還りつく水脈
伯爵は、森の入り口、館からほど近い木立の間に、小さな庵を建てた。
それは、壮麗なローゼンヴァルトの館とは対照的な、削ぎ落とされた静寂を纏った建物だった。煮炊きのための竈と、清らかな水を湛えた水場。ただそれだけの、質素という言葉すら通り過ぎたまるで「終の棲家」のような佇まい。
館からその庵へと続く道には、白灰色の石畳が敷き詰められた。時が経ち、周囲の草木が道を飲み込もうとしても、娘が人の世に繋がっている証だけは失われぬようにという、伯爵の祈りにも似た執念だった。
「クララ、本当に行ってしまうのかい。……あんな、何もない場所へ」
母エリーザベトは、娘の細い手を握り、悲しげに問いかけた。
クララは穏やかに、けれどどこか遠い場所を見つめるような瞳で答えた。
「ええ、お母様。こうすることが、私の中に宿る『理』を鎮める唯一の道なのです。……それが、私のためでもあり、このお屋敷を平穏に保つ術でもあるのですから」
「お前が望んだとはいえ、あまりに質素な庵だ。……これでは、満足に眠ることもできぬのではないか」
伯爵は自らが建てさせた庵の、あまりの簡素さに戸惑いを隠せなかった。質実剛健を旨としてきた彼ですら、そこにある「無」の気配に圧倒されていた。
「いいえ、お父様。これでも贅沢すぎるほどです。……ありがとうございます」
「……食事は日に三度、館から届けさせる。館の者たちも、お前の消息を案じているのだからな」
「はい。では、庵の外に台を一つ置いてください。そこへ置いていただければ、私が取りに参ります」
「……それでは、まるで神への供え物ではないか」
伯爵の顔に、苦渋の色が走る。娘が人として生きることを辞め、祠に祀られる「何か」に変わっていくようで、彼は耐えられなかった。
「いいえ。しっかり庵の中まで、お前の手元まで届けさせておくれ。……それが、私の最後の手向けだ」
「……お任せいたしますわ、お父様」
クララがその庵で暮らし始めると、森は静かに、けれど劇的な変化を見せ始めた。
庵の傍らの土が、ある日ふいに湿り気を帯び、そこからコンコンと、水晶のように澄んだ水が湧き出したのだ。
いつしか館の者たちは、その場所を「クララの泉」と呼ぶようになった。湧き出した水は細い筋となり、誰に導かれることもなく、深い森の奥へと向かって流れ出した。
ある日、森の守護のために定期的な巡回を行っていたルーカスは、信じがたい光景を目にした。
かつて枯れ果て、ひび割れていた祠の前に、小さな、けれど命を宿した泉が生まれていたのだ。
「……まさか」
ルーカスはその泉に注ぎ込む細い流れを辿った。それは幾重にも重なる木の根を潜り、腐葉土の下を通り、真っ直ぐにあの庵の脇――「クララの泉」へと繋がっていた。
「……そうか。これは、彼らの望みなのか」
ルーカスは悟った。精霊ニックスとクララ。二つの魂が一つに溶け合い、五百年前に失われた「聖なる泉」を、もう一度この地に呼び戻そうとしているのだ。
ルーカスは館に戻ると、沈痛な面持ちでイルムガルトに相談した。
「あの泉は、放置しておいても良いものなのだろうか。……あれはもはや、人の魔法でどうこうできる規模の変容ではない」
イルムガルトは、窓の外の森を見つめた。彼女の目には、物理的な水理を超えた、光の奔流が見えているようだった。
「……分かりません。分かりませんが、ルーカス様。あの泉からは、ニックスでもない、クララ様でもない……もっと古く、巨大な『聖なる気配』を感じるのです」
「聖なる、気配……?」
「ええ。畏ろしいほどに清らかで、人の情など入り込む隙もないほどに澄み渡った……。……あれは、この土地そのものが、五百年の渇きを経て、ようやく深呼吸を始めた音なのかもしれません」
二人の魔法使いは、ただ、静かに波打つ森を見つめるしかなかった。
石畳の道の先、庵の中で、少女だったものと精霊だったものが、共に同じ水の音を聴いている。その静寂を乱す術を、彼らは持ち合わせていなかった。




