酒と泪と男と妹 下
「よし、決めた!」
「連絡するんですかっ?」
「いやそっちじゃなくて」
目をきらきらさせる梢ちゃんに冷静に返して、私は妹のいた席を見る。
「ちょっと野暮用ができそうで。たぶんすぐに今日はおいとましようと思いまして」
「そうですね! よく考えるべきことですもんね!」
うきうきした様子の梢ちゃん。だから、本当に、違うんだってさ。
再度否定しようとした私は、不思議な光景を目にした。
男が、妹の呑んでいたチューハイに、錠剤のようなものを入れているようだった。
あれって、もしかして……、と思った瞬間。
頭のネジがふっとんだ。
荷物をぜんぶかき集めて、席を立ちあがった。
「すみません、今すぐ帰ります」
きょとん顔の院生陣を置いて、私はトイレに向かった。女性用の洗面所にいた妹は鏡前でファンデーションを直していたようだが、私の顔を見るや、鏡越しに睨んでくる。
「……なに」
「奈月。今日はもう帰るよ」
「なんで」
「いいから」
有無を言わさず、妹の手を引っ張って出て来た。
「荷物は全部持ってるね? ……よし、行くよ」
トイレを出た。席と席の間をすり抜けて、店の外に出ようとした。
「おい、ブサイク。俺の女に何しているんだよ」
薬を入れた男が私を睨みながら追いすがってきた。
ブサイク? ああ、私のことね。
「こっちは楽しく話していたってのに、失礼じゃねえか? こっちはタダで飲ませてやってるんだぞ!」
「タダほど高いものはありませんよね?」
私はつとめて冷静に言った。
「タダの代わりに、ホテルへ連れ込もうと? 私、見ていましたよ。お酒に薬を入れてしましたよね? 本人の見ていないところで入れるのなら、睡眠薬ですか? それで、どうするつもりだったのですか?」
「ちっ」
「舌打ちしないでくれます? 感情的になりたいのを必死にこらえてお話ししているのですから。こっちは頭にきているんです。この子に、何をしようとしていたのですか?」
淡々という。男は黙っていた。
「この子はうちの大事な妹ですよ? そりゃあ、いろんなところが理解できてない馬鹿な妹ですけど、私の妹なんです。……あんたのおもちゃじゃないんで、ここで連れ帰らせてもらいますよ」
いいですよね? と私は笑顔で告げる。
「ちなみに今後、うちの妹に近づくことは許しませんよ? 殺される覚悟で来てくださいね? 何かするようなら、地の果てまで追いかけて呪い殺しますから。女の怨念は恐いんですよ、人をとり殺しますからね?」
すみません、とそこへ年配の男性が止めに入った。
「今の薬のお話。本当ですか?」
「はい、たしかに見ました。そのグラスを確認すればわかると思います」
妹の飲みかけのグラスを指さすと、店長は神妙な顔になる。
「わかりました。またお話をお伺いするかもしれません」
お客様、と店長の名札をつけたその男性が、妹へ薬を盛ろうとした男の腕を掴む。
「別室で話しましょう。さあ、こちらへ」
二、三人の店員に囲まれた形になった例の男が連れられていった後。私は、ほっと、息をついて。
ぼろっと、涙がこみあげてきたのだった。
「……姉ちゃん」
妹を振り向けば、妹も目が真っ赤だった。子どもみたいに顔を歪めて、化粧もどろどろである。
「あんたって妹は……なんでひょこひょこあんな男についていくのさ! 馬鹿か、あほなのか! この年で姉を心配させるなよ、大人だろ!」
「だ、だって……うわーん!」
「うわーん、じゃないの! 泣きたいのはこっちだよ! こっちは恐かったんだからな! なけなしの勇気振り絞ってんのを忘れるな! まずは謝れ、私に!」
「ご、ごめ、ごめんなさーいっ!」
「あと、心配かけてる父さん母さんに、じいちゃん、ばあちゃんにもだ! しっかり頭を下げて、ごめんなさいと言うんだ。そんで、もうこんな心配をかけないと誓え!」
「ぢ、ぢがいまずぅ……ぐすっ、ね、ねえちゃん、ごめん、ごめんなさい~!」
妹が号泣したところで気が済んだ。目元をごしごし拭って、周りを見たら、えらく注目されている。
あ、この店、院生仲間に、鳥足くんもいたわ。
鳥足くんはともかく、私の院生生活は四月で終わりを告げた気がする。恥ずかしくて、院に行けない。
あの、と私たち姉妹に鳥足くんが話しかけてきた。
「よろしければほかのお客様に見られにくい席をつくりましたので、こちらへ。……少し落ち着かれた方が帰りやすいですよね?」
たしかに、こんな心身ともにぼろぼろの状態で家には帰りづらいものがある。
「わかりました……ありがとうございます」
「いいえ、雪間の君」
爽やか君は私たちを別席に案内した後、ホットミルクを持ってきて、去っていった。
それからの展開は怒涛だった。警察に話を聞かれるわ、親に電話したらわざわざここまで迎えに来るといって、高速道路を飛ばして来たり、妹はいつまでもすんすん泣いて腕にすがりついてくるわ、散々なものだった。
なお、後日。落ち着いた妹の話を総合すると、事情は以下のとおりである。
まず、あの男とはあの時が初対面だったこと。今流行りの出会い系アプリで知り合ったこと。
彼氏とは最近別れたばかりで、出逢いを求めていたこと。相手は一見してものすごく親切にしてくれた、別れた彼氏の話を延々と聞いてくれて、支えになってくれたから、信用していたらしい。
それで、たまたま私の大学近くの居酒屋で会うことになった。相手がそこそこの名門であるうちの大学に通っていると吹聴していたらしい(実際には嘘だったそうだが)。
「たしかに恋は盲目だというけれどさあ……やっぱり初対面の相手には警戒しなよ」
近年、似たような被害に遭う女性がいるらしい。ネット上で知り合い、初対面で酒に薬を入れられ、知らない間にホテルに連れ込まれてしまう。
こういうニュースがテレビで流れていたのを思い出しながら妹に言った。
「……姉ちゃんには恋がわからないんだよ。いい人だったんだもん」
いい人は薬を盛らないぞ、と呆れた目になる。
土曜日に急に妹が私の部屋にやってきたと思ったらこんな調子だ。何のために来たんだね、君?
「あんた、昔から思っとったけど、だめそうな男ばかり捕まえてくるのはなんなん? もうちょい相手を選びなさいよ」
「姉ちゃんに言われたくない。自分は枯れて果てているくせに」
妹はいつものツンケンした口調で言う。
「私のことはいいんだよ。まだだれにも迷惑かけてないから。
あんた、次捕まえてきた男はすぐに私か父さん母さんに紹介しなさい。あんたのチェック機能はがばがばだから、二重チェックしたるから。いいね?」
妹は何も言わなかった。言わないということは肯定と受け取った。
「ま、あんたも今回のことでこりたでしょ。あの時、私がたまたま気付いたことに感謝しとくこと。あんなところにいることなんて、滅多にないんだからね」
わかってる、と妹は後ろ手に組みながらぽつりという。
「はいはい。じゃあ、この話はもう終わり。姉ちゃんは課題のレポート中だから出ていった」
「わかった。マンガだけ借りてく」
「はいはい」
妹が珍しく私のマンガを適当に物色して、抜き取っていった。そして一旦、出ていったと思ったら、もう一度戻ってきた。
「……あげる」
妹が私の勉強机に何かを置いた。何かのブランドものっぽい紙袋である。
「なにさ」
「知らない」
いや、知っているでしょ。
妹はどたどたと部屋を出ていった後、私は中身をのぞいてみた。紙袋の中には高級そうな箱が収まっている。
中には綺麗なガラス瓶が入っていた。中の液体はピンク色で、二部分にはかわいらしいリボンのデザインが施されている。……香水か?
ためしに手首にしゅっと振りかけてみて、匂いを嗅いでみる。お花畑の香りがした。フローラルな……バラの香りだ。
「あ、いい匂い」
こう見えても、旅先で匂い袋やらお香やらを買ってくるタイプなのだ。香水は一本も持ったことはないけれど、わりと気に入ってしまった。
何を思ってプレゼントしたかはわからないが。
妹よ。姉へのプレゼントのセンスはいいと思うぞ。
香水はディオールの「ミス・ディオール ブルーミングブーケ オードゥトワレ」のイメージです




