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星に願ったら聖女と入れ替わりました ~悪役令嬢は孤児院で「お姉ちゃん」に、聖女は王宮で「悪女」になるそうです~  作者: みなかな


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第一話 星に願った夜

本作は全7話・完結済みです。

毎日19時に1話ずつ更新します。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

ぱしん、と乾いた音が、朝の寝室に響いた。


「痛いですわ」


 鏡台の前に座ったまま、ヴィオレッタ・グランディールは振り向きもせずに言った。

 鏡の中で、侍女のアンナが頬を押さえて立ち尽くしている。その手には、銀の櫛が握られたままだった。


「も、申し訳ございません、お嬢様……! 髪が、櫛に一本、引っかかってしまって……」

「一本」


 ヴィオレッタは、鏡越しにアンナを見た。

 月の光を集めたような銀の髪。紫水晶の瞳。王国一の美貌と謳われる顔が、冷たく歪む。


「その一本が、あなたの一年分のお給金より価値があると、ご存じ?」

「は、はい……」

「わかっているなら、二度と同じことをしないで。次はありませんわよ」


 アンナは震える手で櫛を握り直した。今度は、息を止めるようにして、ゆっくりと髪を梳いていく。


 ヴィオレッタは退屈そうに頬杖をついた。


「替えの侍女なら、いくらでもいますのよ。お忘れなく」


 鏡の中のアンナは、唇を噛んで、小さく「はい」と答えた。


◆


 昼前、公爵家には王都一の仕立て屋が呼ばれていた。


 来月の王宮舞踏会のためのドレスだ。二か月かけて仕立てられた薄紫の絹地に、職人たちが夜なべをして銀糸の刺繍を施した、店の最高傑作だった。


「いかがでしょうか、ヴィオレッタ様。裾の薔薇の刺繍は、この子が三週間かけて——」


 仕立て屋の主人が、後ろに控えた若いお針子を示した。

 指先に針だこのある、そばかすの娘だった。緊張で頬を赤くしながら、深々と頭を下げる。


 ヴィオレッタは、ドレスの裾をつまみ上げた。

 じっと刺繍を眺めて、ふっと鼻で笑った。


「薔薇が、左に三つ多いですわね」

「え……?」

「右と左で数が違いますの。不揃いで、見苦しいですわ」


 お針子の顔から、血の気が引いた。


「そ、それは、左右で少しだけ流れを変えて、歩いたときに花びらが舞って見えるように……」

「誰が口をきいていいと言いましたの?」


 ヴィオレッタは、ドレスの裾を両手でつかんだ。

 そして、ためらいもなく引き裂いた。


 びりり、と絹の悲鳴のような音がした。


「あ……」


 お針子の口から、声にならない声が漏れた。

 三週間。毎晩ろうそくの下で、指を刺しながら縫った薔薇が、真っ二つに裂けていた。


「作り直しなさい。舞踏会には間に合わせること。それと、この出来損ないの分のお代は払いませんわ」

「ヴィ、ヴィオレッタ様、それではうちの店が……」

「嫌なら、他の店に頼むだけですわ。グランディール家の御用達を外れたお店が、王都でどうなるか。ご存じでしょう?」


 仕立て屋の主人は、青ざめた顔で黙り込んだ。

 お針子は、裂けたドレスを胸に抱いて、声を殺して泣いていた。


 ヴィオレッタは、もう二人のほうを見ていなかった。


◆


 午後は、公爵家の庭園でお茶会だった。


 招いたのは、いつもの取り巻きの令嬢たち。伯爵家、子爵家、男爵家の娘たちが、ヴィオレッタを囲むように座っている。


「ヴィオレッタ様の今日の髪飾り、本当に素敵ですわ」

「東方から取り寄せた真珠ですって? さすがですわね」


 毎回同じような褒め言葉が、ヴィオレッタの周りをくるくると回る。

 ヴィオレッタは、紅茶を一口含んでから、端の席に座る少女に目を向けた。


「ねえ、クララ」


 男爵家の娘、クララがびくりと肩を揺らした。


「そのドレス、先月の夜会でも着ていらしたわよね」

「え、あ、あの……」

「わたくし、覚えていますのよ。袖口のレースの、ほつれているところまで」


 令嬢たちの視線が、一斉にクララの袖口に集まった。

 確かに、レースの端がほんの少しだけ、ほつれていた。


「男爵家は、ドレスを一着新調するお金もないのかしら。それとも、それがあなたの一張羅?」


 くすくす、と笑い声が起きた。

 クララは袖口を手で隠して、真っ赤な顔でうつむいた。


「ご、ごめんなさい……」

「あら、謝ることはありませんわ。ただ、次からはもう少し、この席にふさわしい格好でいらしてね。わたくしの品位まで疑われてしまいますもの」


 ヴィオレッタは優雅にカップを置いた。

 笑い声の中で、クララだけが、ずっと下を向いていた。


◆


 夕方、ヴィオレッタは父の書斎に呼ばれた。


 グランディール公爵、オズワルド。王家の血を引く名門の当主であり、王国でも指折りの権力者だ。

 父は書類から顔も上げずに言った。


「領地の支出を見直している。お前も公爵家の娘だ。少しは勉強しておけ」


 渡されたのは、寄付先の一覧だった。

 神殿、学院、施療院……ずらりと並んだ名前の中に、見慣れない一行があった。


 ——孤児院「ひだまりの家」 年額金貨二十枚


「孤児院?」


 ヴィオレッタは眉をひそめた。


「どうして公爵家が、田舎の孤児院なんかにお金を出していますの?」

「……お前の母親が、生前に決めたことだ」


 父の声が、ほんのわずかに低くなった。

 ヴィオレッタは、母の顔をよく覚えていない。物心ついた頃には、もういなかった。


 母が決めたこと。

 顔も覚えていない人が、顔も知らない子どもたちのために決めたこと。


「無駄ですわ、お父様」


 ヴィオレッタは、一覧を指先で弾いた。


「どこの誰とも知れない孤児に金貨二十枚なんて、ドブに捨てるようなものですわ。そんなお金があるなら、わたくしの新しいドレスに回してくださいな。来月の舞踏会で、グランディール家の娘がみすぼらしい格好をするわけにはいきませんもの」


 父は、しばらく黙っていた。

 それから、ペンを取った。


「……そうか」


 一本の線が、その一行の上に引かれた。

 それだけだった。


 父は再び書類に目を落とし、もう娘のほうを見なかった。

 ヴィオレッタも、それ以上何も言わずに書斎を出た。


 扉を閉める直前、ほんの少しだけ振り返った。

 父は、机の上の小さな肖像画を見つめていた。


 ヴィオレッタが一度も見せてもらったことのない、母の肖像画だった。


◆


 夜は、王宮の夜会だった。


 シャンデリアの光。香水の匂い。楽団の奏でるワルツ。

 着飾った貴族たちが、笑顔の仮面をつけてくるくると回っている。


 婚約者の第二王子セドリックは、ヴィオレッタと最初の一曲を踊ったきり、どこかの伯爵令嬢の手を取って離さなかった。

 父は派閥の貴族たちと酒を酌み交わし、娘のほうなど一度も見ない。


「ヴィオレッタ様、セドリック殿下が……」

「知っていますわ」


 取り巻きの一人が気の毒そうに耳打ちしてくるのを、ヴィオレッタは扇で遮った。


 そのとき、給仕の少年が、ヴィオレッタの横を通り過ぎた。

 盆の上のグラスが揺れて、赤ワインが一滴、薄紫のドレスの裾に落ちた。


 少年の顔が、真っ白になった。


「も、申し訳ございません……!」

「……」


 ヴィオレッタは、裾に落ちた小さな赤い染みを見下ろした。

 それから、少年を見た。


「衛兵」


 たった一言だった。

 近くにいた衛兵が二人、すぐに駆け寄ってきた。


「この者を、今すぐ広間から出しなさい。二度と王宮の給仕に使わないよう、執事長に伝えて」

「お、お嬢様、どうか、どうかお許しを! 家に、病気の母が……!」


 少年の懇願は、衛兵に両腕をつかまれて遠ざかっていった。

 周りの貴族たちは、ちらりと見ただけで、すぐに会話に戻った。誰も気にしない。ここではそれが普通だった。


「さすがはヴィオレッタ様。平民には、ああいう躾が必要ですわ」


 取り巻きの令嬢が、うっとりとした声で言った。

 ヴィオレッタは答えなかった。


 ドレスの裾の、小さな赤い染み。

 病気の母が、と叫んだ少年の声。


 なぜか、それがいつまでも耳に残っていた。


◆


 夜会を抜け出して、ヴィオレッタはひとりバルコニーに出た。


 冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。

 背後の広間からは、相変わらず笑い声と音楽が漏れていた。


 侍女は怯えた目で自分を見る。

 仕立て屋は頭を下げながら、心の中で呪っている。

 取り巻きは褒め言葉を並べながら、陰では同じように笑っている。

 婚約者は別の女と踊り、父は亡き母の肖像画ばかり見ている。


 誰も、わたくしを見ていない。

 見ているのは、公爵令嬢という飾りだけ。


 ——だったら、それでいいですわ。


 怯えられるほうが、見下されるよりずっとましだ。

 奪われる前に奪い、傷つけられる前に傷つける。そうやって生きてきた。これからも、そうやって生きていく。


 それなのに。


「……くだらない」


 ヴィオレッタは、手すりを握りしめた。


「何もかも、くだらないですわ」


 顔を上げると、王都の空に星が瞬いていた。街の灯りに負けて、ほんのわずかしか見えない。

 その中のひとつが、すうっと尾を引いて流れた。


 流れ星に願いごとをすると叶う。

 そんな子どもだましの話を、誰かに聞いたことがある。母だったかもしれない。もう覚えていない。


 ヴィオレッタは、ふんと鼻を鳴らした。

 それでも、唇が勝手に動いていた。


「こんなくだらない場所、早く出ていきたいですわ」


 小さな声は、夜風にさらわれて消えた。


---


### 序章 孤児院のリリアの一日


 鶏が鳴くより、少しだけ早く。


 リリアは、そっとベッドから抜け出した。

 隣で眠るトトの腕が、リリアの寝間着の裾をつかんでいる。その小さな指を一本ずつほどいて、毛布をかけ直してやった。


「……んぅ。リリアお姉ちゃん……」

「まだ寝てていいよ、トト」


 額にかかった前髪をなでると、トトはまたすうすうと寝息を立て始めた。


 王都から馬車で三日。

 田舎町の外れに建つ古い孤児院「ひだまりの家」の一日は、リリアの水汲みから始まる。


 井戸の水は、朝はまだ冷たい。

 桶を二つ、天秤棒に下げて、台所の水瓶まで三往復。十七歳の細い肩に、棒が食い込む。それでもリリアは、鼻歌を歌いながら歩いた。


 水瓶をいっぱいにしたら、かまどに火を入れる。昨夜のうちに仕込んでおいたパン生地を、丸めて並べる。

 窯から香ばしい匂いが漂い始めた頃、院長のマーサが腰をさすりながら台所に入ってきた。


「おはよう、リリア。今日も早いねえ」

「おはようございます、マーサ院長。腰、大丈夫ですか?」

「年には勝てないよ。いつも悪いね、あんたにばっかり」

「私がやりたいんです。朝の台所、好きなんですよ」


 リリアは、にこっと笑った。

 くすんだ栗色の髪をひもで一つにまとめ、そばかすの散った頬に小麦粉をつけている。美人と呼ばれる顔ではない。でも、町の誰もがリリアの笑顔が好きだった。


 窯から取り出したパンを数えて、リリアの手が止まった。


 十一個。

 子どもが十人と、マーサ院長と、リリア。一個足りない。


「……ごめんよ、リリア」


 マーサが、申し訳なさそうに目を伏せた。


「小麦の袋が、もう底をついちまってね。去年まではまだ余裕があったんだけど」

「王都の公爵様からの寄付、なくなっちゃったんですよね」

「ああ。急に打ち切られちまって。理由もわからないままさ」


 マーサは、深いため息をついた。

 リリアは少し考えてから、自分の分のパンを手に取った。


「大丈夫です。私、朝はあんまりお腹すかないので」


 そう言って、ちょっと焦げた一番小さいパンを、自分の皿に残した。

 本当は、お腹はぺこぺこだった。


◆


「いただきまーす!」


 食堂に、子どもたちの元気な声が響いた。


 一番年上の十二歳のルカ。おしゃべりな八歳のミナ。一番小さい五歳のトト。他にも、双子のエマとエリオ、泣き虫のピピ……。

 リリアにとっては、みんな大切な弟と妹だった。


「リリア姉ちゃんのパン、ちっちゃくね?」


 ルカが、目ざとくリリアの皿を覗き込んだ。

 リリアは、慌てて手で隠した。


「これはね、焦げちゃったから私が食べるの。失敗作の責任は、作った人が取らないと」

「ふーん……」


 ルカは疑わしそうに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


 トトが、自分のパンを両手で持ったまま、じっとリリアを見ていた。


「お姉ちゃん、トトのはんぶんこする?」

「ううん。トトは大きくならなきゃいけないから、全部食べて」

「でも……」

「いいの。はい、あーん」


 リリアはトトのパンをちぎって、小さな口に運んでやった。トトは嬉しそうにもぐもぐと頬張った。


「ねえリリアお姉ちゃん、今日の髪、ぼさぼさ」


 ミナが、スープをすすりながら言った。

 八歳のくせに、口だけは一人前だ。


「え、ほんと?」

「ほんと。あと、ほっぺに粉ついてる。お姉ちゃんって、いっつもどっか抜けてるよね。そんなんじゃお嫁に行けないよ?」

「ミナったら、どこでそんな言葉覚えてくるの」


 リリアが笑うと、ミナはつんと顎を上げた。


「市場のおばちゃんたちが言ってた。でもね、お姉ちゃんはミナがお嫁に行くまで、ずっとここにいなきゃだめだからね」

「はいはい」

「はいは一回!」


 どっと笑いが起きた。

 ミナは頬をふくらませて、それでも少しだけ嬉しそうに、リリアの袖をつかんでいた。


 ミナは、生まれつき体が弱い。季節の変わり目には、必ず熱を出す。

 だから人一倍口が悪くて、人一倍、リリアから離れようとしなかった。


◆


 昼前、リリアは町の市場へ買い出しに出た。


「おや、リリアちゃん! 今日も元気だねえ」


 八百屋のおかみさんが、大きな声で手を振った。


「こんにちは、ハンナさん。お芋と、キャベツをください」

「はいよ。ほら、これもおまけ。傷がついて売り物にならないやつだけどね」

「いいんですか? いつもすみません」

「いいのいいの。あんたんとこの子ら、よく食べるだろう?」


 ハンナは、籠にりんごを三つ放り込んでくれた。

 リリアが深々と頭を下げると、ハンナは照れくさそうに手を振った。


「礼なんかいいって。去年の冬、うちの坊主が熱出したとき、あんたが夜通し看ててくれたろう。あの恩は忘れちゃいないよ」


 市場を歩くと、あちこちから声がかかった。

 パン屋の親父は売れ残りのパンをくれた。肉屋の奥さんは骨を包んでくれた。スープの出汁になるからと。


 帰り道、坂の途中で、杖をついたおじいさんが大きな荷物を抱えて立ち止まっていた。


「ヨハンさん! また一人でそんな重いもの持って」

「おお、リリアか。なに、大したことは……」

「だめです。貸してください」


 リリアは自分の籠を肘にかけ直して、ヨハンの荷物をひょいと抱えた。

 ヨハンの家は、孤児院とは反対方向の、坂の上だった。


「すまんのう、いつも」

「いいんです。ついでですから」


 ついでではないことを、ヨハンも知っていた。

 家の前で荷物を下ろすと、ヨハンはしわだらけの手で、リリアの頭をなでた。


「あんたは本当に、聖女様みたいな子じゃのう」

「やめてください、ヨハンさん。私なんて、ただの孤児院の娘ですよ」


 リリアは、困ったように笑った。

 本当に、そう思っていた。


◆


 夕方、孤児院に戻ると、台所から大きな音がした。


 駆けつけると、ルカが床に散らばった器の前に立っていた。

 壁を蹴ったらしい。棚が揺れて、器が落ちたのだ。


「ルカ……」

「……うるせえ。俺、悪くねえし」


 ルカは、拳を握りしめたまま、そっぽを向いた。

 目が赤かった。


 リリアは何も言わずに、しゃがんで器を拾い始めた。

 一つ、また一つ。幸い、割れたものはなかった。


「……怒らねえのかよ」

「怒ってほしいの?」

「……」

「何かあったんでしょ」


 ルカは、しばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。


「町の奴らに言われた。孤児院の子は、大人になっても、どうせろくな仕事につけねえって。親に捨てられるような奴は、どうせ何やってもだめだって」


 リリアの手が、止まった。


「俺、来年には十三になる。ここを出て、働かなきゃいけねえ。でも、どこも雇ってくれねえかもしれねえ。そしたら、俺……」


 ルカの声が、震えていた。

 リリアは立ち上がって、ルカの頭を、ぎゅっと胸に抱き寄せた。


「な、なにすんだよ……!」

「ルカはだめなんかじゃないよ」

「……」

「ルカは誰よりも早く薪を割れるし、トトたちが喧嘩したら、ちゃんと止めてくれる。この前、ピピが迷子になったとき、町中探して見つけてくれたのもルカでしょう」

「……それくらい、誰だって」

「誰だってはできないよ。私、ちゃんと知ってるからね」


 ルカは、何も言わなかった。

 ただ、リリアの服の端を、ほんの少しだけ握りしめていた。


「……姉ちゃん、苦しい」

「あ、ごめん」


 リリアが腕をほどくと、ルカは赤くなった目をごしごしこすって、器を拾うのを手伝い始めた。


◆


 その夜。

 ミナが熱を出した。


 夕飯のあとから、ぐったりして元気がなかった。寝かしつけようと額に手を当てると、火のように熱かった。


「ミナ、お薬……」


 言いかけて、リリアは口をつぐんだ。

 薬箱は、先月から空っぽのままだった。薬師の店で熱冷ましを買うには、銀貨が一枚要る。孤児院には、もうその銀貨がなかった。


「……お姉ちゃん」


 ミナが、うっすらと目を開けた。

 昼間の生意気な口ぶりが嘘のように、弱々しい声だった。


「ミナ、しんじゃう……?」

「死なないよ。私がついてるから」

「ほんと……?」

「ほんと。はいは一回、でしょ?」


 ミナは、かすかに笑った。


 リリアは井戸で冷たい水を汲み、布を浸してミナの額に乗せた。布がぬるくなるたびに、また冷たい水に浸す。汗を拭き、水を飲ませ、小さな手を握る。

 夜中、ミナがうなされるたびに、子守唄を歌った。


 明け方近く、ようやくミナの熱が下がった。

 すうすうと穏やかな寝息を聞いて、リリアはほっと息をついた。


 ミナの手は、まだリリアの指をしっかり握っていた。


◆


 ミナが寝入ったのを確かめてから、リリアは窓から屋根に上った。


 ここは、リリアだけの秘密の場所だった。

 膝を抱えて座ると、頭の上に満天の星が広がる。田舎の空は、星がうるさいくらいによく見えた。


 眠気で重たいまぶたをこすりながら、リリアは空を見上げた。


 小麦の袋が、もうすぐ空になる。

 薬箱は空っぽだ。

 ルカは来年、ここを出ていく。

 ミナは、次に熱を出したとき、また乗り切れるかわからない。


「……お腹いっぱい、食べさせてあげたいなあ」


 ぽつりと、声がこぼれた。


「みんなに、あったかいお布団と、お薬と。お腹がはちきれるくらいのパンと。それから、ルカには、ちゃんとした仕事と……」


 指を折って数えていたら、両手では足りなくなった。

 リリアは、ふふっと小さく笑った。


 遠い空の向こうが、ほんのりと明るい。

 あれは、王都の灯りだ。

 あの光の下には、大きなお城があって、きらきらしたドレスを着たお姫様がいるのだろう。


 小さい頃、マーサ院長に一冊だけ買ってもらった絵本を思い出す。

 ガラスの靴をはいたお姫様が、お城の舞踏会で王子様と踊る話。何度も何度も読み返して、表紙はもうぼろぼろだ。


 子どもたちのための願いは、いつも心の中で唱えている。

 だから、今夜だけ。

 ほんの少しだけ、自分のための夢を見てもいいだろうか。


「一度でいいから」


 口にしてから、頬が熱くなった。誰も聞いていないのに。


「一度でいいから、お姫様みたいな暮らしを、してみたいな」


 そのとき、星がひとつ、すうっと尾を引いて流れた。


 王都の公爵家のバルコニーと、田舎町の孤児院の屋根の上。

 馬車で三日も離れた二つの場所で、二人の少女が、同じ星を見上げていた。


 一人は、何もかもがくだらないと、ここから出ていきたいと願った。

 一人は、一度でいいから、お姫様になってみたいと願った。


 流れ星が、空の真ん中で、ふいに止まった。


 まるで、二つの願いを聞き届けたとでもいうように。


 次の瞬間、夜空がまばゆい光で弾けた。

 真っ白な光が、王都のバルコニーと、田舎の屋根の上を、同時に包み込んだ。


 ヴィオレッタは、思わず目を閉じた。

 リリアも、思わず目を閉じた。


 そして、二人とも、そのまま意識を手放した。


---


 硬い。


 最初に感じたのは、背中の痛みだった。

 ヴィオレッタは、眉をひそめたまま目を閉じていた。


 おかしい。公爵家の寝台は、羽毛を三重に重ねた特注品のはずだ。こんな、板の上に藁を敷いただけのような感触ではない。

 それに、この匂いはなんだろう。湿った木と、古い布と、それから、得体の知れない甘ったるい匂い。


 侍女を呼ぼうとして、胸が重いことに気づいた。

 何かが乗っている。温かくて、小さくて、規則正しく上下している何か。


 ヴィオレッタは、ゆっくりと目を開けた。


 胸の上に、見知らぬ男の子の頭があった。


 五歳くらいだろうか。ぼさぼさの髪。汚れた頬。口の端からよだれを垂らして、ヴィオレッタの胸元に顔をうずめ、幸せそうに眠っている。

 寝間着の胸のあたりが、じっとりと湿っていた。


「——っ」


 悲鳴は、喉の奥で詰まった。


 視線を上げる。

 雨漏りの染みが地図のように広がった天井。油紙の貼られた、歪んだ窓枠。狭い部屋にぎゅうぎゅうに押し込まれた、ぼろぼろのベッドが六つ。そのどれにも、薄汚れた子どもたちが丸まって眠っている。


 どこか遠くで、鶏が鳴いた。


 ヴィオレッタは、胸の上の男の子を乗せたまま、天井を見つめた。

 夢だ。これは夢に違いない。夜会で飲んだワインが悪かったのだ。


 目を閉じて、もう一度開ける。

 雨漏りの染みは、消えていなかった。


 男の子が、もぞりと動いた。

 寝ぼけた声で、ヴィオレッタの寝間着にしがみつく。


「……リリアお姉ちゃん、おはよぉ……」


 リリア。

 お姉ちゃん。


 誰が。

 わたくしが?


 ヴィオレッタ・グランディールは、生まれて初めて、腹の底から叫んだ。


「なんですの、ここは——っ!!」

お読みいただきありがとうございます。

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