第119話:【騎士の帰還】逃げ続けた背中への、最後の一撃
咲子から渡された「黒いリボン」は、アイリスの掌の中で鉛のように重く感じられました。 「救えない命を見送る覚悟」――。その言葉が、彼女の胸の奥で燻り続けていた古傷を容赦なく抉ります。
自衛隊を去ったあの日から、アイリスの時間は止まったままでした。 目を閉じれば、今でも指先に残るあの老人の手の冷たさ。崩落の轟音。そして、自分の判断のせいで瓦礫に消えた部下、佐藤一尉の絶叫。
(私は、あの日からずっと、あの泥の中に置き去りにされたままなんだ……)
アイリスは数日間の沈黙の後、震える手でスマートフォンを手に取りました。逃げ続けてきた過去。連絡先を消すことすら怖くて、ただ「封印」していた元部下の番号。
彼女が向かったのは、配信スタジオではなく、地方にあるリハビリテーション病院でした。
逃亡者の再会
病院の廊下を歩くアイリスの足取りは、重く、不安定でした。軍人として鍛えたはずの体は、恐怖で小刻みに震えています。
「……アイリスさん。顔色が真っ白だよ。大丈夫?」
同行したみゆが、心配そうに彼女の袖を引きます。アイリスは乾いた唇を噛み締め、小さく首を振りました。
「……怖いんだ、みゆ。彼に、どんな顔で罵倒されるか。……あるいは、軽蔑の眼差しで見られるのか。それを想像するだけで、足がすくむ」
それでも、彼女は止まりませんでした。咲子に突きつけられた「傲慢な優しさ」という正体。それを清算しない限り、自分は一生、偽りの騎士を演じ続けるだけの幽霊だと分かっていたからです。
病室のドアの前で、アイリスは深く息を吸い込みました。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴っています。
「……失礼する」
意を決してドアを開けた先。そこには、車椅子に座り、窓の外を眺める一人の青年がいました。元部下の佐藤一尉です。
「……班長?」
その声を聞いた瞬間、アイリスの膝から力が抜けそうになりました。懐かしい響き。けれど、あの日以来一度も、自分を呼ぶことを許さなかった名前。
「佐藤……。私は……」
アイリスは絞り出すように言葉を繋ごうとしますが、喉が震えてうまく声になりません。彼女はそのまま、床に膝をつき、子供のように頭を垂れました。
「済まなかった……! 私の、私の独断が、お前の足を奪った。私は怖くて、お前に謝ることもできずに逃げ出した。……お前の未来を壊した私を、どうか……どうか、呪ってくれ」
床に涙がこぼれ、染みを作ります。罵倒を待ち、アイリスは全身を硬直させました。しかし、返ってきたのは、穏やかで、少しだけ寂しげな溜息でした。
「……班長。顔を上げてください」
アイリスが恐る恐る顔を上げると、佐藤は怒りではなく、苦笑いを浮かべていました。
「呪うなんて、一度も思ったことはありませんよ。……ただ、悲しかった。班長が、俺を『加害者と被害者』という関係に閉じ込めて、一人で逃げてしまったことが。……俺はあの時、班長の部下として、自分の意志であの場に残ったんです。俺たちの絆は、班長の独りよがりの罪悪感で壊れるほど、安っぽいものだったんですか?」
「……っ!」
アイリスの目が見開かれました。 彼女が守ろうとしていたのは、佐藤という人間ではなく、「完璧な救済者でありたい自分」というプライドだった。佐藤は、彼女に「一緒に責任を負う資格」を求めていたのです。
「班長。……また、あなたの背中を見せてください。今度は、逃げる背中じゃなくて。泥にまみれても、誰かを切り捨てても、それでも前に進む……本物の指揮官の背中を」
佐藤のその言葉は、アイリスの凍りついていた時間を、一気に溶かしていきました。 罪が消えたわけではない。足が元に戻るわけでもない。 けれど、もう一人で震える必要はないのだと。
アイリスは震える手で、胸元の「黒いリボン」を握りしめました。そこには、もう恐怖はありませんでした。ただ、一生をかけて背負い抜くという、静かな、そして揺るぎない「安堵」が広がっていました。
「……ああ。約束する、佐藤。私は、もう逃げない」
病室を出るアイリスの瞳には、かつての冷徹な「規律」ではなく、現実の重みを知る者だけが持つ、深く、強靭な光が宿っていました。




