四話◆琥珀と蜂蜜
ファシーヌ……
しばらく観察していたら、ヒューゴの瞳に浮かんでいた"得体の知れない揺らぎ"が、ふっと霧散するように消えた。
さっきまで金色の火花が燻っていたように見えたのに……。
「なんだ! 揺らぎが消失してしまったぞ!? これからが本番だったというのに! ああこれはこれで興味深いがまったくもって実につまらん!!」
ダミアン先生の慟哭が研究室の壁に反響する。うるさくてうるさい。
「俺は………………なぜ拘束されているんだ?」
「ヒューゴ……正気に戻って良かったよ」
「どういうことだ?」
さっきまでの記憶がないのか、ヒューゴ本人は完全に状況を把握していないようだった。
ダミアン先生は、「仕方ないな」と言わんばかりに、ヒューゴを縛り付けていた魔導拘束具を乱雑に外す。
自分で作ったと言っておきながら、丁寧に扱おうという気はまったくないんだね?
「実に残念ではあるが、同時にレストレンジ君が正常に戻ったことは喜ばしい事だと言えよう。残念ではあるが! だがしかし、これでファシーヌが単なる戯言と断じ切ることは出来んと、この目ではっきり確認できたわけだ! 実に、誠に有意義な時間だった!!」
またファシーヌだ。
「先生……さっきも言ってましたけど、その『ファシーヌ』って何なんですか?」
ダミアン先生の目が、雷に打たれたみたいに光った気がした。えっと、これってヤバいやつかな?
「気になるかねアシェル・ガルブレイス君! 君のその知的好奇心は実に素晴らしい! いいだろう、とくと聞くが良い! ファシーヌの微睡とは、歴史に残る数多の"狂気の沙汰"の根源と目されてきた、ある一族にのみ受け継がれたとされる特殊能力なのだ!!」
「……狂気の……根源? それはどういう意味なんですか!? もっと詳しくお願いします!」
「なあ、俺はもう帰って良いだろうか?」
ヒューゴが控えめに挙手したけど、ダミアン先生はそれを完全に無視して話し続ける。
「いいかね! 古文書にはこう記されている! "狂気に沈んだ者の傍らには、必ず琥珀色の瞳の影があった"……!」
「琥珀色……」
心臓が小さく跳ねた。
レイナの瞳も、僕の大好きなあの人の蜂蜜色も、その『琥珀色』という表現にも当てはまるんじゃないか……と。
青ざめる僕にはお構いなしに、先生は叩きつけるようにして机に開いた資料をめくりながら、さらに畳みかけてくる。
「良いかねアシェル・ガルブレイス君! ここに描かれているこの挿絵を見たまえ! "蜜色の瞳を持つ娘が、倒れ伏す男の傍らに立つ"――たったこれだけの挿絵が、三つの時代の文献に共通して現れるのだ!」
「……この絵……」
挿絵の中の『蜂蜜色の瞳』は妙に鮮やかで……生きているようにさえ見えた。
少しずつ鼓動が速くなり、嫌な汗が背を伝う。
「三百年前の王都蜂起、二百年前の侯爵暗殺未遂、そして七十年前の"舞踏会錯乱事件"……いずれも加害者は証言の中で『琥珀色の瞳をした女を見た』と語っているのだ!」
「ま、まさか……」
「おいアシェル、俺は――」
「これらを虚構だの絵空事だのと論じる者もいるが私はそうは思わん! 更にこの女性像――どの時代でも年齢が変わらんときた! 血筋なのか技巧なのかあるいは"同一人物"なのか!? いやはや興味は尽きんというものだよ!」
……やばい。
あまりに情報が刺さりすぎて、先生のうるさいはずの叫びが遠く聞こえる。
「そしてファシーヌ家は数百年前、魔女裁判騒動で滅びたと伝わっているのだが! しかし私は信じている! 一族は必ずどこかで血を繋ぎ、生き残っているとなァ!!」
「…………その根拠は?」
「浪漫だ!!」
「浪漫かあ…………」
なんとも返しづらい情熱だ。
でも、琥珀色の瞳という単語が僕の脳裏にこびり付いて離れない。
「……そもそもですね先生、その"狂気"って何なんですか? 精神に影響する魔法の類なんですか?たとえば、魅了系……とか…………」
そう口にした瞬間、ヒューゴが袖を引っ張った。
「なあ、いいかげん俺はもう帰っ……」
「レストレンジ君! 君はそのまま座っていたまえ! とっくに解放されているというのに未だ其処に居るという事は君も内心は続きを聞きたくて堪らないという事に他ならん!」
「俺がいつそんなことを……!?」
もうダミアン先生は完全に暴走していた。
その勢いのまま、先生はまた別の古ぼけた資料の束を乱雑に机の上に置いた。
「見たまえこれがファシーヌ家関連の一次資料だ! おそらく私の手元にあるものとしてはこちらが最古であろう! しかもこれには依然として未解読部分が多く、実に! 浪漫に満ちている!」
「……これは…………」
古い紙に刻まれた奇妙な図形。
わずかに残る『蜂蜜色の瞳』を想起させるような彩色。
そして、何よりその内容は。
精神汚染、瞳の光、魅惑、狂乱――。
(……ひとみの……ひかり…………)
脳裏に、あの日の記憶がよみがえる。
――眼鏡を外したダリルさん。
突然ダリルさんを口説き始めたクラウス……。
ダリルさんの、慌てた表情。
(あれも…………関連がある?)
胸の奥に、どす黒い不安が渦を巻き、そして沈殿していく。
どうしよう。吐きそうだ。
(違う……違うはずだ……。そんなはずない……!)
必死に自分の思考を否定しようとしても、一度浮かんでしまった疑問は消えてはくれなかった。
だって、そうなんだよ……。
クラウスが急にダリルさんを口説いたあの瞬間――
あれは『魅了に似た現象』でしか説明がつかない。
(でも……あれはただ寝ぼけて……いや……違う。僕は見た。瞳の揺らぎ……あれは……)
心臓がぎゅっと握りつぶされるように痛む。
(やめろ、考えるな……! ダリルさんは……そんな……)
頭のどこかで「違う」と叫びながら、別のどこかが「でも」と囁いてくる。
嫌だ。
本当に嫌だ。
胸元にそっと手を当てる。
僕の魔力から生まれた、ダリルさんに渡した『青い魔石』のペンダント。
あれを思い浮かべるだけで、いつもなら彼の温かい気配を感じられるのに――
今はその想像さえ、胸のざわつきを煽る。
(兄様は? ……何か知ってるの? あまり触れるなって、そういうこと……? ダリルさんは……僕にだけは"秘密"を見せたことがない……?)
そう考えた瞬間、世界が揺れたような気がした。
「…………あ、れ?」
ふと気づくと、ヒューゴの姿が消えていた。
「えっ、あれ……ヒューゴ!? どこ行ったの? 先生っ、ヒューゴは!?」
「レストレンジ君なら、さっき『もう帰る』と言って出ていったであろう? 彼は声をかけたのに君が気づかなかっただけではないか! 実に君らしい! 観察対象に集中しすぎるのは研究者としては美点でもあるがね」
……聞こえてたなら、返事くらいしてあげてよ……。
確かにヒューゴはずっと帰りたいと言っていたし、彼にとってはまるで興味のない話題だっただろう。
先生が一切耳を貸さなかったせいで、完全に透明人間扱いになってたし……。
妙にじっとりとした空気の中、僕は資料を握りしめた。胸の奥がざわつく。
(ファシーヌ……蜂蜜色の瞳……狂気の影……)
そして――
思考のどこかが、僕の望みとは裏腹に……嫌な形で繋がってしまいそうだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
(気が付いたらヒューゴが被害者になってました……)
よければまたアシェルに会いに来てくださいね!
☆乙兄の更新は週2回(火・土 20:00)の予定です。




