天使のマリア
イシグロは銃で背をつつかれた。
「上だ」
思い出が破られて頭に来た。せっかくのはじめての出会いを思い出したのに。
テロリストの娼婦のマリアは、ようやく死ねたのに、また嫌な世界に転生してしまった。不憫に思いながら十七段の階段を上がると、ジョウが入れと命じた。
部屋の中では、火のないマントルピースの前で、たった一つの椅子に腰を掛けた初老の男がいた。眉間にシワを寄せて深い眼孔から青い瞳がイシグロを睨んでいた。
「ずいぶん派手にやらかしてくれたな」
「そうでもない」
「強気だな」
イシグロは扉の脇にある帽子掛けの中折れ帽子を手にしてかぶってみせた。
「自己紹介はないのか。こんな空き家に呼びつけておいて話も何もないだろう」
ジョウが銃を構えた。
初老が唇をへの字に曲げた。
「空き部屋かわかるのか。我々も命令なのでね。お嬢様を奪い返せということだ」
「列車に置き忘れてきた」
ジョウが拳銃をイシグロのこめかみに突きつけて、いつまでも好きにできると思うなよと脅してきた。
「三下が騒ぐな」
イシグロは初老を覗き込んだ。
「おまえは伯爵様とやらがお嬢様を必死で奪い返したい理由がわかるのか?」
「知る必要はない。我々が必要なのは信頼の証なのだ。命令を遂行する。報酬が出る。ただそれの繰り返しだ」
「今回の列車の騒ぎはおまえか」
「これでも業界が長いのでね」
イシグロは自分の眉間のシワを指でなぞると、初老の男に笑ってみせた。
「おまえもろくなシワがない。苦労してきた証拠だ。いつ後ろから刺されるのか気にしながら生きてきた顔をしている」
「話す気はないようだな」
「まあね。話してくれるとでも?」
シガレットケースから紙巻き煙草を出したとき、床に丸薬が跳ねた。イシグロは気にもせず煙草をくわえて火を探した。
「火を貸してくれ」
「てめえ」
「死人は煙草は吸えない。知らないなら生きていても意味がないいんだ」
初老がジョウに撃てと指で命じると、ジョウが引き金を引いた。引き金を引いたと同時に撃鉄がカチャッと鳴った。
「ここにもあったよ」
車掌の持っていた拳銃が、ジョウの腹を撃ち、初老の足を撃ち抜いた。彼は椅子から転げ落ちた。イシグロは罵るジョウを蹴飛ばして、白銀の拳銃を取り上げたついでに飛び込んできた太っちょを撃ち殺した。
「どういうことだ」
「これは師匠から譲られた。俺にしか撃てないらしいんだ。こっちの小さいのは列車で拾ったもんだ」
イシグロはジョウを撃ち殺し、太っちょも逃げようとしたので吹き飛ばした。
「じいさん、自己紹介がまだだ。死体を漁られられたいんならいいが」
初老は撃つなと手で制しながら喉からヒュウヒュウ鳴らした。
「舐めるなよ。俺も前の世界でそこそこ生き抜いてきたんだ。何なら一晩かけて話してもいい。聞きたいか?」
イシグロは煙草に火をつけた。消したマッチを倒れた初老の男の額に弾いた。
「俺はベストに爆弾を付けられて広場へ行くように命じられた。広場の真ん中で遠くから見ていた奴がスイッチを押すんだ」
「何の話だ」
「人の話は聞くもんだ。そして俺ごと観光客を巻き添えに爆発するんだがな。どういうわけか俺は不発だったんだ。こんなときどうすればいいと思う?」
イシグロは煙草の煙を吹きかけた。怯えた表情で煙そうに眉をしかめた。
「みんな死んで一人だけ帰ってきたら何だか気まずいだろ?もし途中で自分で爆弾を外すと爆発するんだが、帰ってきて外しても爆発しないんだよ。しようがないからここみたいな娼館に戻ると、はじめてセックスしてくれて惚れた女を連れ出した」
ジョウがうめき続けていた。イシグロはまだ生きていたのかと呟いた。
「て、てめえ……」
「おまえも聞くか。この俺が惚れた女がいい子でな。だから俺は来世までも守ってやりたいと、ここに来た。ちなみにおまえは命乞いした奴に慈悲の心を向けたことがあるのか?俺はこれでも慈悲深い」
「逃がしてくれるのか」
「好きにしていい。今、俺はじいさんと話したいんだ。どこかで野垂れ死ね」
イシグロは煙を吐いた。
「どこまで話した?あ、そうそう。で、組織の奴らに殺されるかと覚悟したが、不思議なことに俺たちは生き延びた。だが俺たちができることは限られていたんだ。裏の世界で生きるしかない。でな、俺たちは恵まれたんだ。話が前後してるか?小説のセリフじゃないからな。日常会話なんてこんなもんだ。おまえの頭で整理しろ」
初老が扉のところでジョウが太っちょから拳銃を手にするのを見ていたので、イシグロは「話は済んでないんだ」と呟いて引き金を引いて今度こそ息の根を止めた。
「子どもだ。だがうまくいかない。仕事を辞めて隠れたんだが。悪いことをした報いなのか。俺たちは殺された。わかるか?俺のせいで彼女と彼女の腹の中の子どもまで死んだんだ。俺は後悔した」
「頼むから治療を」
「聞いてるのか?」
「き、聞いてる。私は……」
「後悔して彼女と子どもの魂を追いかけられるように祈ったんだ。そうすれば神様が悪魔がいるのかね。俺はここに来た」
イシグロは仕立てのいいスーツのポケットというポケットを探ると、紙入れや名刺入れ拳銃、葉巻き入れなど床に出した。
「私がいなくなれば騒ぎが起きる」
イシグロが見ていた名刺には何やら文字が記されていた。
「読めないな」
イシグロは呟いて、額に汗の浮いた初老の男に見せた。
「おまえも命が惜しいだろうが。話せよ」
「伯爵に殺される」
「伯爵に殺されるのか、ここで殺されるのか好きに選んでくれ。情報は漏らさん」
「おまえが漏らさなくても」
イシグロは懐から本を出した。これからどうなっているか知りたかった。
「おまえはソフィア・ブレンディアが通うハイスクールの校長らしいな」
「なぜわかる」
「未来の書だ。おまえは、喜べ、ここでは死なないことになっている。運がいい」
イシグロは空き家を後にした。




