イルムガルトさんの怪我
屋敷の空気が、にわかに波立った。
午後の静謐を切り裂いたのは、森から戻った魔法使いが傷を負っていたという、不穏な報せだった。
「――イルムガルトさんが森で深手を負ったというのは、真か」
家令のベルナーは、報告に走ってきた若い従僕を厳しい眼差しで射抜いた。その低い声には、領地の安寧を預かる者特有の、焦燥に似た響きが混じっている。
「はい。祠の結界を補うべく、自作の魔法陣を施しに向かわれたのですが……その最中に、火傷を負われたとのことで」
「火傷だと? あの御方が、術の扱いでしくじったというのか。……程度は」
「ご本人は『案ずるな』と仰り、応急の処置だけで自室へ戻られました。今は、クララ様が側で付き添っておいでです」
ベルナーはそれ以上言葉を返さず、すぐさま石造りの廊下を大股で歩きだした。重厚な靴音が、ひたひたと壁に反響しては消えていく。
イルムガルトの部屋の前で一度足を止めると、彼は硬い拳で戸を叩いた。
「……はい」
中から返ったのは、いつもと変わらぬ、だがどこか熱に浮かされたように掠れた声だった。
「イルムガルトさん、ベルナーです。入ってもよろしいか」
「ええ、どうぞ」
失礼する、と短く断って中へ入ると、室内には鼻を突く薬草の香りと、微かな――獣の毛が焼けたような、得体の知れぬ苦い匂いが漂っていた。
椅子に腰を下ろしたイルムガルトは、袖を捲り上げた腕に白い布を巻いている。その布越しにも、皮膚を焼いた熱が立ち昇っているのが分かった。
「森で怪我をされたと聞き、肝を冷やしました。一体、何が起きたのです」
「……大したことではありませんよ、ベルナーさん。少し、こちらの読みが甘かっただけです」
イルムガルトは自嘲気味に口角を上げたが、その瞳の奥には、容易には拭い去れぬ険しさが宿っていた。
「祠の結界が、想像以上に脆くなっていました。これ以上の『染み出し』を防ぐべく、魔法陣を幾重にも重ねて補強を試みたのですが……その最中、内側から不意を突かれました。弱った結界の隙間を縫って、高温の湯のようなものに焼かれたのです」
ベルナーは思わず息を呑んだ。
森を鎮めるための神聖な祠、その守りの中から、牙を剥くような力が溢れ出したというのか。
「……祠の中に、それほどまでに荒ぶるものが収められているのですか」
「さて。正体までは分かりかねますが……まあ、そういう性質のものなのでしょう。この地が古くから抱え込んできた、理の外側にある熱量とでも言えばよいでしょうか」
イルムガルトは事も無げに言った。
実務家であるベルナーは、彼女の言葉から事態の深刻さを読み取ろうと必死だった。森の異変は、そのまま領民の暮らし、ひいては命の灯火に関わる。
ゆえに、彼は気づかなかった。
部屋の隅、影に溶け込むようにして座っていたクララの顔が、見る間に血の気を失い、死人のように蒼白になっていることに。
(……内側から、焼かれた……?)
クララの耳には、二人の会話がまるで遠い地鳴りのように響いていた。
イルムガルトの肌を焼いたその火は、自分を呼ぶあの「気配」と同じ場所から放たれたものだ。
森は、もはや「おいで」と優しく手招きするだけではない。明確な意志を持って、こちら側の守りを食い破ろうとしている。
足先から這い上がってくる冷たい痺れが、今や心臓を掴もうとしているのを、クララは震える指先を握りしめ、ただ耐えていた。




