第119.5話(前編):【均等の罠】誰も飢えさせないという傲慢
佐藤家のリビング。窓の外では季節外れの冷たい雨が降り続いており、古い木造住宅の肌寒さを強調していました。
みゆはダイニングテーブルにノートを広げ、大学の宿題であるレポートに頭を抱えていました。
テーマは「社会における公平な資源配分について」。教科書的な正解を並べようとするものの、どうにも言葉が滑ってしまい、ペンが進みません。
「……うーん、平等って言っても、何が一番正しいのかしら。みんな同じ量をもらうのが、結局は一番争いがない気がするけど……」
独り言をこぼすみゆの隣で、咲子は三郎の予備のブラシを、専用の布でゆっくりと磨いていました。
その手つきは、まるですべての塵を許さない、静かな執念すら感じさせるものでした。
「……『みんな同じ』、ですか。それは甘美で、とても恐ろしい毒薬のような考え方ですわね、みゆちゃん」
咲子の声は、いつもの華やかさを欠き、どこか遠い地の底から響いてくるようでした。
驚いたみゆが顔を上げると、咲子は磨く手を止め、窓を叩く雨粒をじっと見つめていました。
「おばあ様? どうしたの、そんな顔して」
「……わたくしが、まだ向こう見ずな若さゆえに、自分を『救世主』だと信じて疑わなかった頃の話ですわ。ある貧しい農村で、深刻な水利権を巡る争いが起きました。上流の家々が水を独占し、下流の家々は枯れた田んぼを前に、怒りと絶望で鍬を握りしめていた……一触即発の状況でしたの」
当時の咲子は、特命を受けてその仲裁に乗り出しました。
彼女の胸には「自分の知恵さえあれば、誰一人として犠牲を出さずに、全員を救ってみせる」という、汚れなき正義感が燃えていたのです。
「わたくしは、全世帯の取水量を、生存ギリギリの量まで一律にカットさせました。上流の利権も、下流の抵抗もすべて跳ね除けて、村のすべての畑へ、数滴の狂いもなく水を均等に分かち合わせたのです。……これこそが究極の平和、誰も恨みを残さない唯一の『正解』だと、わたくしは自分の出した結論に、深く酔いしれておりましたのよ」
「……でも、それって公平だし、いい解決策に見えるけど……」
みゆが戸惑いながら呟くと、咲子は力なく、自嘲気味な笑みを浮かべました。
「ええ、その時のわたくしもそう思っていました。……でも、その『公平』という名の刃が、村の首筋に冷たく当てられていることに、当時のわたくしは気づこうともしなかったのです」
咲子の磨くブラシの音が、雨音に混じって不吉にリビングへ響いていました。




