第二十二話 あの日からずっと
俺は野球が好きだった。好きだったからどんなに辛い練習でも続けられたし、苦にも感じなかった。
常に野球のことだけを考えていた。どうすればもっと速く投げれるのか。どんな球種なら打者を打ち取れるのか。
好きだから努力を怠らなかった。好きだから考えた。考えて考えて考え尽くした。
野球が大好きだった。
だから勝ちたかった。
チームが勝つことも、自分が抑えることも嬉しかった。
——あの日までは。
「ナイスピッチ!」
ベンチから歓声が飛ぶ。
四月最後の公式戦。真田は今日もマウンドに立っていた。
スコアボードにはゼロが並んでいる。
六回無失点。被安打二。奪三振七。
結果だけ見れば完璧だった。
——なのに、何も感じなかった。
一年生が先発登板する。そうそうあることではないと理解している。そもそも一年生でベンチ入りするだけでも難しい。そんな中で真田は先発を任されていた。
監督の期待も大きい。チームメイトも認めてくれている。以前の自分なら、きっと嬉しかっただろう。
だが今は違う。
どれだけ抑えても。どれだけ結果を出しても。心は少しも満たされなかった。
——ゲームセット。
気付けば最終回まで投げ切っていた。無失点の完封勝利。決して相手が弱いわけではない。その証拠に青葉高校も一点しか取れていなかった。傍から見ればロースコアゲームの手に汗握る展開だったのだろう。
「ナイスピッチ!」
「おいおい、マジかよ真田!」
「完封は熱いって」
試合終了後も次々と声が飛んでくる。真田は曖昧に頷くことしかできない。以前なら嬉しかった。誰よりも努力した結果を認められることが。
だが今は違う。やっぱり何も感じない。
(俺のこれまでは何だったんだ……)
脳裏に浮かぶのはスコアボードではない。
観客の歓声でもない。
あの日の光景だった。
『俺と勝負しないか?』
あの日の自分の声だけは、今でも耳に残っていた。
十球勝負。ただそれだけのはずだった。
投じたボールは一度もキャッチャーミットに収まることはなかった。どんなコースでも、どんな球種でも関係なくバットは芯を捉えた。これまでの全てを懸けた渾身の一球も通じなかった。
あれから更に投球を重ねた。
誰よりも練習した。誰よりも野球と向き合った。
球速は伸び、変化球の精度は上がり、結果も出ている。
——それなのに。まだ届かない。
……届かないなんてレベルじゃない。あいつは本当に野球部じゃなかった。運動部にすら所属していなかった。
今の実力でもう一度同じ勝負をしたとしても、勝てるビジョンが浮かばなかった。
どれだけストレートが速くなっても。
どれだけ変化球を磨いても。
春の公式戦で完封したとしても。
誰よりも努力したとしても。
そんなものは関係ない。
——藍川秋冬には勝てない。
「真田、監督が呼んでるぞ」
「……分かりました」
試合を終え学校に戻ってきていた。最近時間が飛ぶことが多い。もちろんそんな事実はない。真田が何に対しても興味を抱かなくなっただけ。先輩に声をかけられる前、何をしていたのかさえ曖昧だった。
準備室には監督が一人残っていた。
「今日も良い投球だったな」
「……ありがとうございます」
「浮かない顔をしているな」
監督とは入学前から面識がある。推薦合格が決まった後、正式な部員としてではないが、練習に参加させてもらっていた。あの時は、やっぱり中学生とはレベルが違うなと驚き、同時に楽しみになったことを思い出す。
「何か悩みでもあるのか?」
「悩みですか……」
何に悩んでいるのか。果たしてこれは悩みと言えるのだろうか。
「一年生で先発投手だと色々気を使うだろう」
「……」
良くも悪くも実力世界なのだ。監督が言うように学年の壁はあるかもしれないが、それで勝ちを逃すくらいならやらない方がいい。先輩たちも同級生もそれを理解している。だからやっかみを買うことなどなかった。
——そう。実力が物を言う。俺があいつに劣っていた。ただそれだけだった。
「プレッシャーも分かる。今年は県大会優勝も狙えるからな」
「……」
プレッシャー? それは何に対するものだ。これ以上何をどうすればよかったんだ。
「後は、そうだな。野球から少し離れてみるのも悪くないかもしれない」
「……そうか」
小さく呟く。
何で気付かなかったのだろう。どれだけ努力しても埋まらない差を埋めようとしていた。……それが苦しかった。なら、最初から追わなければよかった。
真田自身、分かっていたのだろう。気付かないふりをしていただけで、答えはとっくに出ていた。
——あの日からずっと。
どれだけ努力しても埋まらない差はある。少なくとも今の俺にはそう思えた。
帰宅途中、学校から説明のあった『退部手続き』について思い出していた。どの部活動でも共通。生徒の意思が尊重されると教師が話していた。……俺には関係ないとあの時は考えていた。
もっと葛藤があると思っていたが、答えは意外にもすんなりと胸に収まった。野球が無くなった後のことは考えていなかった。それでも不思議と恐怖はなかった。
——あいつとばったり出会うまでは。もう関わることもない。そう思っていた。……無視すればよかったのに。
視界に入った途端、真田は駆け出していた。




