タイキ・シビル(3)
ハユミの豆茶を飲み損ねたのを後悔しながら学園長室まで急いだ。扉の前で息を整えてからノックする。
「どうぞ」
応答を確認してから扉を開いて気を付けの姿勢。
「すみません。遅くなりまして」
「構いません。忙しい放課後に呼びだして申し訳ありませんね」
「いえ、とんでもない」
手招きされて来客用のソファーを示される。恐縮しながら腰かけると、学園長手ずから豆茶のカップを持ってやってきた。
学園長はフェルナンデ・ロンダート。元はメタリヤ連邦国の在ダジェン大使だった外交官。この国の風土に惚れこんだ彼は退職後に帰化して、政府とのコネクションを屈指して学園を立ち上げた。
子供が大好きで教育にも熱心なフェルナンデは自分の理想を現実にすべく努力している。その夢にタイキは共感していた。
「ドコウ先生が君の処分を訴えてます」
「やっぱりそうですよね」
用件といえばそのくらいだろう。
「ですが、私は君をどうこうするつもりがありません」
「え?」
「昨日の君の行動は倫理に適っていますし、私の夢の姿に近い。子供たちが過ちを犯していないのなら、どんな状況でも身を盾にしてでも生徒を庇う。それで自分が不利になろうとも立ちあがれる教師。そんな人を望んでいます」
口ひげを整えながらタイキを見る目は寛大な光を帯びている。警察沙汰にしたくない事なかれ主義など無縁で、心からそう思っているのだと感じられた。
「それでも生徒の前であれはやりすぎたと思ってます。俺のほうからドコウ先生に詫びておきますので」
学園長はゆったりと頷く。
「そうしてください。それで手打ちといたしましょう。彼には私からそう告げておきます」
「手間を掛けさせてすみません」
「どうもドコウ先生はロンダート学園の校風に合っていないと思っています。秋の新学期には彼の意欲が通用しそうな学校に移動できるよう手配いたしましょう」
表現はやんわりとだが、暗に要らないと言われているドコウをタイキは不憫に感じてしまう。彼は彼なりに信じるものがあっての行動なのだろうから。
褒められはしたが自慢はできない。生徒と視点が近すぎると不甲斐なく感じている所為だ。自分を少し高く置き、指導する立場というのも大事なのではないかと思う。
(理想の先生になるにはどれくらい修行しなきゃいけないもんだろうか)
定年の足音が聞こえるまで掛からなければいいと願う。
「これからもよろしくお願いしますね、シビル先生」
「はい、全力を尽くします!」
威勢のいい返事をして退室する。ひと息ついて教員室に戻るとパソコンが復旧していた。今度は触っても大丈夫そうだ。
「助かりました、ハスハラ先生」
冷めてしまった豆茶をすすりながら感謝を伝える。
「いいんですのよ。お茶も淹れ直したのに」
「そんなにお世話になるわけには。そうだ。今度、夕食でも驕りますね。お酒がいいですか?」
「本当? 嬉しい。信じますよ?」
「任せてください」
翌日の準備を済ませてハユミと一緒に教員室を出る。駐車場で彼女を見送ってから自分のバイクへ。
ヘルメットをかぶって、ちょっと排気量大きめのスクーターを押して校門まで行く。練習を切りあげるクラブチームの生徒たちと別れの挨拶を交わしながら門をくぐった。
(ん?)
対面の歩道で手を振っている少女。
(あんな生徒いたっけ。いないな。見間違えるわけもない)
年は十二、三歳くらいだろうが、見事な金髪に金眼の美しい少女である。北方大陸人でなければ見られない色合い。学園長の縁者だろうか。
首をひねりながら、一応「気を付けて帰れよ」と告げてバイクにまたがった。
◇ ◇ ◇
「ただいま」
「おかえりなさーい」
帰宅を告げると奥からは母の応えが聞こえる。
自宅は作りの古い一般家屋。玄関の引き戸は開けるたびに盛大に音を立てる。
それでも開けにくかったりといった不都合を一度も感じたことがない。大工の父が精魂込めて作りあげた自宅だ。誰かが住んでいる限りはあと五十年は揺らぎもしないのではないかと思う。
「ただいま帰ったよ、親父」
「ああ」
父のゴロクは座卓に新聞を広げて眺めている。脇には焼いた小魚と漬物が乗った小皿。それに酒の瓶とお猪口が並んでいた。
日は沈んでいるが深い時間でもない。最近の父は若い者に棟梁を任せてあまり現場に顔を出さないようだ。自分の目がある所為で弟子が自由にやれないのを避けるためだという。
「手を洗って座ってなさい。すぐに夕食を出すから」
「うん、ありがとう、お袋」
洗面所で顔と手を洗ってうがいをしたら座卓に着く。もうお茶だけ出してあったので軽くすすった。
「どうだ、仕事は」
「楽しいさ」
なんてことのない会話。
「自分で選んだ仕事だ。思う存分やってみろ」
「そのつもり」
「それでいい」
父は大工を継いでほしかったのかもしれない。言葉の端にわずかにそんな気持ちが感じられることもある。だが、彼の道を決して否定はしない。
「ひとつだけ忘れるな」
珍しく口数が多い。
「なんだい?」
「他人様の子供を預かっているんだ。学校じゃお前しか頼るもんがない。絶対に守ってやれ」
「それだけは必ず」
(忘れやしない)
教師を志したときの誓いだ。
食卓に膳が並べられるといい香りが漂ってくる。礼を言う前に腹の虫のほうが主張してしまった。笑った母が「おあがり」と言ってくる。
「そうそう、今日、アマネが電話をしてきたの」
母が首都のトージンで働いている妹の名前を出す。
「元気にやってるのかな?」
「ええ、頑張ってるみたい」
夜の静寂が訪れつつある実家でタイキは再びなんてことのない会話に興じた。
次回『ロンダートの災禍(1)』 「あれ……。あれがきっと!」