなパンがひとかけら。


「……これが、朝食?」

「そうだよ。今日はパンがあるだけましさ」


 マーサは、さらりと言った。


「いただきまーす!」


 子どもたちが、元気よく手を合わせた。

 誰も文句を言わない。大事そうにパンをちぎって、少しずつ口に運んでいる。


 ヴィオレッタは、器を押しやった。


「こんなもの、食べられませんわ。家畜の餌ではありませんか」


 食堂が、しんと静まり返った。


「……リリア姉ちゃん、今日なんか変だぞ」


 一番年上らしい少年が、眉をひそめた。十二歳くらいだろうか。目つきの鋭い、生意気そうな顔をしている。


「ルカ、およし」

「だって院長、姉ちゃん朝からずっと変じゃん」


 すると、ヴィオレッタの斜め向かいから、甲高い声が飛んできた。


「ほんと。お姉ちゃん、なにその喋り方。ですわ、ですわって。変なの」


 八歳くらいの女の子だった。

 顔色は青白く、目の下にうっすらくまがある。病み上がりなのか、毛布を肩に羽織ったまま座っていた。そのくせ、口だけはやけに元気だった。


「ミナの熱、うつったんじゃないの? 頭まで熱にやられちゃったんだ」

「な……」

「それとも、お姫様ごっこ? お姉ちゃん、似合わないよ。そばかすのお姫様なんて、絵本にいないもん」


 子どもたちが、どっと笑った。

 ヴィオレッタの頬が、かっと熱くなった。


 なんですの、この子は。

 公爵令嬢であるわたくしに向かって、なんて口のきき方を。


 ——クソガキ。


 生まれてこのかた一度も口にしたことのない言葉が、頭の中にはっきりと浮かんだ。


「……あなた、お名前は」

「はあ? ミナだよ。お姉ちゃん、ほんとに頭おかしくなっちゃったの?」

「ミナ。覚えておきますわ」


 ヴィオレッタは、ミナを冷たく見据えた。

 夜会で、何人もの令嬢を黙らせてきた目つきだった。


 ミナは、一瞬だけきょとんとして、それからむっと頬をふくらませた。


「なにその顔。こわくないし」

「……っ」


 怯まない。

 王都の令嬢たちなら、この目で見ただけで泣き出したのに。


 くい、とスカートの裾を引っ張られた。

 今朝、ベッドから払い落とした男の子だった。トト、と呼ばれていた。


 小さな手に、自分のパンを握っている。


「お姉ちゃん、おなかいたいの?」

「……え?」

「じゃあ、トトのパンあげる。やわらかいとこ、のこしといたよ」


 差し出されたパンは、トトの手の熱で、ほんのり温かかった。

 固い皮の部分だけをかじり取って、やわらかい真ん中を残してある。


「……あなたの分でしょう」

「いいの。お姉ちゃん、いつもトトにくれるから。こんどはトトのばん」


 トトは、にこっと笑った。前歯が一本抜けていた。


 ヴィオレッタは、何も言えなかった。


 昨夜の夜会を思い出す。テーブルには食べきれないほどの料理が並び、半分以上が手つかずのまま下げられていった。誰もそれを気にしなかった。わたくしも。


 受け取ったパンを、小さくちぎって、口に入れた。

 ぱさぱさで、ほとんど味がしなかった。


「……まずいですわ」


 そう言いながら、最後まで食べた。

 トトは嬉しそうに、椅子の下で足をぶらぶらさせていた。


 ミナが、スープの器越しに、じっとこちらを見ていた。


◆


 その日は、何もしなかった。

 正確には、何もできなかった。


 マーサに「今日は休んでな」と言われ、ヴィオレッタは一日中、ベッドの上で膝を抱えていた。

 時々、子どもたちが扉の隙間から覗きに来た。目が合うと、きゃあきゃあ言いながら逃げていった。


 窓の外では、子どもたちが洗濯物を干したり、薪を運んだりしていた。

 みんな、働いている。五歳のトトでさえ、小さな籠を抱えて走り回っている。


 ヴィオレッタは、自分の手のひらを見つめた。

 かさついて、指先が固くなって、小さな傷がいくつもある手。

 この手の持ち主は、毎日、何をしていたのだろう。


◆


 夜になった。


 子どもたちが寝静まったあとも、ヴィオレッタは眠れなかった。

 藁の布団はちくちくするし、どこからか隙間風が吹き込んでくる。隣のベッドからは誰かのいびきが聞こえる。


 公爵家の寝室を思い出した。

 羽毛の寝台。絹のシーツ。暖炉の火。枕元の水差し。

 侍女を呼べば、すぐに誰かが飛んでくる。


 ここには、誰もいない。

 誰も、わたくしをヴィオレッタとして見ていない。


「……お父様」


 口にしてから、ヴィオレッタは唇を噛んだ。

 呼んだところで、あの人は来ない。王都にいたときだって、一度も来てくれたことはない。


 目の奥が、熱くなった。


 泣くものか、と思った。

 公爵令嬢は、人前で涙を見せない。母がいない家で、ずっとそうやって生きてきた。


 でも、ここには誰も見ている人がいない。


 毛布を頭までかぶって、ヴィオレッタは声を殺して泣いた。

 藁の匂いのする枕が、少しずつ湿っていった。


 隣のベッドで、ミナが寝返りを打った。

 薄く開いた目が、毛布の塊をしばらく見つめていたことに、ヴィオレッタは気づかなかった。


二日目


「リリア、今日は洗濯を頼めるかい。昨日の分がたまっちまってね」


 朝食のあと、マーサに山のような洗濯物を渡された。

 子ども十人分のシャツ、ズボン、下着、それに布団の敷布。籠からあふれそうになっている。


「……わたくしが?」

「他に誰がいるんだい。あたしゃ腰が痛くてね」


 ヴィオレッタは、籠を見下ろした。

 洗濯。

 知識としては知っている。屋敷の洗濯係が、裏庭で何かやっていた。何をやっていたのかは、見たこともない。


「……よろしいですわ」


 ヴィオレッタは、籠を抱え上げた。

 重い。腕が抜けそうだった。


 公爵令嬢にできないことなど、あるはずがない。

 たかが洗濯だ。布を水に浸して、汚れを落とせばいいだけのこと。


◆


 まず、水汲みでつまずいた。


 井戸の釣瓶を引き上げようとして、縄の重さに手が滑った。桶が勢いよく井戸の底に落ちていき、ばしゃーんと派手な音がした。

 二度目は、なんとか引き上げたものの、自分の桶に移そうとして、半分以上を足元にぶちまけた。


 ヴィオレッタの靴と、スカートの裾が、ずぶ濡れになった。


「……っ」


 三度目で、ようやく桶に半分ほどの水を移せた。

 それを洗い場のたらいまで運ぶだけで、腕がぶるぶる震えた。


 たらいに洗濯物を放り込み、水をかける。

 それから、どうするのだろう。


 ヴィオレッタは、しばらく考えてから、シャツを一枚つかんで、水の中でばしゃばしゃと振った。

 汚れは、まったく落ちなかった。


 今度は、両手でシャツを握って、ごしごしとこすり合わせてみた。

 少しだけ泥が落ちた。代わりに、手のひらがひりひりしてきた。


 水は、冷たかった。

 秋の井戸水は、指先を刺すように冷たい。十枚も洗わないうちに、ヴィオレッタの手は真っ赤になり、感覚がなくなってきた。


「なにしてんの、それ」


 背後から声がした。

 振り向くと、ミナが洗い場の柱にもたれて立っていた。昨日と同じように、毛布を肩に羽織っている。


「……洗濯ですわ。見てわかりませんの?」

「わかんない。遊んでるのかと思った」

「な……」

「へったくそ」


 ミナは、ずかずかと近づいてくると、たらいの横に立てかけてあった板を引き寄せた。

 表面に、細かい溝がいくつも刻まれた、木の板だった。


「洗濯板。これ使うの。こうやって、石けんつけて、ここでこするの」


 ミナは、小さな手でシャツを板に押しつけると、慣れた手つきで上下にこすり始めた。

 しゅっ、しゅっ、と小気味いい音がして、泥の染みがみるみる薄くなっていく。


「……」

「ほら、お姉ちゃんもやって」


 ミナが、板をヴィオレッタのほうに押しやった。

 ヴィオレッタは、しぶしぶシャツを板に当てて、こすってみた。


「力入れすぎ。布が破れちゃう」

「……こうですの?」

「ちがう、もっと下のほうを持つの。で、手首で動かすの。腕全体でやったら、すぐ疲れちゃうよ」


 言われたとおりにやってみると、確かにさっきより楽だった。汚れも、ずっとよく落ちる。


「……あなた、なぜこんなことを知っていますの」

「はあ?」


 ミナが、あきれたように眉を上げた。


「お姉ちゃんが教えてくれたんじゃん。ミナが五歳のとき」


 ヴィオレッタの手が、止まった。


「忘れちゃったの? ほんとに頭おかしくなっちゃったんだね」


 ミナは、ふんと鼻を鳴らした。

 それでも、その場から離れようとしなかった。たらいの縁に腰かけて、ヴィオレッタが一枚洗い終えるたびに「まだ襟が汚い」「そこ、もう一回」と口を出してくる。


「……あなた、病み上がりでしょう。寝ていなくてよろしいの?」

「寝てるのあきた」

「そうではなくて。また熱が出たらどうしますの」


 ミナが、ちらりとこちらを見た。


「……お姉ちゃんがいるから、大丈夫だもん」


 小さな声だった。

 ヴィオレッタは、聞こえなかったふりをして、洗濯板に向き直った。


◆


 洗濯物をすべて干し終えた頃には、昼をとうに過ぎていた。


 ヴィオレッタは、洗い場の石段に座り込んで、自分の手を見つめた。

 真っ赤に腫れて、指先の皮がふやけている。ところどころ、洗濯板でこすれて血がにじんでいた。


「うわ、姉ちゃん、手ぇやべえじゃん」


 薪を抱えて通りかかったルカが、顔をしかめた。


「てか、洗濯だけで半日かかったの? いつもなら朝のうちに終わるのに」

「……うるさいですわ」

「なあ、水汲みも失敗してたろ。俺、見てたぞ。桶、井戸に落としてたじゃん」


 ルカは、薪を下ろして、ヴィオレッタの前にしゃがみ込んだ。

 からかうような口調だったが、目は笑っていなかった。


「姉ちゃん、何もできねえじゃん。どうしちまったんだよ」


 ヴィオレッタは、答えられなかった。


 何もできない。

 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。


 公爵家では、何でもできた。

 ドレスを選ぶことも、令嬢たちを黙らせることも、使用人を追い出すことも。

 でも、ここでは、桶一つまともに運べない。シャツ一枚、まともに洗えない。


 わたくしは、今まで、何ができていたのだろう。


「ルカ、あっち行って」


 ミナが、ヴィオレッタとルカの間に割り込んだ。

 毛布を羽織ったまま、腰に手を当てて、ルカを睨みつける。


「お姉ちゃん、ミナの看病で疲れてるの。ちょっと調子悪いだけ。ね、お姉ちゃん」

「……」

「ほら、ルカは薪でしょ。さっさと運びなよ」


 ルカは、何か言いたげに口を開けて、それから閉じた。

 薪を抱え直して、黙って去っていった。


 ミナは、ふうと息をついて、ヴィオレッタの隣に座った。


「……なぜ、かばいましたの」

「べつに。ルカがうるさかっただけ」


 ミナは、ぷいとそっぽを向いた。

 それから、エプロンのポケットから何かを取り出して、ヴィオレッタの手に押しつけた。


 小さな陶器の器に入った、軟膏だった。


「手に塗っとけば。お姉ちゃんが、いっつもミナに塗ってくれるやつ」

「……」

「あ、でもそれ、もう残りちょっとしかないから。ちょっとだけね」


 ヴィオレッタは、軟膏の器を見つめた。

 底のほうに、指先ですくえるかどうかという量しか残っていなかった。


「……あなたの分でしょう」

「ミナはもう、手あれてないもん」


 嘘だった。

 ミナの小さな指先も、赤くひび割れていた。


 ヴィオレッタは、少しだけ迷ってから、軟膏をほんのわずかだけ指ですくった。

 そして、残りを器ごと、ミナの手に戻した。


「わたくしは、これで十分ですわ」

「……え」

「あなたの手のほうが、ひどいでしょう。塗っておきなさい」


 ミナは、目をぱちくりさせた。

 それから、戻された器と、ヴィオレッタの顔を、交互に見比べた。


「……やっぱりお姉ちゃん、変」

「変で結構ですわ」

「変だけど」


 ミナは、軟膏の器をぎゅっと握りしめた。


「今のは、ちょっとだけ、いつものお姉ちゃんっぽかった」


三日目


「リリア、あんた、字は読めるだろう? 帳簿の整理を手伝っておくれ」


 三日目の昼過ぎ、ヴィオレッタは院長室に呼ばれた。


 院長室といっても、物置を少し広くしただけの小部屋だった。古びた机の上に、分厚い帳簿が何冊も積まれている。

 マーサは眼鏡をかけ直しながら、疲れたように笑った。


「年のせいか、最近は数字を見ると目がかすんでね。あんたがいてくれて助かるよ」


 帳簿を開いて、ヴィオレッタはすぐに眉をひそめた。


 字が汚い。計算の途中で線を引いて書き直した跡が、いくつもある。桁がずれている箇所もあった。

 公爵家の家令が見たら、卒倒しそうな代物だった。


「……ずいぶん雑な帳簿ですのね」

「すまないねえ。独学でね」

「貸してくださいな。整理し直しますわ」


 ヴィオレッタは、新しい紙を一枚もらって、帳簿の数字を一から書き写し始めた。

 収入と支出を分け、月ごとにまとめる。

 公爵家で、家庭教師に叩き込まれたやり方だった。当時はくだらないと思っていた。まさか、こんなところで役に立つとは。


 ペンを走らせながら、ヴィオレッタは数字の流れを追っていった。


 食費。薪代。薬代。服の繕い代。

 収入は、町の教会からのわずかな援助と、子どもたちの内職の稼ぎ。それから——。


 ヴィオレッタのペンが、止まった。


 三年前、二年前の帳簿には、毎年同じ時期に、大きな入金が記されていた。


 ——王都グランディール公爵家より 金貨二十枚


 そして、去年の帳簿には、その一行がなかった。

 その月から、支出の欄が目に見えて減っていた。食費が削られ、薬代が消え、服の繕い代がなくなっていた。


「……ずいぶん、赤字ですのね」


 声が、少しだけかすれた。


「ああ。ここ一年で、急に苦しくなってねえ」


 マーサは、窓の外で遊ぶ子どもたちを眺めながら、深いため息をついた。


「前はね、王都の公爵様から毎年寄付をいただいてたんだよ。グランディール公爵家さ。それが去年、急に打ち切られちまって」


 ヴィオレッタは、答えなかった。


「なんでも、公爵様の亡くなった奥様が、昔この町の出でね。子どもの頃、この孤児院にいたこともあったらしいよ。それで、奥様が嫁がれてから、ずっと寄付を続けてくださってたんだ。奥様が亡くなってからも、公爵様は欠かさず送ってくださってた」


 母が。

 この孤児院に。


「なんで急に打ち切られたのか、わからないままさ。こっちから問い合わせるわけにもいかないしねえ。まあ、偉い人には偉い人の事情があるんだろう」


 マーサは、力なく笑った。


 ヴィオレッタは、帳簿の、空白になった一行を見つめていた。


 父の書斎。寄付先の一覧。

 ——無駄ですわ、お父様。どこの誰とも知れない孤児に金貨二十枚なんて、ドブに捨てるようなものですわ。


 父は、しばらく黙っていた。

 それから、ペンを取った。


 あのとき、父は何を思っていたのだろう。

 母が遺した、たった一つの願いに、娘が線を引かせたとき。


 そして、その線の先には、この孤児院があった。

 水のようなスープ。一日一つのパン。空っぽの薬箱。ひび割れたミナの手。


「……リリア? 顔色が悪いよ」

「……いいえ」


 ヴィオレッタは、ペンを握り直した。

 指先が、冷たくなっていた。


「なんでもありませんわ」


◆


 その夜。

 ヴィオレッタは、窓から屋根に上った。


 昼間、ルカが「姉ちゃんの秘密の場所」と言っていたのを思い出したのだ。子どもたちが寝静まった部屋にいるのが、息苦しかった。


 屋根の上は、思っていたよりも広かった。

 膝を抱えて座ると、頭の上いっぱいに星が広がっていた。


 王都の空とは、まるで違う。

 数えきれないほどの星が、うるさいくらいに瞬いている。


「……ちょっと、星」


 ヴィオレッタは、空を睨みつけた。


「聞いていますの? わたくしですわ。ヴィオレッタ・グランディールですわ」


 返事はない。


「出ていきたいとは言いましたけれど、こんなところに来たいとは言っていませんわ。今すぐ、元に戻しなさい。命令ですわよ」


 星は、ただ静かに瞬いているだけだった。

 流れ星は、ひとつも流れなかった。


「……戻しなさいと、言っていますのに」


 声が、震えた。


 帳簿の空白。

 ひび割れたミナの手。

 トトの差し出した、温かいパン。


 どれも、ヴィオレッタが引かせた一本の線の先にあった。

 あのとき、この場所のことなんて、考えもしなかった。考える必要すらないと思っていた。どこの誰とも知れない子どもたち。自分とは関係のない世界。


 でも、その子どもたちは、ここにいた。

 名前があって、顔があって、ヴィオレッタにパンを差し出して、軟膏を分けてくれた。


「……わたくしの、せい」


 初めて、口に出した。

 誰かに謝ったことはない。自分が悪いと思ったこともない。悪いのはいつも、髪を引っかけた侍女で、刺繍を間違えたお針子で、ワインをこぼした給仕だった。


 でも、これは。

 これだけは、誰のせいにもできなかった。


 夜風が、くすんだ栗色の髪を揺らした。

 ヴィオレッタは、膝に顔をうずめた。


◆


 部屋に戻ると、ミナが起きていた。


 ヴィオレッタのベッドの上に、ちょこんと座っている。毛布を頭からかぶって、まるで小さなおばけのようだった。


「……何をしていますの。寝なさい」

「お姉ちゃん」


 ミナの声は、昼間よりずっと小さかった。


「お姉ちゃん、なんで最近、へんなの」

「……」

「ミナが熱出したから? ミナが、いっつも迷惑かけるから、ミナのこときらいになったの?」


 ヴィオレッタは、言葉を失った。


 毛布の隙間から見えるミナの目が、潤んでいた。

 昼間はあれほど生意気な口をきいていたのに。


「……違いますわ」

「ほんと?」

「本当ですわ。あなたのせいではありません」


 ヴィオレッタは、ミナの隣に腰を下ろした。

 どうしていいかわからなかった。こんなとき、どうすればいいのか、誰にも教わったことがなかった。


 ぎこちなく手を伸ばして、毛布の上から、ミナの頭にそっと触れた。


「……わたくしは、少し、疲れているだけですわ」

「……ふうん」


 ミナは、しばらく黙っていた。

 それから、ヴィオレッタの寝間着の袖を、きゅっとつかんだ。


「じゃあ、今日はミナがいっしょに寝てあげる」

「は?」

「お姉ちゃん、昨日の夜、泣いてたでしょ。ミナ、知ってるんだから」


 ヴィオレッタの顔が、かっと熱くなった。


「な、泣いてなど——」

「泣いてた。毛布の中で、ぐすぐすって。ミナ、耳いいんだから」


 ミナは得意げに言うと、ヴィオレッタのベッドにもぞもぞと潜り込んだ。


「ちょ、ちょっと、あなた——」

「はやく寝て。明日も洗濯あるんだから。お姉ちゃん、へたくそなんだから」


 ミナは、それだけ言って目を閉じた。

 ヴィオレッタの袖をつかんだまま。


 ヴィオレッタは、しばらく天井を見つめていた。

 狭いベッドに、二人分の体温。ちくちくする藁の布団。隙間風。


 昨日より、少しだけ、寒くなかった。


四日目


 ミナが倒れたのは、四日目の昼過ぎだった。


 洗濯物を干している最中、急にしゃがみ込んで動かなくなった。

 駆け寄って抱き起こすと、体が火のように熱かった。


「ミナ!」


 呼びかけても、ミナは苦しそうに浅い息を繰り返すだけだった。

 唇が白い。額に、玉のような汗が浮いている。


「院長! 院長、ミナが!」


 ヴィオレッタの叫び声に、マーサが台所から飛び出してきた。

 ミナの額に手を当てて、顔色を変えた。


「……ぶり返しちまったね。病み上がりで、無理させちまったんだ」

「無理……?」


 昨日も、一昨日も、ミナは洗い場に来ていた。

 寝ていなさいと言ったのに。へったくそ、と言いながら、ヴィオレッタの隣に座っていた。


 ——わたくしが、ちゃんと寝かせていれば。


「ベッドに運ぶよ。ルカ! 手を貸しておくれ!」


◆


 ミナの熱は、夕方になっても下がらなかった。


 むしろ、上がっていた。

 額に乗せた濡れ布は、あっという間にぬるくなる。時々、ミナはうわごとのように何かを呟いた。


「薬を」


 ヴィオレッタは、マーサを振り返った。


「熱冷ましの薬を、飲ませれば——」

「……薬箱は、空なんだよ」


 マーサが、目を伏せた。


「先月から、もうずっと空っぽさ。町の薬師のところで買うには、銀貨が一枚要る。この家にはもう、その銀貨がないんだ」


 銀貨一枚。


 公爵家では、侍女に渡すチップにもならない額だった。

 ヴィオレッタが、一度の夜会で身につける髪飾りの、小さな真珠ひと粒にも満たない。


 その銀貨一枚が、ここにはない。


「では、借りればよろしいでしょう」

「あちこちで、もう借りられるだけ借りてるんだよ。これ以上は……」


 マーサの声が、途切れた。

 ヴィオレッタは、ミナの顔を見下ろした。


 真っ赤な頬。荒い息。

 昨日の夜、ヴィオレッタの袖をつかんで眠っていた小さな手が、今は力なくシーツの上に投げ出されている。


 ヴィオレッタは、立ち上がった。


「……薬師の店は、どこですの」

「リリア?」

「どこですの、と聞いていますの!」


◆


 町の薬師の店は、市場の裏通りにあった。


 日が沈みかけた頃、ヴィオレッタは息を切らして店の扉を叩いた。

 出てきたのは、でっぷりと太った中年の男だった。ヴィオレッタの顔を見るなり、あからさまに嫌な顔をした。


「なんだ、孤児院の娘か。ツケなら、もう利かねえって言ったろう」

「熱冷ましの薬をくださいな」

「話を聞いてたか? 銀貨一枚だ。先に金を見せな」

「今は持っていませんわ」

「じゃあ帰れ」


 男は、扉を閉めようとした。

 ヴィオレッタは、とっさに扉の隙間に足を差し込んだ。


「痛っ……お待ちなさい!」

「おい、何しやがる!」

「話を聞きなさいと言っていますの!」


 男が、ぎょっとしたように手を止めた。

 ヴィオレッタは、扉を押し開けて、店の中に踏み込んだ。


 薄暗い店内。壁一面の薬棚。カウンターの上には、書きかけの帳簿と、封を切っていない手紙の束が散らばっていた。

 ヴィオレッタは、素早くそれらに目を走らせた。


「あなた、字が苦手ですわね」

「あ?」

「帳簿の数字が、三か所ずれていますわ。それに、その手紙の束。王都の薬問屋からでしょう。封を切っていないのは、読むのが面倒だからではなくて?」


 男の顔が、みるみる赤くなった。


「な、なんでそれを……」

「字の汚さでわかりますわ。それと、この棚の値札」


 ヴィオレッタは、壁の薬棚を指さした。


「柳の樹皮の粉末が銀貨一枚。王都の相場の三倍ですわね。田舎だからといって、ずいぶん足元を見ていらっしゃること」

「う、うるせえ! こっちは仕入れにも金がかかって——」

「仕入れ値は、その手紙に書いてあるはずですわ。読めればの話ですけれど」


 男は、ぐっと言葉に詰まった。


 ヴィオレッタは、カウンターの前に立って、男を見上げた。

 背丈は男の胸ほどしかない。ぼろぼろの麻のワンピースに、ひもで結んだだけの髪。

 それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。夜会の広間で、何百人もの貴族を見下ろしてきたときと同じように。


「取引をいたしましょう」

「と、取引……?」

「わたくしが、その手紙を全部読んで差し上げますわ。返事も書きます。帳簿も、一から整理し直します。王都の問屋との交渉の仕方も、教えて差し上げてもよろしくてよ。仕入れ値を、今より二割は下げられますわ」


 男は、ぽかんと口を開けた。


「その代わり、熱冷ましの薬を、今すぐいただきますわ。代金は、わたくしの手間賃と相殺で」

「……孤児院の娘が、なんでそんなことを」

「できるかどうかは、今ここで確かめればよろしいでしょう。手紙を一通、お貸しなさい」


 男は、しばらくヴィオレッタの顔を見つめていた。

 それから、おずおずと手紙の束から一通を抜き出して、差し出した。


 ヴィオレッタは、封を切って、ざっと目を通した。


「ゴルド商会からですわね。来月から仕入れ値を一割上げる、とのこと。ただし、年間契約を結べば据え置く、とも書いてありますわ。それと、追伸で、支払いが二か月滞っていると催促されていますわよ」


 男の顔が、青くなった。


「に、二か月……? そんなに溜まってたのか……」

「ご存じなかったのでしょう。このまま放っておけば、取引を切られますわね」


 ヴィオレッタは、手紙をカウンターに置いた。


「さあ、どうなさいます?」


 男は、長い長いため息をついた。

 それから、薬棚から小さな紙包みを取り出して、カウンターに置いた。


「……三日分だ。明日から、店に来い」

「ありがとう存じますわ」


 ヴィオレッタは、紙包みを胸に抱いて、深く頭を下げた。

 生まれて初めて、誰かに、心から頭を下げた。


◆


 孤児院まで、走った。


 スカートの裾が足にからまる。石畳でつまずいて、膝をすりむいた。

 それでも、止まらなかった。


 扉を開けると、マーサとルカが、ミナのベッドの脇から振り返った。


「リリア! どこ行ってたんだい——」

「薬ですわ!」


 ヴィオレッタは、紙包みを突き出した。

 マーサの目が、大きく見開かれた。


「こ、これ、どうやって……」

「話はあとですわ。お湯を、早く!」


 ルカが、弾かれたように台所へ走っていった。


 薬を白湯に溶いて、ミナの体を起こす。

 ミナは、うっすらと目を開けたが、焦点が合っていなかった。


「ミナ。飲みなさい。薬ですわ」

「……にが、い……」

「苦くても飲むのですわ。ほら」


 少しずつ、少しずつ、口に流し込む。

 ミナは顔をしかめながらも、なんとか全部飲み干した。


 それから、ヴィオレッタは、ミナのベッドの脇に座った。


「リリア、あんたも休みな。あたしが代わるから」

「いいえ。わたくしが看ますわ」

「でも、あんた、膝から血が出てるじゃないか」

「このくらい、なんでもありませんわ」


 マーサは、何か言いかけて、それから黙って頷いた。


◆


 どう看病すればいいのか、わからなかった。


 公爵家では、誰かが熱を出せば、医者が呼ばれた。侍女が付き添った。ヴィオレッタは、部屋の外から様子を聞くだけだった。

 自分が熱を出したときも、そうだった。枕元には、いつも知らない侍女が座っていた。


 だから、ヴィオレッタにできることは、少なかった。


 井戸で冷たい水を汲んでくる。布を浸して、ミナの額に乗せる。布がぬるくなったら、また水に浸す。

 汗を拭いてやる。唇が乾いたら、水を含ませる。


 それだけのことを、何度も、何度も繰り返した。


 夜が更けていった。

 子どもたちは寝静まり、マーサも椅子に座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいた。


 ミナが、うなされた。

 小さな手が、何かを探すように、シーツの上をさまよった。


 ヴィオレッタは、その手を握った。

 火のように熱かった。


「……お姉ちゃん」


 ミナが、うっすらと目を開けた。

 焦点の合わない目で、ヴィオレッタを見上げる。


「ミナ、しんじゃう……?」


 かすれた、弱々しい声だった。

 昼間の生意気な口ぶりが、嘘のようだった。


 ヴィオレッタは、ミナの手を、両手で包み込んだ。


 死なせない。

 この子を、死なせてたまるものか。


 わたくしが引いた一本の線のせいで、この子は薬も飲めなかった。

 わたくしのせいで、この子は。


「死にませんわ」


 声が、震えないように、腹に力を込めた。


「わたくしが、許しません」


 ミナが、目をぱちくりさせた。

 それから、熱に浮かされた顔で、かすかに笑った。


「……へんな、しゃべりかた」

「変で結構ですわ」

「でも……」


 ミナの指が、ヴィオレッタの指に、きゅっとからまった。


「なんか、つよそう。だから……だいじょうぶな、気がする……」


 ミナは、そのまま目を閉じた。

 ヴィオレッタは、その小さな手を、ずっと握っていた。


◆


 窓の外が、白み始めた。


 ヴィオレッタは、椅子に座ったまま、ミナの寝顔を見つめていた。

 一晩中、一度も目を閉じなかった。


 夜明け前、ミナの額から、玉のような汗が噴き出した。

 慌てて布で拭うと、その下の肌が、ほんの少しだけ冷たくなっていた。


 もう一度、額に手を当てる。

 熱が、下がっていた。


 ミナの息は、いつの間にか穏やかな寝息に変わっていた。

 頬の赤みが引いて、唇に色が戻っている。


「……っ」


 ヴィオレッタは、椅子の背にもたれかかった。

 全身から力が抜けていく。


 誰かのために、眠らなかった。

 生まれて初めてのことだった。


 ミナの手は、まだヴィオレッタの指をしっかりと握っていた。

 その小さな指を、ヴィオレッタは、ほどけなかった。ほどきたくなかった。


「……本当に、手のかかるクソガキですわ」


 小さく呟いて、ヴィオレッタは目を閉じた。


 朝日が差し込むまで、二人はそのまま眠っていた。

 椅子で舟を漕いでいたマーサが、目を覚まして、その光景を見て、黙って毛布をかけてくれたことを、ヴィオレッタは知らない。

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