第二話 悪役令嬢、孤児院のお姉ちゃんになる
一日目
「リリア! どうしたんだい、朝っぱらから大声出して!」
ばたん、と扉が開いて、腰の曲がった老婆が飛び込んできた。
エプロンで手を拭きながら、目を丸くしている。
その声で、部屋中の子どもたちが一斉に目を覚ました。
「なに? なにー?」
「おばけ?」
「リリア姉ちゃんが叫んだ……」
ヴィオレッタは、胸の上の男の子を両手で押しのけた。
男の子は「わっ」と声を上げて、ベッドから転がり落ちた。
「いたぁい……お姉ちゃん、なんでおすのぉ……」
「あ、あなたこそ、なんですの! わたくしの上で寝るなんて、無礼にもほどがありますわ!」
「ぶれい……?」
男の子はきょとんとして、床の上で首をかしげた。
老婆が、心配そうに眉を寄せて近づいてくる。
「リリア、悪い夢でも見たのかい?」
「リリアではありませんわ! わたくしはヴィオレッタ・グランディール。グランディール公爵家の娘ですのよ!」
部屋が、しんと静まり返った。
子どもたちが、互いに顔を見合わせている。
老婆は、ヴィオレッタの額にそっと手を当てた。
「……熱はないねえ」
「熱なんてありませんわ!」
「昨夜、ミナの看病で寝てないからだよ。寝ぼけてるんだね。公爵令嬢だなんて、あんた、あの絵本の読みすぎだよ」
くすくす、と子どもたちが笑い出した。
「リリア姉ちゃん、お姫様ごっこしてる」
「こうしゃくれいじょう、だって!」
「ぼくもやる! ぼく、おうじさま!」
ヴィオレッタは、口をぱくぱくさせた。
違う、と言おうとして、部屋の隅に転がった手鏡が目に入った。
飛びつくように拾い上げる。
ひびの入った鏡面に、知らない少女が映っていた。
くすんだ栗色の髪。そばかすの散った頬。日に焼けた肌。
寝不足でくまのできた、とろんとした垂れ目。
鏡を持つ手が、震えた。
自慢の銀髪も、真珠のような肌も、紫の瞳も、どこにもない。
「嘘……でしょう……?」
鏡の中の少女も、同じように唇を動かした。
◆
どうやら、夢ではないらしい。
顔を洗えと言われて井戸まで連れていかれ、水の冷たさに悲鳴を上げた。
着替えろと言われて渡された服は、何度も繕った跡のある、ごわごわした麻のワンピースだった。
髪を結べと言われても、ヴィオレッタは自分で髪を結んだことが一度もなかった。
結局、老婆——院長のマーサというらしい——が、ため息まじりに髪をひもで一つにまとめてくれた。
「本当にどうしちまったんだい。いつもは子どもたちの髪まで全部結んでくれるのに」
「知りませんわ、そんなこと」
「……やっぱり、頭でも打ったのかねえ」
マーサは首をひねりながら、台所へ戻っていった。
ヴィオレッタは、ひとり残された部屋で、ベッドの端に座り込んだ。
リリア。
この体の持ち主の名前らしい。孤児院の娘で、子どもたちの「お姉ちゃん」。
昨夜の記憶をたどる。
夜会。バルコニー。流れ星。
——こんなくだらない場所、早く出ていきたいですわ。
「……まさか」
ヴィオレッタは、額を押さえた。
「出ていきたいとは言いましたけれど、こんなところに来たいとは、一言も言っていませんわ……!」
◆
朝食の時間だと呼ばれて、狭い食堂に連れていかれた。
長いテーブルに、子どもたちが十人並んでいる。
ヴィオレッタの前に置かれたのは、木の器に入った、ほとんど水のようなスープだった。刻んだ芋の切れ端と、しおれた葉っぱが、申し訳程度に浮いている。
それと、指ほどの大きさの、固そうなパンがひとかけら。
「……これが、朝食?」
「そうだよ。今日はパンがあるだけましさ」
マーサは、さらりと言った。
「いただきまーす!」
子どもたちが、元気よく手を合わせた。
誰も文句を言わない。大事そうにパンをちぎって、少しずつ口に運んでいる。
ヴィオレッタは、器を押しやった。
「こんなもの、食べられませんわ。家畜の餌ではありませんか」
食堂が、しんと静まり返った。
「……リリア姉ちゃん、今日なんか変だぞ」
一番年上らしい少年が、眉をひそめた。十二歳くらいだろうか。目つきの鋭い、生意気そうな顔をしている。
「ルカ、およし」
「だって院長、姉ちゃん朝からずっと変じゃん」
すると、ヴィオレッタの斜め向かいから、甲高い声が飛んできた。
「ほんと。お姉ちゃん、なにその喋り方。ですわ、ですわって。変なの」
八歳くらいの女の子だった。
顔色は青白く、目の下にうっすらくまがある。病み上がりなのか、毛布を肩に羽織ったまま座っていた。そのくせ、口だけはやけに元気だった。
「ミナの熱、うつったんじゃないの? 頭まで熱にやられちゃったんだ」
「な……」
「それとも、お姫様ごっこ? お姉ちゃん、似合わないよ。そばかすのお姫様なんて、絵本にいないもん」
子どもたちが、どっと笑った。
ヴィオレッタの頬が、かっと熱くなった。
なんですの、この子は。
公爵令嬢であるわたくしに向かって、なんて口のきき方を。
——クソガキ。
生まれてこのかた一度も口にしたことのない言葉が、頭の中にはっきりと浮かんだ。
「……あなた、お名前は」
「はあ? ミナだよ。お姉ちゃん、ほんとに頭おかしくなっちゃったの?」
「ミナ。覚えておきますわ」
ヴィオレッタは、ミナを冷たく見据えた。
夜会で、何人もの令嬢を黙らせてきた目つきだった。
ミナは、一瞬だけきょとんとして、それからむっと頬をふくらませた。
「なにその顔。こわくないし」
「……っ」
怯まない。
王都の令嬢たちなら、この目で見ただけで泣き出したのに。
くい、とスカートの裾を引っ張られた。
今朝、ベッドから払い落とした男の子だった。トト、と呼ばれていた。
小さな手に、自分のパンを握っている。
「お姉ちゃん、おなかいたいの?」
「……え?」
「じゃあ、トトのパンあげる。やわらかいとこ、のこしといたよ」
差し出されたパンは、トトの手の熱で、ほんのり温かかった。
固い皮の部分だけをかじり取って、やわらかい真ん中を残してある。
「……あなたの分でしょう」
「いいの。お姉ちゃん、いつもトトにくれるから。こんどはトトのばん」
トトは、にこっと笑った。前歯が一本抜けていた。
ヴィオレッタは、何も言えなかった。
昨夜の夜会を思い出す。テーブルには食べきれないほどの料理が並び、半分以上が手つかずのまま下げられていった。誰もそれを気にしなかった。わたくしも。
受け取ったパンを、小さくちぎって、口に入れた。
ぱさぱさで、ほとんど味がしなかった。
「……まずいですわ」
そう言いながら、最後まで食べた。
トトは嬉しそうに、椅子の下で足をぶらぶらさせていた。
ミナが、スープの器越しに、じっとこちらを見ていた。
◆
その日は、何もしなかった。
正確には、何もできなかった。
マーサに「今日は休んでな」と言われ、ヴィオレッタは一日中、ベッドの上で膝を抱えていた。
時々、子どもたちが扉の隙間から覗きに来た。目が合うと、きゃあきゃあ言いながら逃げていった。
窓の外では、子どもたちが洗濯物を干したり、薪を運んだりしていた。
みんな、働いている。五歳のトトでさえ、小さな籠を抱えて走り回っている。
ヴィオレッタは、自分の手のひらを見つめた。
かさついて、指先が固くなって、小さな傷がいくつもある手。
この手の持ち主は、毎日、何をしていたのだろう。
◆
夜になった。
子どもたちが寝静まったあとも、ヴィオレッタは眠れなかった。
藁の布団はちくちくするし、どこからか隙間風が吹き込んでくる。隣のベッドからは誰かのいびきが聞こえる。
公爵家の寝室を思い出した。
羽毛の寝台。絹のシーツ。暖炉の火。枕元の水差し。
侍女を呼べば、すぐに誰かが飛んでくる。
ここには、誰もいない。
誰も、わたくしをヴィオレッタとして見ていない。
「……お父様」
口にしてから、ヴィオレッタは唇を噛んだ。
呼んだところで、あの人は来ない。王都にいたときだって、一度も来てくれたことはない。
目の奥が、熱くなった。
泣くものか、と思った。
公爵令嬢は、人前で涙を見せない。母がいない家で、ずっとそうやって生きてきた。
でも、ここには誰も見ている人がいない。
毛布を頭までかぶって、ヴィオレッタは声を殺して泣いた。
藁の匂いのする枕が、少しずつ湿っていった。
隣のベッドで、ミナが寝返りを打った。
薄く開いた目が、毛布の塊をしばらく見つめていたことに、ヴィオレッタは気づかなかった。
二日目
「リリア、今日は洗濯を頼めるかい。昨日の分がたまっちまってね」
朝食のあと、マーサに山のような洗濯物を渡された。
子ども十人分のシャツ、ズボン、下着、それに布団の敷布。籠からあふれそうになっている。
「……わたくしが?」
「他に誰がいるんだい。あたしゃ腰が痛くてね」
ヴィオレッタは、籠を見下ろした。
洗濯。
知識としては知っている。屋敷の洗濯係が、裏庭で何かやっていた。何をやっていたのかは、見たこともない。
「……よろしいですわ」
ヴィオレッタは、籠を抱え上げた。
重い。腕が抜けそうだった。
公爵令嬢にできないことなど、あるはずがない。
たかが洗濯だ。布を水に浸して、汚れを落とせばいいだけのこと。
◆
まず、水汲みでつまずいた。
井戸の釣瓶を引き上げようとして、縄の重さに手が滑った。桶が勢いよく井戸の底に落ちていき、ばしゃーんと派手な音がした。
二度目は、なんとか引き上げたものの、自分の桶に移そうとして、半分以上を足元にぶちまけた。
ヴィオレッタの靴と、スカートの裾が、ずぶ濡れになった。
「……っ」
三度目で、ようやく桶に半分ほどの水を移せた。
それを洗い場のたらいまで運ぶだけで、腕がぶるぶる震えた。
たらいに洗濯物を放り込み、水をかける。
それから、どうするのだろう。
ヴィオレッタは、しばらく考えてから、シャツを一枚つかんで、水の中でばしゃばしゃと振った。
汚れは、まったく落ちなかった。
今度は、両手でシャツを握って、ごしごしとこすり合わせてみた。
少しだけ泥が落ちた。代わりに、手のひらがひりひりしてきた。
水は、冷たかった。
秋の井戸水は、指先を刺すように冷たい。十枚も洗わないうちに、ヴィオレッタの手は真っ赤になり、感覚がなくなってきた。
「なにしてんの、それ」
背後から声がした。
振り向くと、ミナが洗い場の柱にもたれて立っていた。昨日と同じように、毛布を肩に羽織っている。
「……洗濯ですわ。見てわかりませんの?」
「わかんない。遊んでるのかと思った」
「な……」
「へったくそ」
ミナは、ずかずかと近づいてくると、たらいの横に立てかけてあった板を引き寄せた。
表面に、細かい溝がいくつも刻まれた、木の板だった。
「洗濯板。これ使うの。こうやって、石けんつけて、ここでこするの」
ミナは、小さな手でシャツを板に押しつけると、慣れた手つきで上下にこすり始めた。
しゅっ、しゅっ、と小気味いい音がして、泥の染みがみるみる薄くなっていく。
「……」
「ほら、お姉ちゃんもやって」
ミナが、板をヴィオレッタのほうに押しやった。
ヴィオレッタは、しぶしぶシャツを板に当てて、こすってみた。
「力入れすぎ。布が破れちゃう」
「……こうですの?」
「ちがう、もっと下のほうを持つの。で、手首で動かすの。腕全体でやったら、すぐ疲れちゃうよ」
言われたとおりにやってみると、確かにさっきより楽だった。汚れも、ずっとよく落ちる。
「……あなた、なぜこんなことを知っていますの」
「はあ?」
ミナが、あきれたように眉を上げた。
「お姉ちゃんが教えてくれたんじゃん。ミナが五歳のとき」
ヴィオレッタの手が、止まった。
「忘れちゃったの? ほんとに頭おかしくなっちゃったんだね」
ミナは、ふんと鼻を鳴らした。
それでも、その場から離れようとしなかった。たらいの縁に腰かけて、ヴィオレッタが一枚洗い終えるたびに「まだ襟が汚い」「そこ、もう一回」と口を出してくる。
「……あなた、病み上がりでしょう。寝ていなくてよろしいの?」
「寝てるのあきた」
「そうではなくて。また熱が出たらどうしますの」
ミナが、ちらりとこちらを見た。
「……お姉ちゃんがいるから、大丈夫だもん」
小さな声だった。
ヴィオレッタは、聞こえなかったふりをして、洗濯板に向き直った。
◆
洗濯物をすべて干し終えた頃には、昼をとうに過ぎていた。
ヴィオレッタは、洗い場の石段に座り込んで、自分の手を見つめた。
真っ赤に腫れて、指先の皮がふやけている。ところどころ、洗濯板でこすれて血がにじんでいた。
「うわ、姉ちゃん、手ぇやべえじゃん」
薪を抱えて通りかかったルカが、顔をしかめた。
「てか、洗濯だけで半日かかったの? いつもなら朝のうちに終わるのに」
「……うるさいですわ」
「なあ、水汲みも失敗してたろ。俺、見てたぞ。桶、井戸に落としてたじゃん」
ルカは、薪を下ろして、ヴィオレッタの前にしゃがみ込んだ。
からかうような口調だったが、目は笑っていなかった。
「姉ちゃん、何もできねえじゃん。どうしちまったんだよ」
ヴィオレッタは、答えられなかった。
何もできない。
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
公爵家では、何でもできた。
ドレスを選ぶことも、令嬢たちを黙らせることも、使用人を追い出すことも。
でも、ここでは、桶一つまともに運べない。シャツ一枚、まともに洗えない。
わたくしは、今まで、何ができていたのだろう。
「ルカ、あっち行って」
ミナが、ヴィオレッタとルカの間に割り込んだ。
毛布を羽織ったまま、腰に手を当てて、ルカを睨みつける。
「お姉ちゃん、ミナの看病で疲れてるの。ちょっと調子悪いだけ。ね、お姉ちゃん」
「……」
「ほら、ルカは薪でしょ。さっさと運びなよ」
ルカは、何か言いたげに口を開けて、それから閉じた。
薪を抱え直して、黙って去っていった。
ミナは、ふうと息をついて、ヴィオレッタの隣に座った。
「……なぜ、かばいましたの」
「べつに。ルカがうるさかっただけ」
ミナは、ぷいとそっぽを向いた。
それから、エプロンのポケットから何かを取り出して、ヴィオレッタの手に押しつけた。
小さな陶器の器に入った、軟膏だった。
「手に塗っとけば。お姉ちゃんが、いっつもミナに塗ってくれるやつ」
「……」
「あ、でもそれ、もう残りちょっとしかないから。ちょっとだけね」
ヴィオレッタは、軟膏の器を見つめた。
底のほうに、指先ですくえるかどうかという量しか残っていなかった。
「……あなたの分でしょう」
「ミナはもう、手あれてないもん」
嘘だった。
ミナの小さな指先も、赤くひび割れていた。
ヴィオレッタは、少しだけ迷ってから、軟膏をほんのわずかだけ指ですくった。
そして、残りを器ごと、ミナの手に戻した。
「わたくしは、これで十分ですわ」
「……え」
「あなたの手のほうが、ひどいでしょう。塗っておきなさい」
ミナは、目をぱちくりさせた。
それから、戻された器と、ヴィオレッタの顔を、交互に見比べた。
「……やっぱりお姉ちゃん、変」
「変で結構ですわ」
「変だけど」
ミナは、軟膏の器をぎゅっと握りしめた。
「今のは、ちょっとだけ、いつものお姉ちゃんっぽかった」
三日目
「リリア、あんた、字は読めるだろう? 帳簿の整理を手伝っておくれ」
三日目の昼過ぎ、ヴィオレッタは院長室に呼ばれた。
院長室といっても、物置を少し広くしただけの小部屋だった。古びた机の上に、分厚い帳簿が何冊も積まれている。
マーサは眼鏡をかけ直しながら、疲れたように笑った。
「年のせいか、最近は数字を見ると目がかすんでね。あんたがいてくれて助かるよ」
帳簿を開いて、ヴィオレッタはすぐに眉をひそめた。
字が汚い。計算の途中で線を引いて書き直した跡が、いくつもある。桁がずれている箇所もあった。
公爵家の家令が見たら、卒倒しそうな代物だった。
「……ずいぶん雑な帳簿ですのね」
「すまないねえ。独学でね」
「貸してくださいな。整理し直しますわ」
ヴィオレッタは、新しい紙を一枚もらって、帳簿の数字を一から書き写し始めた。
収入と支出を分け、月ごとにまとめる。
公爵家で、家庭教師に叩き込まれたやり方だった。当時はくだらないと思っていた。まさか、こんなところで役に立つとは。
ペンを走らせながら、ヴィオレッタは数字の流れを追っていった。
食費。薪代。薬代。服の繕い代。
収入は、町の教会からのわずかな援助と、子どもたちの内職の稼ぎ。それから——。
ヴィオレッタのペンが、止まった。
三年前、二年前の帳簿には、毎年同じ時期に、大きな入金が記されていた。
——王都グランディール公爵家より 金貨二十枚
そして、去年の帳簿には、その一行がなかった。
その月から、支出の欄が目に見えて減っていた。食費が削られ、薬代が消え、服の繕い代がなくなっていた。
「……ずいぶん、赤字ですのね」
声が、少しだけかすれた。
「ああ。ここ一年で、急に苦しくなってねえ」
マーサは、窓の外で遊ぶ子どもたちを眺めながら、深いため息をついた。
「前はね、王都の公爵様から毎年寄付をいただいてたんだよ。グランディール公爵家さ。それが去年、急に打ち切られちまって」
ヴィオレッタは、答えなかった。
「なんでも、公爵様の亡くなった奥様が、昔この町の出でね。子どもの頃、この孤児院にいたこともあったらしいよ。それで、奥様が嫁がれてから、ずっと寄付を続けてくださってたんだ。奥様が亡くなってからも、公爵様は欠かさず送ってくださってた」
母が。
この孤児院に。
「なんで急に打ち切られたのか、わからないままさ。こっちから問い合わせるわけにもいかないしねえ。まあ、偉い人には偉い人の事情があるんだろう」
マーサは、力なく笑った。
ヴィオレッタは、帳簿の、空白になった一行を見つめていた。
父の書斎。寄付先の一覧。
——無駄ですわ、お父様。どこの誰とも知れない孤児に金貨二十枚なんて、ドブに捨てるようなものですわ。
父は、しばらく黙っていた。
それから、ペンを取った。
あのとき、父は何を思っていたのだろう。
母が遺した、たった一つの願いに、娘が線を引かせたとき。
そして、その線の先には、この孤児院があった。
水のようなスープ。一日一つのパン。空っぽの薬箱。ひび割れたミナの手。
「……リリア? 顔色が悪いよ」
「……いいえ」
ヴィオレッタは、ペンを握り直した。
指先が、冷たくなっていた。
「なんでもありませんわ」
◆
その夜。
ヴィオレッタは、窓から屋根に上った。
昼間、ルカが「姉ちゃんの秘密の場所」と言っていたのを思い出したのだ。子どもたちが寝静まった部屋にいるのが、息苦しかった。
屋根の上は、思っていたよりも広かった。
膝を抱えて座ると、頭の上いっぱいに星が広がっていた。
王都の空とは、まるで違う。
数えきれないほどの星が、うるさいくらいに瞬いている。
「……ちょっと、星」
ヴィオレッタは、空を睨みつけた。
「聞いていますの? わたくしですわ。ヴィオレッタ・グランディールですわ」
返事はない。
「出ていきたいとは言いましたけれど、こんなところに来たいとは言っていませんわ。今すぐ、元に戻しなさい。命令ですわよ」
星は、ただ静かに瞬いているだけだった。
流れ星は、ひとつも流れなかった。
「……戻しなさいと、言っていますのに」
声が、震えた。
帳簿の空白。
ひび割れたミナの手。
トトの差し出した、温かいパン。
どれも、ヴィオレッタが引かせた一本の線の先にあった。
あのとき、この場所のことなんて、考えもしなかった。考える必要すらないと思っていた。どこの誰とも知れない子どもたち。自分とは関係のない世界。
でも、その子どもたちは、ここにいた。
名前があって、顔があって、ヴィオレッタにパンを差し出して、軟膏を分けてくれた。
「……わたくしの、せい」
初めて、口に出した。
誰かに謝ったことはない。自分が悪いと思ったこともない。悪いのはいつも、髪を引っかけた侍女で、刺繍を間違えたお針子で、ワインをこぼした給仕だった。
でも、これは。
これだけは、誰のせいにもできなかった。
夜風が、くすんだ栗色の髪を揺らした。
ヴィオレッタは、膝に顔をうずめた。
◆
部屋に戻ると、ミナが起きていた。
ヴィオレッタのベッドの上に、ちょこんと座っている。毛布を頭からかぶって、まるで小さなおばけのようだった。
「……何をしていますの。寝なさい」
「お姉ちゃん」
ミナの声は、昼間よりずっと小さかった。
「お姉ちゃん、なんで最近、へんなの」
「……」
「ミナが熱出したから? ミナが、いっつも迷惑かけるから、ミナのこときらいになったの?」
ヴィオレッタは、言葉を失った。
毛布の隙間から見えるミナの目が、潤んでいた。
昼間はあれほど生意気な口をきいていたのに。
「……違いますわ」
「ほんと?」
「本当ですわ。あなたのせいではありません」
ヴィオレッタは、ミナの隣に腰を下ろした。
どうしていいかわからなかった。こんなとき、どうすればいいのか、誰にも教わったことがなかった。
ぎこちなく手を伸ばして、毛布の上から、ミナの頭にそっと触れた。
「……わたくしは、少し、疲れているだけですわ」
「……ふうん」
ミナは、しばらく黙っていた。
それから、ヴィオレッタの寝間着の袖を、きゅっとつかんだ。
「じゃあ、今日はミナがいっしょに寝てあげる」
「は?」
「お姉ちゃん、昨日の夜、泣いてたでしょ。ミナ、知ってるんだから」
ヴィオレッタの顔が、かっと熱くなった。
「な、泣いてなど——」
「泣いてた。毛布の中で、ぐすぐすって。ミナ、耳いいんだから」
ミナは得意げに言うと、ヴィオレッタのベッドにもぞもぞと潜り込んだ。
「ちょ、ちょっと、あなた——」
「はやく寝て。明日も洗濯あるんだから。お姉ちゃん、へたくそなんだから」
ミナは、それだけ言って目を閉じた。
ヴィオレッタの袖をつかんだまま。
ヴィオレッタは、しばらく天井を見つめていた。
狭いベッドに、二人分の体温。ちくちくする藁の布団。隙間風。
昨日より、少しだけ、寒くなかった。
四日目
ミナが倒れたのは、四日目の昼過ぎだった。
洗濯物を干している最中、急にしゃがみ込んで動かなくなった。
駆け寄って抱き起こすと、体が火のように熱かった。
「ミナ!」
呼びかけても、ミナは苦しそうに浅い息を繰り返すだけだった。
唇が白い。額に、玉のような汗が浮いている。
「院長! 院長、ミナが!」
ヴィオレッタの叫び声に、マーサが台所から飛び出してきた。
ミナの額に手を当てて、顔色を変えた。
「……ぶり返しちまったね。病み上がりで、無理させちまったんだ」
「無理……?」
昨日も、一昨日も、ミナは洗い場に来ていた。
寝ていなさいと言ったのに。へったくそ、と言いながら、ヴィオレッタの隣に座っていた。
——わたくしが、ちゃんと寝かせていれば。
「ベッドに運ぶよ。ルカ! 手を貸しておくれ!」
◆
ミナの熱は、夕方になっても下がらなかった。
むしろ、上がっていた。
額に乗せた濡れ布は、あっという間にぬるくなる。時々、ミナはうわごとのように何かを呟いた。
「薬を」
ヴィオレッタは、マーサを振り返った。
「熱冷ましの薬を、飲ませれば——」
「……薬箱は、空なんだよ」
マーサが、目を伏せた。
「先月から、もうずっと空っぽさ。町の薬師のところで買うには、銀貨が一枚要る。この家にはもう、その銀貨がないんだ」
銀貨一枚。
公爵家では、侍女に渡すチップにもならない額だった。
ヴィオレッタが、一度の夜会で身につける髪飾りの、小さな真珠ひと粒にも満たない。
その銀貨一枚が、ここにはない。
「では、借りればよろしいでしょう」
「あちこちで、もう借りられるだけ借りてるんだよ。これ以上は……」
マーサの声が、途切れた。
ヴィオレッタは、ミナの顔を見下ろした。
真っ赤な頬。荒い息。
昨日の夜、ヴィオレッタの袖をつかんで眠っていた小さな手が、今は力なくシーツの上に投げ出されている。
ヴィオレッタは、立ち上がった。
「……薬師の店は、どこですの」
「リリア?」
「どこですの、と聞いていますの!」
◆
町の薬師の店は、市場の裏通りにあった。
日が沈みかけた頃、ヴィオレッタは息を切らして店の扉を叩いた。
出てきたのは、でっぷりと太った中年の男だった。ヴィオレッタの顔を見るなり、あからさまに嫌な顔をした。
「なんだ、孤児院の娘か。ツケなら、もう利かねえって言ったろう」
「熱冷ましの薬をくださいな」
「話を聞いてたか? 銀貨一枚だ。先に金を見せな」
「今は持っていませんわ」
「じゃあ帰れ」
男は、扉を閉めようとした。
ヴィオレッタは、とっさに扉の隙間に足を差し込んだ。
「痛っ……お待ちなさい!」
「おい、何しやがる!」
「話を聞きなさいと言っていますの!」
男が、ぎょっとしたように手を止めた。
ヴィオレッタは、扉を押し開けて、店の中に踏み込んだ。
薄暗い店内。壁一面の薬棚。カウンターの上には、書きかけの帳簿と、封を切っていない手紙の束が散らばっていた。
ヴィオレッタは、素早くそれらに目を走らせた。
「あなた、字が苦手ですわね」
「あ?」
「帳簿の数字が、三か所ずれていますわ。それに、その手紙の束。王都の薬問屋からでしょう。封を切っていないのは、読むのが面倒だからではなくて?」
男の顔が、みるみる赤くなった。
「な、なんでそれを……」
「字の汚さでわかりますわ。それと、この棚の値札」
ヴィオレッタは、壁の薬棚を指さした。
「柳の樹皮の粉末が銀貨一枚。王都の相場の三倍ですわね。田舎だからといって、ずいぶん足元を見ていらっしゃること」
「う、うるせえ! こっちは仕入れにも金がかかって——」
「仕入れ値は、その手紙に書いてあるはずですわ。読めればの話ですけれど」
男は、ぐっと言葉に詰まった。
ヴィオレッタは、カウンターの前に立って、男を見上げた。
背丈は男の胸ほどしかない。ぼろぼろの麻のワンピースに、ひもで結んだだけの髪。
それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。夜会の広間で、何百人もの貴族を見下ろしてきたときと同じように。
「取引をいたしましょう」
「と、取引……?」
「わたくしが、その手紙を全部読んで差し上げますわ。返事も書きます。帳簿も、一から整理し直します。王都の問屋との交渉の仕方も、教えて差し上げてもよろしくてよ。仕入れ値を、今より二割は下げられますわ」
男は、ぽかんと口を開けた。
「その代わり、熱冷ましの薬を、今すぐいただきますわ。代金は、わたくしの手間賃と相殺で」
「……孤児院の娘が、なんでそんなことを」
「できるかどうかは、今ここで確かめればよろしいでしょう。手紙を一通、お貸しなさい」
男は、しばらくヴィオレッタの顔を見つめていた。
それから、おずおずと手紙の束から一通を抜き出して、差し出した。
ヴィオレッタは、封を切って、ざっと目を通した。
「ゴルド商会からですわね。来月から仕入れ値を一割上げる、とのこと。ただし、年間契約を結べば据え置く、とも書いてありますわ。それと、追伸で、支払いが二か月滞っていると催促されていますわよ」
男の顔が、青くなった。
「に、二か月……? そんなに溜まってたのか……」
「ご存じなかったのでしょう。このまま放っておけば、取引を切られますわね」
ヴィオレッタは、手紙をカウンターに置いた。
「さあ、どうなさいます?」
男は、長い長いため息をついた。
それから、薬棚から小さな紙包みを取り出して、カウンターに置いた。
「……三日分だ。明日から、店に来い」
「ありがとう存じますわ」
ヴィオレッタは、紙包みを胸に抱いて、深く頭を下げた。
生まれて初めて、誰かに、心から頭を下げた。
◆
孤児院まで、走った。
スカートの裾が足にからまる。石畳でつまずいて、膝をすりむいた。
それでも、止まらなかった。
扉を開けると、マーサとルカが、ミナのベッドの脇から振り返った。
「リリア! どこ行ってたんだい——」
「薬ですわ!」
ヴィオレッタは、紙包みを突き出した。
マーサの目が、大きく見開かれた。
「こ、これ、どうやって……」
「話はあとですわ。お湯を、早く!」
ルカが、弾かれたように台所へ走っていった。
薬を白湯に溶いて、ミナの体を起こす。
ミナは、うっすらと目を開けたが、焦点が合っていなかった。
「ミナ。飲みなさい。薬ですわ」
「……にが、い……」
「苦くても飲むのですわ。ほら」
少しずつ、少しずつ、口に流し込む。
ミナは顔をしかめながらも、なんとか全部飲み干した。
それから、ヴィオレッタは、ミナのベッドの脇に座った。
「リリア、あんたも休みな。あたしが代わるから」
「いいえ。わたくしが看ますわ」
「でも、あんた、膝から血が出てるじゃないか」
「このくらい、なんでもありませんわ」
マーサは、何か言いかけて、それから黙って頷いた。
◆
どう看病すればいいのか、わからなかった。
公爵家では、誰かが熱を出せば、医者が呼ばれた。侍女が付き添った。ヴィオレッタは、部屋の外から様子を聞くだけだった。
自分が熱を出したときも、そうだった。枕元には、いつも知らない侍女が座っていた。
だから、ヴィオレッタにできることは、少なかった。
井戸で冷たい水を汲んでくる。布を浸して、ミナの額に乗せる。布がぬるくなったら、また水に浸す。
汗を拭いてやる。唇が乾いたら、水を含ませる。
それだけのことを、何度も、何度も繰り返した。
夜が更けていった。
子どもたちは寝静まり、マーサも椅子に座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいた。
ミナが、うなされた。
小さな手が、何かを探すように、シーツの上をさまよった。
ヴィオレッタは、その手を握った。
火のように熱かった。
「……お姉ちゃん」
ミナが、うっすらと目を開けた。
焦点の合わない目で、ヴィオレッタを見上げる。
「ミナ、しんじゃう……?」
かすれた、弱々しい声だった。
昼間の生意気な口ぶりが、嘘のようだった。
ヴィオレッタは、ミナの手を、両手で包み込んだ。
死なせない。
この子を、死なせてたまるものか。
わたくしが引いた一本の線のせいで、この子は薬も飲めなかった。
わたくしのせいで、この子は。
「死にませんわ」
声が、震えないように、腹に力を込めた。
「わたくしが、許しません」
ミナが、目をぱちくりさせた。
それから、熱に浮かされた顔で、かすかに笑った。
「……へんな、しゃべりかた」
「変で結構ですわ」
「でも……」
ミナの指が、ヴィオレッタの指に、きゅっとからまった。
「なんか、つよそう。だから……だいじょうぶな、気がする……」
ミナは、そのまま目を閉じた。
ヴィオレッタは、その小さな手を、ずっと握っていた。
◆
窓の外が、白み始めた。
ヴィオレッタは、椅子に座ったまま、ミナの寝顔を見つめていた。
一晩中、一度も目を閉じなかった。
夜明け前、ミナの額から、玉のような汗が噴き出した。
慌てて布で拭うと、その下の肌が、ほんの少しだけ冷たくなっていた。
もう一度、額に手を当てる。
熱が、下がっていた。
ミナの息は、いつの間にか穏やかな寝息に変わっていた。
頬の赤みが引いて、唇に色が戻っている。
「……っ」
ヴィオレッタは、椅子の背にもたれかかった。
全身から力が抜けていく。
誰かのために、眠らなかった。
生まれて初めてのことだった。
ミナの手は、まだヴィオレッタの指をしっかりと握っていた。
その小さな指を、ヴィオレッタは、ほどけなかった。ほどきたくなかった。
「……本当に、手のかかるクソガキですわ」
小さく呟いて、ヴィオレッタは目を閉じた。
朝日が差し込むまで、二人はそのまま眠っていた。
椅子で舟を漕いでいたマーサが、目を覚まして、その光景を見て、黙って毛布をかけてくれたことを、ヴィオレッタは知らない。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると励みになります。




