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一旦嵌れば抜け出せない、それが沼。

 実はすっかり抜けていたことがあった。今年単位取得しなければならない演習の授業がもう一つあったのだ。学部生と合同でやる演習よりもだいぶ少人数(今期だと二人だけ)で行う『源氏物語』の演習である。


 これでも私は『源氏物語』で卒論を乗り切った人間だ。ついていくことはできる。ただ、圧倒的に時間が足りないのが問題だ。


 『源氏物語』は文学の沼である。中世から現代に至るまで何百年も積み重ねた重厚な先行研究があるにも関わらず、それでもなお解決できない問題が山積している恐ろしい世界なのだ。


 あの物語がただのプレイボーイ源氏のサクセスストーリーと思っている人たちがいたら認識を改めてもらいたい。そんな話だったら『源氏物語』はとっくに歴史の波に消えていた。『源氏物語』だけで食っていける研究者たちは存在しなかった。


 作者の紫式部は学者の父を持つ恐ろしいほどの才媛だった。当時貴族たちの間でも読まれていた『白氏文集』などの漢文に、歴史的な事実、社会世相、詠まれていた和歌、先行する物語などの膨大な知識をこれでもかと散りばめ、数十年にも及ぶ『源氏物語』の大きな世界を作り上げた。まだ本文には見つかっていない典拠や引歌(作中人物の歌や地の文の記述の元になった歌のこと)がいくつもあると言われている。


 さらには古典文学にはつきものだが、テクストそのものの問題がある。出版が整っていない当時は、本の流通はもっぱら賃借か書写するしかない。色んな人の手を経るうちに「ここはああした方がいい」と勝手に文を書き換えてしまったり、誤字が生じてしまったりして、本文はどんどん枝分かれするように種類が増えて行ってしまうのだ。文学を研究する者の仕事の一つには、もっとも作者が書いた当時と同じ形の本文を知ることにあるのだけれど、この検討が難しい。

『源氏物語』はすでに紫式部の生前から、本文が三つあったことが判明している。生前でさえ本文が錯綜しているわけだから、現代ではもっと収拾がつかなくなってくる。


 この辺りになってくると、「もうやめてー!」と叫びたくなるけれど、先を続ける。


 いくつかの本文を見比べて文の違いが出てきた時、これを「異同」と呼ぶ。異同の中からもっとも正しいと思われるものを選び、本文を古典の教科書みたいな仮名遣いに直し、読みやすいように漢字にしてみたり、句読点をつけてみたり……。


 昔の注釈書をいくつも見て、それぞれで言っていることを整理して、わからない単語は辞書や用例で意味を検討する。


 こういったことを発表資料でまとめる。一朝一夕で終わる代物ではない。上手く時間調節をしないと、徹夜でひいひい言わなくてはならない。


 しかしなぁ。院生発表の都合もあったにしても……レポートや試験の時期まで発表が重なってくるのはきついなぁ。


「神坂サン、ファイトですよ」


 今年から同学年になった中国人留学生のさんが演習内容の説明後、遠い眼になった私を励ましてくれる。馬さんの方が言語のハンディキャップで大変だろうに。あんまり弱音も言っていられないわなぁ。


 私の周囲には頑張り屋さんが多いのだ。梢ちゃんは一時期ものすごい量のバイトと戦いながら単位取得に励んでいたし、田沼はどんなに忙しくとも発表資料とお菓子の両方をしっかり仕上げている。馬さんだって他大学から来たのにたくさん努力しているわけだから、私もうかうかしているわけにはいかない。


 私はマグロにならなければならない。寝ている間も思考の海を泳ぎ続けるのだ。



 研究室で本を漁っていると、学部生の子たちがこんな話をしているのが耳に入った。


「そういえば、今週発表だったあの子……次の日から学校に来てないってさ」

「うん? ああ、あれ? なんかさ、演習発表が終わった途端に熱が出ちゃったんだって」

「うわあ……。演習発表は本当に闇だわー」

「闇だよねー」


 演習は闇属性らしい。光あれと願うばかりだ。



 ※

 日本文学研究室には二人の先生が在籍している。中古文学を専門とする島津先生に、近世を専門にする海野先生。直接の指導教官は島津先生だが、院生発表は両方の先生の前で行う。


 発表準備でゴールデンウィークが潰れ、精神的に追い込まれた。が、どうにか発表まで持ち込んだ。


 正直に言えばこれも調べきれていないし、あれも確かめておきたい。頭の中がぐるぐるして、思考がうまくまとまらない。


 本当は卒業論文の延長で『源氏物語』を取り上げればいいのかもしれないけれど、別の作品にも興味を持ってしまい、修士論文ではそちらの方を取り上げたくなってしまったから、色々一から調べ直す必要が出てきたのだ。


 私の拙い発表を聞いた海野先生は「あー」と唸った。


「あんたはあれや。発表して相手を説得せなあかん立場やのに所かまわず喧嘩を売ってるみたいやなぁ」

「は、はぁ……」


 喧嘩、売っているつもりはないのですが。

 言い返したい気持ちもあるが、海野先生のおっしゃりようにはいつも妙な説得力があるのだ。


「内容がなんかガチガチやなぁ。情熱は見えるんやけど、面白く『語る』方法を磨かなあかんで。聴衆を敵やと思っているようじゃ、まだまだやな」

「は、はい」


 それから五分以上、ぐさぐさと刺さることを言われた。心に刺さりすぎてリカバリーが厳しくなってきそうだ。


「うん、以上や。……島津先生は?」

「そうですねぇ」


 島津先生は顎に軽く手を当てて、


「神坂さんもわかっているだろうけれど、まずは基本を大事にすることね。足場を固めること。先行研究や注釈書を丁寧に見ていくこと。神坂さんのあげた疑問点にはすでにある程度の答えはあると思う。先行研究の厚みが結構あるやつだからね。そこから神坂さんなりの切り口を見せてほしいと思います」


 云々。おおまかに言うと、そんな感じのことを言われた。


「あ、あともう一つあるわ」


 海野先生がもう一度手を挙げた。


「これはさんにも言えることやけど――この二年間がより実りあるように祈ってます。昨今、文系はなかなか厳しい状況にあるけれども、我々の仕事には確かな意味があるんで、堂々と文学をしていきましょう。それが指導者としての我々の本望ですわ」


 じゃ、解散。

 海野先生はすたすたと講義室を出て行った。島津先生も「だったら僕も」と立ち上がる。


 残された院生たちの間で、こそこそと会話がなされた。


「海野先生、素面なのに頑張ってたね」

「あとで恥ずかしくなったんだろうね。みんなの顔、ぜんぜん見なかったもの」


 あ。やっぱり。

 隣に座っていた司会役の先輩はこうも付け加えた。


「わかりにくいかもしれないけれど、あれは海野先生なりの励ましだから有難く受け取っておきなよ」


 いきなり真面目なことを言い出したと思ったら、先生なりのフォローだったらしい。

 そんなことがあるものなんだなぁ。院生は先生との距離がそれだけ近くなるということか。


 ※

「発表終わったー。ただいまよー」


 帰ってみれば両親が晩酌していた。ウイスキーをロックで割って、柿ピーとジャーキーがお皿に盛られている。


 うちの両親は共働きだ。晩酌の光景も一週間に一度か二度くらいの頻度だ。仲がいいのか悪いのかよくわからん両親だけれども、「亭主元気で留守がいい」と夫本人の前で言えるぐらいの信頼関係はある。

 母は私の夕飯を用意するために立ち上がった。


ゆかり。今日発表終わったんやろ。冷蔵庫にチューハイ入っとるからそれ飲んどき」

「チューハイあるんだ。珍しい」


 両親とは飲むお酒の種類が違う。私は甘めのやつしか飲まないのだ。家族が何の気まぐれか買ってきたものしか飲まない。


 冷蔵庫をのぞき込んで桃のチューハイ缶を取り出して座り、父の方にはウイスキーを継ぎ足しておいた。


「お、紫が珍しく気を遣っとるわ」


 作業服姿の父が目じりの皺を深くする。こういう時、父ももう五十代なのだなあ、と実感する。決してもう若くはない。


 全力で勉強できるのもこの二年が最後だろう。それから私はきっと働きに出る。院試を受ける時にはもう決めていた。


 それまではせめて父が元気でいられることを祈る。そんなわけでちょっぴり父にサービスすることだってあるのだ。


「あとは紫が彼氏を連れてこればなぁ」

「そればかりは今すぐどうこうはできないから」


 二十二で父親に結婚相手を心配される娘とは一体何だろう。よっぽど厳しいと思われているのか。否定できないけれど。


 まあいいじゃない。私がダメでも孫はきっとあの妹が見せてあげると思うよ。私はあんまり当てにしないでください。


 現状、それ以外のことにしか目が向かないのだから仕方がないのだ。


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