第119.5話(後編):【救済の深淵】神様を演じた外交官
リビングの時計が、規則正しい音を刻んでいます。
みゆはレポート用紙の上に置いたペンを握りしめたまま、言葉を失っていました。
咲子の磨くブラシの音がふと止まり、彼女はブラシをそっとテーブルに置きました。
「みゆちゃん。誰かを救おうなんて、それは本来、神様の領分ですわ。わたくしたち人間が『全員を救いたい』なんて大それた望みを持てば、結局は自分の綺麗事のために、関わる全ての人を地獄へ道連れにするだけですのよ」
咲子はゆっくりとみゆの方を向き直りました。
その顔には、いつもの余裕ある「おほほ」という笑みはありません。深く刻まれた悔恨が、その表情を強張らせていました。
「わたくしはあの時、村人を救いたかったのではない……。誰一人見捨てないという『慈悲深い自分』を、救いたかっただけなのです。自分の心が痛まないように、残酷な選別という責任から逃げ、全員に薄い希望を配り、その実、全員を緩やかな死へと導いた。……これほど傲慢で、独りよがりな外交が他にあるでしょうか」
咲子は自嘲気味に口角を上げましたが、その瞳には、100年経っても乾かぬ涙が滲んでいました。
「『救済』という言葉は、時に甘い呪いとなりますわ。……だからこそ、今のわたくしは、彼女たちに『自分で生き抜く牙』を持たせようとしているのです。わたくしが守ってあげるのではなく、彼女たちが自分の足で、泥を啜ってでも立ち上がれるように。……あんな静かな地獄を、二度と繰り返さないために」
咲子は三郎のスイッチをそっと入れました。
三郎はいつものように暢気な音を立てて、フローリングの上を滑り始めます。
その滑稽で日常的な光景が、今は唯一の救いのように感じられました。
「おばあ様……。でも、今のみんなは、おばあ様に会えてよかったって、心から思ってるはずだよ」
みゆの震える声に、咲子はふっと、いつもの柔らかい表情を微かに取り戻しました。
「……おほほ。もしそうだとしたら、わたくしはまた一つ、罪深い嘘を重ねてしまったことになりますわね。……私は聖人でも何でもない、ただみんなより少し前に同じ失敗をして知っているだけですから」
咲子は再び、凛とした、けれどどこか寂しさを纏った最強の外交官として背筋を伸ばしました。




