第124.5話(中編):【真夜中の一杯】心の鎧を脱ぐ場所
「……そんな完璧な地獄から抜け出したくて、わたくしは賑やかな広間を離れ、屋敷の片隅にある誰もいない台所へと逃げ込みましたの」
咲子は懐かしそうに、少しだけ目を細めました。当時の記憶が、湯気と共に色鮮やかに蘇るようです。
「きつく締め付けられたドレスのせいで息も絶え絶えになりながら、一人で椅子に座り込んでいた時です。夜勤の年老いた使用人の方が、物音を聞きつけて静かにお茶を淹れてくださいましたの。その方が、湯呑みを差し出しながら、ふと零したんですわ。『今夜は、お外も心の中も、冷えますね』……と」
「……その一言だけで、おばあ様は救われたの?」
みゆが三郎の掃除を忘れ、食い入るように尋ねます。
「ええ。何百人との華やかな会話よりも、その名も知らぬ方の不器用な一言が、どれほどわたくしの心を温めたことか。その時、わたくしはようやく肩の力を抜いて、一人の人間として呼吸ができました。孤独を埋めるのは、人の数でも豪華な食事でもありません。自分の本音が、誰かの心に正しく届いたという、たったそれだけの確信なのですわ」
咲子は三郎のセンサーを優しく撫でました。三郎は「ピポッ」と、まるで相槌を打つような音を返します。
「外交官として多くの交渉を重ね、世界中を飛び回ってきましたが、最後に行き着くのはいつもそこでした。どんなに高尚な条約を交わすよりも、孤独な真夜中に分かつ一杯のお茶のような、そんな小さな温もりが、人を本当の意味で生かすこともあるのです」
咲子の語る思い出は、今の屋根裏部屋の静けさと重なり、みゆの心に静かに染み渡っていきました。
「……孤独というのは、病気ではありません。誰にでも平等に訪れる、夜のようなものですわ。大切なのは、その夜をどう過ごすか……そして、誰の灯りを見つけるか、ですわね」




