第5話 当たり前の湯船
夕方までは思ったよりあっさり過ぎた。
明日香はリビングのテレビを真剣な顔で見ていた。最初はニュース、そのあと情報番組、さらにそのまま夕方のバラエティまで、まるで新しい世界の資料でも集めるみたいに目を逸らさず画面を追っている。なんにでも頷いていたところを見ると、根が真面目なんだなというのが伝わって来る。
その間に俺は明日香が寝る場所やら何やらを整えていた。
母さんのベッドは今日から明日香用になる。そして、俺のベッドは母さん用になる。枕カバーやシーツを洗濯しながら、合間を縫って自分の部屋の掃除を進める。
母さんのことだ。枕が代わるだけで寝不足になる癖に、自分はリビングで寝ると言い出すに決まってる。だが、仕事で忙しい母さんにそんな負担をかけるわけにはいかない。
俺はしばらくリビングのソファー生活になるけど、幸いどこでも寝られる俺にはなんの問題もない。
「私にも何かできることはある?」
いろいろ進めているところで、明日香が声を掛けてきた。
「大丈夫だ。ゆっくり過ごしててくれ」
「でも、私だけ何もしないのは」
「変に手伝ってもらうと作業が増えるからな。少しずつ覚えていってくれ」
「そう、ね。わかった。いま手を出しても足手まといになるだけ。少しずつ修行を積むわ」
修行って、そんな大層なもんじゃないんだけど。随分と大袈裟な言葉選びなのは、やはり明日香が異世界帰りだからか。
あっさり身を引いた代わりに、俺が走り回っていると「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか言ってくる。そういうところが妙に真面目だ。
夕飯は軽く済ませた。
昼に炒飯をがっつり食べた明日香は、さすがに夜まで腹が減っていなかったらしく、作り置きと卵スープと、米と焼魚で十分だと言った。
それでも目を輝かせながら完食し、物足りなそうではあったが、遠慮したのだろう。追加を出そうとしたが丁重にお断りされた。夜に空腹で寝られなくならなければいいけど。
そして問題の風呂だ。
「風呂、先に入るか? 」
ピロリン♪ と沸いた音が鳴ったので、テレビを見ている明日香に問いかける
「入っていいの?」
「ああ。いろいろあって疲れてるだろうから、ゆっくり浸かってくれ」
「浸かってくれってことは……。湯船に入っていいの!」
明日香の目が、ぱっと明るくなった。
「あ、ああ。沸いてるからな」
「もしかして……。お風呂に入るのってこの世界では当たり前?」
「少なくとも日本では一般的だな」
「じゃあ毎日、湯船に浸かれるの?」
その言い方で、何となく察した。
異世界とやらでは簡単に湯に浸かれなかったんだろう。まあ湯船の文化は海外でもないところが多いし、驚くことでもないか。
「うちは毎日、湯を張ってるぞ」
「すごい……」
目の輝き方を見ると、本気で楽しみにしているのがわかる。俺も湯船に浸かるのは好きだから気持ちはわかるけ。
「先に入ってくれ。俺はまだ片付けが残ってるから」
「ええ。ありがとう」
明日香は本当に嬉しそうに頷いて、軽い足取りで脱衣所へ向かった。
その後ろ姿を見送ってから、片付けを続け……。
ふと思う。
明日香、手ぶらじゃなかったか? 着替えとか下着とか。そういうの持って行かなかったよな?
思い返してみると、明日香が持っていたのは小さめの鞄だけ。あれに着替えや替えの服が入っているとは思えない。
片付けが終わり確認のために洗面所の前に行くと、ざば、と湯が跳ねた音が聞こえる。声を掛けようか悩んでいるところで。
「~~♪ ~~~~♪」
鼻歌が聞こえてきた。風呂を満喫しているご機嫌さだ。
「異世界ソングか? 興味あるな。って、そんな暢気なこと言ってる場合じゃないか」
邪魔するのも忍びないが、確認しないわけにもいかない。後から「着るものがありませんでした」なんて言われても困るし、風呂上がりにそれが発覚する方が余計に気まずい。
腹をくくって洗面所の扉を微かに開ける。そこに彼女がいないことを確認してから。
「明日香。すまん、ちょっといいか」
返事はすぐには来なかった。
短い緊張の後、浴室の向こうから小さく返ってくる。
「どうしたの~?」
さっきより明らかに声が柔らかい。湯に浸かって気が抜けているといった感じだ。だったらさっきの間はなんだったんだと言いたくなるが、それを止めて。
「着替えとかあるか?」
「あっ……」
数秒の間。
「なにも、ないかも」
「かもってなんだ」
「ごめんなさい。衣服はなにも持ってきてない。その……。下着も」
わざわざ下着とまで言わなくていいんだが。
「わかった。母さんの服、適当に見繕って持ってくるから」
「ごめんなさい。お願いしてもいい?」
「別に謝らなくていい。けど、合図するまで絶対出てくるなよ」
「なんで?」
「身体拭いてるところに俺が来たらどうするんだ。いきなり気まずい関係になるだろうが」
「そ、そうよね。ごめんなさい」
焦った声を聞いてから、俺はそっと扉を閉じる。
「まだ、そういうのは早いわよね。再開したばっかりだもの」
明日香の小さい声は、扉に遮られて俺の元まで届かない。
いったん母さんの部屋に向かい、そして考える。
母さんは小柄だ。対して明日香は女子高生の身長は平均か少し高いくらい。しかも悪いことに、母さんよりだいぶ成長がいい。……いや、悪くはないんだけど、服のサイズを考えるとかなり厳しい。
サイズ大丈夫か? とは思ったが、他に選択肢もない。無難そうなTシャツと部屋着用のズボンを見つけ。
「明日香、入るぞ」
「はーい♪」
こぅちは色々考えてるのに、湯船に浸かって完全にリラックスしてやがる。
俺は籠に着替えを入れて、早々に退場。
「置いといたからな。なにかあったら言ってくれ」
「ありがとう」
「いま開けるなよ」
「開けて困るのは私の方じゃない?」
「そりゃそうだ」
「伊吹くんが開けて欲しいっていうなら開けるけど?」
「なにかあったら言ってくれ。リビングにいるから」
明日香の言葉を受け流し、リビングへ戻った。ソファーに腰を下ろして、ぼんやりテレビを眺める。
風呂場の方からは、たまに湯の跳ねる音。
異世界だか何だか知らないけど、久しぶりの湯船ならはしゃぐ気持ちもよくわかる。数日振りの風呂なんてもんは身体が溶けそうになるほど気持ちいい。
湯舟の文化、最高である。
そんなことを考えていた時だった。
「……伊吹くん」
洗面所の方から遠慮がちな声がした。
「少し、いいかしら」
「どうした」
洗面所の方を見ると、扉がほんの少しだけ開いていた。そこから銀色の髪と困ったような蒼い目だけが覗いている。
「その……。用意してくれた服、少し小さいみたい」
「だ、だよな」
予想通りではあったが、予想通り過ぎて肩を落とす。
「ごめんなさい。無理をすれば着られなくもないのだけれど、たぶん、その。いろいろ危ないと思う。……見てみる?」
明日香が「んっ!」と小さい声を漏らした。短い服を下に引っ張ったのだろうと予想が付いたので。
「いや、見なくてもだいたいわかるから大丈夫だ」
「そうよね……」
「ちょっと待ってろ」
「ええ。ごめんなさい」
「謝るべきなのは明日香じゃないから安心しろ」
短く返事をする明日香に背を向けながら、俺は自分の部屋へ向かった。
こうなると、次は俺の服しかない。




