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負け犬の郵便受け  作者:


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拝啓 負け犬へ

『拝啓 負け犬へ』


 そんな、失礼な頭語から始まった一通の手紙。懐かしい字の癖に、思わず目を細めてしまう。

 右上がりの文字。やたらと勢いのある払い。句読点の位置だけは妙に几帳面で、ふざけているくせに文章の呼吸だけは整っている。十年以上も見ていなかったはずなのに、俺はその字を見た瞬間、誰が書いたものなのか分かってしまった。

 分かってしまったことが、少しだけ悔しかった。


 校舎を建て替えるらしいから、最後に見学会でもしませんか。

 そんな同窓会ともイベントともつかない案内が届いたのは、一か月ほど前のことだった。母校からの手紙なんて、卒業証明書を取り寄せた時以来だ。最初は行くつもりなどなかった。土曜日にわざわざ電車を乗り継いで、古い校舎を見に行くほど、俺は過去を大切にしている人間ではない。

 けれど案内状の隅に印刷された校舎の写真を見た時、なぜか指が止まった。

 雨染みの残る外壁。少し傾いた渡り廊下。三階の端にある、かつて図書室だった場所の窓。

 その窓を見つけた瞬間、もう二度と思い出さないようにしていた記憶が、紙の裏側から滲むインクみたいに浮かび上がってきた。


 だから来た。


 そう認めるのは癪だったので、当日は「暇だったから」と誰に聞かれたわけでもない言い訳を胸の中に用意していた。

 集まった同級生は、思ったより少なかった。いや、十数年ぶりの母校にわざわざ顔を出す人間なんて、これくらいが妥当なのかもしれない。体育教師だった先生はすっかり白髪になっていたし、学年主任は退職して家庭菜園にハマっているらしい。かつて同じ教室で机を並べていた連中も、今はもう誰かの親だったり、役職付きの名刺を差し出す側の人間だったりした。


「久しぶり。変わらないね」


 何人かにそう言われた。

 そのたびに俺は曖昧に笑った。変わらない、という言葉は便利だ。相手を褒めているようで、何も見ていなくても言える。

 本当は随分変わった。背広の肩は重くなったし、愛想笑いは上手くなった。腹の底から笑う回数は減った。夢という言葉を使うには、少し年を取りすぎた。

 それでも、校舎の匂いだけは変わっていなかった。

 古い木材と、埃と、少し湿った紙の匂い。廊下を歩くたび、靴底が床を鳴らす。その音がやけに大きく聞こえるのは、もうここに生徒の声がないからだろう。壁に貼られた色褪せた掲示物も、階段の踊り場の傷も、俺のことなど覚えていない顔をしてそこにあった。


 俺は集団から少し離れ、一人で校舎の中を歩いた。

 別に誰かと語り合いたい思い出があったわけではない。むしろ、誰にも掘り返されたくない場所ばかりだった。

 三年二組の教室。文化祭の準備で居残った被服室。進路指導室の前で、行きたくもない大学名を書いた紙を握りしめていた廊下。

 そして、図書室。

 扉の上の札には、まだ薄く「図書室」と書かれていた。今は資料置き場になっているらしく、半開きの扉の隙間から、段ボール箱や古い机が見える。入っていいものか迷ったが、見学会なのだから問題ないだろうと、都合よく解釈した。

 中に足を踏み入れた瞬間、時間が少しだけ戻った気がした。

 窓際の席。日焼けしたカーテン。貸出カウンターの奥にある、背の低い本棚。かつては壁一面に本が並んでいたはずなのに、今では大半が処分されたのか、空いた棚ばかりが目立っていた。

 それでも、一番奥の棚だけは残っていた。

 埃を被った文学全集。古い辞書。誰が読むのか分からない郷土史の本。そして、背表紙の金文字がすっかり剥げた、一冊の分厚い本。

 俺は吸い寄せられるように、その本へ手を伸ばした。題名は、ほとんど読めなくなっていた。だが、分かる。間違えるはずがない。

 高校二年の秋。俺たちはこの本を勝手に「郵便受け」と呼んでいた。


「書いたら、この本のこのページに挟むこと」


 そんな適当なルールで始まった、俺と、あいつの文通。

 最初はただの悪ふざけだった。

 授業中に書いた掌編小説を、どちらが先に読ませるかで揉めた。人前で見せるのは恥ずかしい。メールで送るのも何か違う。なら、図書室の誰も借りない本に挟めばいい。そんな馬鹿みたいな発想だった。


 挟むページは、三百二十一ページ。


 理由は特にない。あいつが「三、二、一、で始まる感じがしていい」と言ったからだった。俺は「安直すぎる」と笑った。あいつは「安直に始められないやつは、一生何も始められない」と言い返した。


 今思えば、あいつはいつもそうだった。雑に見えて、核心だけを乱暴に突いてくる。

 俺は本を開いた。

 古い紙が、ぱり、と乾いた音を立てる。三百二十一ページ。そこには何もないだろうと思っていた。あるはずがないと思っていた。だって、あれから十年以上経っている。校舎は建て替えられ、本は処分されかけ、俺たちは大人になった。

 そんな都合よく、過去が残っているわけがない。

 けれど。

 一枚の便箋が、そこに挟まっていた。

 薄い水色の便箋。端は少し黄ばんでいて、折り目の部分は今にも破れそうだった。俺は息を止めるようにして、それを取り出した。

 そして、冒頭の一行を見た。


『拝啓 負け犬へ』


 失礼なやつだと思った。

 同時に、あまりにもあいつらしいと思った。

 胸の奥で、何かが小さく鳴った。怒りではない。懐かしさでもない。もっと情けなくて、もっと苦いものだった。

 俺は便箋を開いたまま、窓際の席に腰を下ろした。

 かつて、あいつがよく座っていた席だ。

 外では、見学会に来た誰かの笑い声が聞こえている。遠くで先生が説明している声もする。けれど図書室の中だけは、切り取られたように静かだった。

 俺はもう一度、一行目を見た。


『拝啓 負け犬へ』


 ひどい書き出しだ。

 けれど俺は、その続きを読まずにはいられなかった。


『お前がこれを読んでいるということは、たぶん、また負けた顔をしているんだろう。もしくは、負けたことにも気づかないくらい、上手に大人になっているのかもしれない。どちらにせよ、おめでとう。お前は見事に、私の予想通りの人間になった。』


 思わず、鼻で笑った。

 変わらない。

 文章の向こう側から、人を小馬鹿にしたような顔が見える。頬杖をついて、口の端だけを少し上げて、こっちが腹を立てるのを待っているような顔。

 腹は立った。十年以上経っても、腹は立った。

 だけどそれ以上に、指先が少し震えた。

 便箋の文字を目で追うたび、記憶の奥にしまい込んでいた声が、勝手に蘇ってくる。


「お前さ、ほんと負け犬っぽいよな」


 最初にそう言われたのは、高校二年の秋だった。

 放課後の図書室。窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いていた。秋というにはまだ少し暑く、けれど夏というには陽射しが弱くなった頃。俺は窓際の席で、ノートに書いた短い小説を読み返していた。

 誰にも見せるつもりはなかった。


 それなのに、背後からひょいと手が伸びて、俺のノートを奪った。


「……返せ」

「やだ」

「読むな」

「もう読んでる」


 あいつは当然のように向かいの席に座り、俺のノートを開いた。制服のリボンは少し曲がっていて、袖口には青いインクの染みがあった。髪は肩より少し長く、校則よりほんの少しだけ茶色い。教師に注意されれば「地毛です」と平然と嘘をつくタイプの人間だった。

 名前は、七瀬。七瀬 凛。

 当時の俺にとって、クラスメイトというには近すぎて、友達というには腹立たしくて、恋人というには遠すぎる存在だった。


「ふうん」


 凛は数分ほど黙って読み、最後にそう言った。


「ふうんってなんだよ」

「負け犬っぽい」

「は?」

「文章が」

「意味分かんねぇ」

「分かんないなら、そこも含めて負け犬」


 凛はノートを閉じて、机の上を滑らせるように返してきた。


「逃げてる感じがする。主人公がじゃなくて、書いてるお前が」


 その言葉に、俺は言い返せなかった。

 図星だったからだ。

 当時の俺は、小説家になりたいなんてことを、誰にも言えずにいた。言った瞬間、笑われる気がした。無理だと言われる気がした。現実を見ろと、親にも教師にも友達にも言われる気がした。

 だから俺は、誰にも見せないノートにだけ書いていた。

 授業中、休み時間、部活にも入らず、図書室の隅で。

 書きたいくせに、読まれるのは怖い。

 認められたいくせに、否定されるくらいなら最初から隠しておきたい。

 それを凛は、たった数枚の文章で見抜いた。


「じゃあ、お前はどうなんだよ」


 負け惜しみで、そう言い返した。

 凛は少しだけ目を丸くしたあと、鞄から一冊のルーズリーフを取り出した。


「読む?」

「……書いてんのかよ」

「悪い?」

「いや」

「なら読むな」

「なんでだよ」

「読まれたら腹立つから」

「俺と同じじゃねぇか」


 凛は一瞬だけ黙り、それから悔しそうに笑った。


「だから言ってんの。お前も私も、負け犬っぽいって」


 それが、俺たちの文通の始まりだった。

 メールでも、メッセージでもなく、手紙。

 正確には、互いの小説と感想を、図書室の誰も借りない分厚い本に挟むだけの、雑なやり取り。


 三百二十一ページ。


 そこに原稿を挟む。相手が読む。次の日か、その次の日に感想が返ってくる。感想と言っても、ほとんどは悪口だった。


『主人公がずっと格好つけている。作者に似たのか?』

『比喩がくどい。夕焼けに親でも殺された?』

『この台詞、絶対に人間が言わない。お前、友達いないの?』

『ラストだけは良い。悔しい。そこだけは認める』


 凛の文字はいつも勢いがあった。褒める時でさえ、喧嘩を売るような言い方だった。

 俺も負けじと書いた。


『お前の主人公はすぐ泣きすぎる』

『展開が雑。勢いだけで走るな』

『この一文は良い。腹立つけど良い』

『悔しいけど、最後の会話は好きだった』


 そんなやり取りが、いつの間にか習慣になっていた。

 教室ではあまり話さない。廊下ですれ違っても、軽く目が合うだけ。

 けれど図書室の本の中でだけは、俺たちは遠慮なく言葉をぶつけ合った。

 将来のこと。

 家のこと。

 書けなくなった日のこと。

 賞に応募するかどうか。

 自分の文章が嫌いになった夜のこと。

 誰にも言えない弱音が、三百二十一ページにはいくつも挟まっていた。


『覚えているか。

 お前は一度だけ、私に言った。書いても意味がない気がする、と。

 どうせ誰にも届かないなら、最初から書かない方が楽なんじゃないか、と。

 私はその時、腹が立った。

 死ぬほど腹が立った。

 何が腹立つって、その気持ちが分かってしまったことが腹立った。』


 便箋の文字が、少しだけ滲んで見えた。

 インクが古くなっているせいだ。そう思うことにした。

 図書室の窓から、薄い光が差し込んでいる。埃がゆっくりと宙を舞い、机の上に落ちていく。そのひとつひとつが、時間の欠片みたいだった。


 俺は便箋を持つ手に、少しだけ力を込めた。

 覚えている。忘れるわけがない。

 あれは、高校三年の春だった。

 進路希望調査の紙が配られた日。周りの連中が、大学名や専門学校名を軽く口にしている中で、俺は空欄のまま紙を眺めていた。

 小説を書きたい。そう書ける欄は、どこにもなかった。

 放課後、俺は図書室で凛にその話をした。


「適当に大学名書けば?」


 凛はそう言った。


「お前は?」

「東京の専門。文章関係の」

「親、許してくれたのか」

「許してない」

「じゃあどうすんだよ」

「説得する。無理なら喧嘩する。喧嘩しても無理なら、勝手に行く」


 凛は簡単に言った。

 簡単に言えることじゃないのに、簡単に言った。俺はその強さが眩しくて、少し嫌いだった。


「俺は、無理だと思う」

「何が」

「書くこと」


 凛の目が、こちらを見た。

 それまで机に肘をつき、退屈そうにペンを回していたのに、その瞬間だけは真っ直ぐに俺を見た。


「なんで」

「才能ないし」

「便利な言葉だね、才能」

「実際そうだろ」

「逃げる時に使うには、便利すぎる」


 俺は黙った。

 凛はペンを置き、ため息をついた。


「で、本音は?」

「本音?」

「才能がないとか、親がどうとか、進路がどうとか、そういう見栄えのいい理由じゃなくて。もっと汚いやつ」


 嫌な聞き方だった。

 でも、凛はいつもそこを突いてくる。

 俺はしばらく黙って、窓の外を見た。グラウンドでは野球部が走っていた。吹奏楽部の音が、音楽室の方から少しだけ漏れていた。世界は普通に進んでいて、俺一人だけが取り残されているような気がした。


「怖いんだよ」


 ようやく、それだけ言った。


「書いて、本気でやって、それでも何にもなれなかったら」


 言葉にした途端、情けなさが喉の奥に広がった。


「だったら、最初から本気じゃなかったことにした方が楽だろ」


 凛は笑わなかった。馬鹿にも、負け犬とも言わなかった。

 ただ、少しだけ目を細めた。


「それ、手紙に書きなよ」

「なんで」

「今のは、ちゃんと負け犬っぽかったから」

「お前な」

「褒めてる」

「どこがだよ」

「負けてるって分かってるなら、まだ終わってない」


 凛はそう言って、三百二十一ページに挟まっていた俺の原稿を取り出した。


「ほんとに終わってるやつは、自分が負けてることにも気づかないから」


 その言葉を、俺は長い間忘れていた。

 忘れたふりをしていた。


『私は、お前の書くものが嫌いだった。

 嘘。半分嘘。

 正確には、嫌いなところが多すぎて、たまに良い一文があると余計に腹が立った。

 全部だめなら見捨てられたのに。

 変なところで光るから、見捨てられなかった。』

「……勝手なこと言いやがって」


 声に出すつもりはなかったのに、呟きが漏れた。

 図書室には、当然、返事をする人間はいない。

 俺は便箋をめくった。二枚目があった。薄い便箋が、もう一枚。


『お前はたぶん、途中で書くのをやめる。理由はいくらでも作れる。

 受験があるから。

 親が反対するから。

 才能がないから。

 忙しいから。

 大人になったから。

 現実を見なきゃいけないから。

 でも、たぶん本当は違う。負けるのが怖いからだ。私はそれを馬鹿にしない。私も怖いから。怖くて、怖くて、怖くて仕方ないから。だから、私はお前より先に負けないことにする。』


 その一文で、息が止まった。

 俺より先に負けない。

 それは凛が、卒業前に何度も口にしていた言葉だった。

 俺が進路希望を地元の大学に変えた時も。

 小説の新人賞に出すはずだった原稿を、結局送らなかった時も。

 図書室に行く回数が減った時も。

 凛は笑って、同じことを言った。


「じゃあ、私が先に行く」

「どこに」

「お前が逃げた場所」


 その時の俺は、何も言えなかった。

 凛は卒業後、東京へ行った。

 俺は地元の大学へ進み、普通に就職した。

 最初のうちは、たまに連絡を取っていた。近況とも呼べない短いメッセージ。凛は専門学校が忙しいと言いながらも、何かを書いているようだった。俺は大学の課題が面倒だとか、バイト先の店長がうるさいとか、どうでもいいことばかり返した。

 小説の話は、いつの間にかしなくなった。

 凛が一度だけ、原稿を書いているかと聞いてきたことがある。

 俺は、最近は忙しい、と返した。

 嘘ではなかった。けれど本当でもなかった。

 それきり、凛からの連絡は少しずつ減っていった。


 そして、途切れた。


『この手紙を書いている時点で、私はまだ何者でもない。たぶん、東京に行ったところで、簡単には何者にもなれない。周りには私より上手いやつが山ほどいるだろうし、私より本気のやつも山ほどいると思う。泣くかもしれない。折れるかもしれない。帰ってくるかもしれない。それでも私は、少なくとも一回は、自分の書いたものを誰かに差し出す。

 笑われるために。

 落とされるために。

 嫌われるために。

 それでも、届くかもしれない場所に置くために。

 お前もそうしろ。……と書きたいところだけど、たぶんお前はしない。だからこれは命令じゃなくて、予約だ。』


 予約。

 その言葉に、俺は眉をひそめた。

 便箋の続きを追う。


『十年後でも、十五年後でも、二十年後でもいい。

 もしお前がこの手紙を見つけたら、その時は一つだけ書け。

 小説じゃなくてもいい。

 手紙でもいい。

 言い訳でもいい。

 負け犬の遠吠えでもいい。

 とにかく、一つだけ書け。

 そして、この本の三百二十二ページに挟め。三百二十一ページは、私がもらった。

 次はお前の番。』


 俺は、ゆっくりと本に目を落とした。

 三百二十一ページ。

 そして、その隣の三百二十二ページ。

 何も挟まっていない。当然だ。

 俺はこの手紙を、今日初めて読んだのだから。

 読んだはずなのに、胸の奥に、ずっと前から知っていたような痛みが広がっていた。

 あいつは、俺を待っていたのだろうか。

 いや、違う。凛はたぶん、待っていたわけじゃない。待つような性格ではなかった。

 これはきっと、置いていったのだ。

 俺がいつかここへ戻ってきてしまうことを、見透かしたうえで。

 俺がどれだけ上手く大人になっても、どれだけ平気な顔をして生きても、いつかどこかで、負けたままの自分に気づく瞬間が来ると知っていたから。


 便箋の最後には、短い追伸があった。


『追伸。

 もしこの手紙を読んで、腹が立ったなら、まだ大丈夫。

 何も感じなかったら、その時こそ本当に負け犬だ。

 せいぜい怒れ。

 怒ったついでに、書け。

                     七瀬 凛』


 名前を見た瞬間、俺は便箋から目を離した。

 窓の外を見る。

 校庭には、もう誰もいない。見学会に来ていた同級生たちの声も、いつの間にか遠ざかっていた。建て替え前の古い校舎は、夕方の光を受けて、少しだけ赤く染まっている。

 高校の頃、凛はよくこの時間の光を嫌っていた。


「夕方って、全部終わった感じがするから嫌い」


 そう言いながら、窓際の席で原稿を書いていた。


「でも、お前の小説、夕方多くないか」

「嫌いだから書くんだよ」

「意味分かんねぇ」

「分かんないなら負け犬」


 そんな会話ばかりだった。

 くだらなくて、腹が立って、今になって思えば、どうしようもなく眩しかった。

 俺は便箋を丁寧に折り直し、机の上に置いた。

 それから鞄を開ける。

 中には、仕事用のノートと、安物のボールペンが入っていた。普段は会議のメモや、取引先への確認事項を書くためのものだ。夢とか、青春とか、そういう恥ずかしいものとは一番遠い場所にあるノート。

 俺はそれを取り出し、白いページを開いた。

 手が止まる。

 何を書けばいいのか分からなかった。

 小説なんて、もう何年も書いていない。最後にまともな文章を書いたのがいつだったのかも思い出せない。仕事のメールならいくらでも書ける。謝罪文も、報告書も、議事録も、相手の機嫌を損ねないための無難な文面も。

 けれど、自分のための一文が書けない。

 そのことが、情けなかった。

 俺はペン先を紙に置いたまま、しばらく動けなかった。

 その時、図書室の扉が軋む音がした。


「あれ、ここにいたんだ」


 顔を上げると、入口に同級生の男が立っていた。名前はたしか、森田。高校時代は野球部で、今は地元で不動産関係の仕事をしていると、さっき聞いたばかりだった。


「もうそろそろ閉めるってさ。先生が探してた」

「ああ。悪い、すぐ行く」


 俺は反射的にノートを閉じかけた。

 けれど、森田の視線が机の上の便箋に止まった。


「それ、手紙?」

「……まあ」

「タイムカプセル的な?」

「そんな大層なもんじゃない」


 俺がそう言うと、森田は少し懐かしそうに図書室を見回した。


「ここ、七瀬がよくいたよな」


 突然その名前が出て、心臓が跳ねた。


「覚えてるのか」

「覚えてるよ。目立ってたし。なんかいつも本読んでるか、書いてるかしてたじゃん」

「そうだな」

「お前、仲良かったよな」

「……どうだろうな」


 俺が曖昧に返すと、森田は少し笑った。


「いや、仲良かっただろ。お前たちは隠してるつもりだったかもしれないけど、わりとバレてたぞ」

「何が」

「図書室の本に、なんか挟んでやり取りしてたやつ」


 俺は言葉を失った。

 森田は悪びれもなく続ける。


「一回さ、七瀬がすげぇ怒ってたことあったじゃん。三年の時。お前と喧嘩したのか知らないけど、廊下で泣きそうな顔してて」


 記憶の底に、沈めていた場面が浮かんだ。

 三年の二学期。

 俺は凛に言った。もう書かない、と。

 本気で目指すのはやめる、と。

 地元で普通に進学して、普通に就職する、と。

 凛は怒った。泣きはしなかった。

 ただ、怒った。


「普通にって何」

「普通は普通だろ」

「お前の普通は、ただの逃げ場じゃん」

「悪いかよ」

「悪いよ」

「お前には関係ないだろ」


 言ってから、しまったと思った。

 けれど、取り消せなかった。

 凛はしばらく俺を見ていた。

 その顔は怒っているようで、傷ついているようで、でもどこか諦めたようでもあった。


「そっか」


 凛はそれだけ言った。

 その日を境に、俺たちはほとんど話さなくなった。

 卒業式の日も、まともに言葉を交わさなかった。

 凛が東京へ行くことは知っていた。けれど、見送りには行かなかった。

 行けなかったのではない。行かなかった。

 自分が置いていかれることを、認めたくなかったから。


「七瀬、今どうしてるんだろうな」


 森田の声で、俺は現在に引き戻された。


「知らないのか」

「知らない。お前の顔見て思い出したぐらいだし」

「そうか」

「お前は?」

「俺も……知らない」


 そう答えると、森田は少し意外そうな顔をした。


「そっか。なんか、ずっと連絡取ってそうなイメージだったけど」

「そんなことない」

「まあ、そういうもんか」


 森田は軽く肩をすくめた。


「じゃ、先行ってるわ。先生、鍵閉めるって言ってたから」

「ああ」


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 再び、図書室に静けさが戻った。

 俺は閉じかけていたノートを、もう一度開いた。

 白いページ。

 書けと言われた。怒ったついでに、書けと。

 腹は立っている。悔しいくらいに、立っている。

 十年以上前の手紙に今さら傷ついて、今さら言い返したくなっている自分が、情けなくて仕方ない。

 俺はペンを握り直した。

 最初の一文が、なかなか出てこなかった。けれど不意に、凛の声が頭の中で響いた。安直に始められないやつは、一生何も始められない。

 俺は小さく息を吐き、ノートに文字を書いた。


『拝啓 勝ち逃げ女へ』


 書いた瞬間、少しだけ笑ってしまった。

 ひどい頭語だ。

 でも、あいつに返すならこれくらいでいい。いや、これくらいでなければ届かない気がした。

 俺は続けて書く。


『まず、お前に言いたいことがある。

 負け犬呼ばわりするな。

 十年以上経ってから読まれる手紙の一行目がそれって、性格が悪すぎる。

 でも、残念ながら腹は立った。

 だから、たぶん俺はまだ大丈夫なんだと思う。

 そういうことにしておく。』


 そこまで書いて、手が止まった。

 胸の奥に詰まっていたものが、少しずつ形を持ち始めている。

 言い訳。

 後悔。

 謝罪。

 負け惜しみ。

 懐かしさ。

 どれから書けばいいのか分からなかった。分からないまま、俺は書いた。


『俺は、書くのをやめた。

 お前の予想通りだ。

 受験があったから。

 親が普通の進路を望んだから。

 才能がなかったから。

 忙しかったから。

 大人になったから。

 理由はいくらでもある。

 でも、たぶん全部違う。

 怖かった。お前にそう言った日のまま、俺はずっと怖かった。書いて、出して、落ちて、自分が本当に何者にもなれないと分かるのが怖かった。

 だから俺は、最初から本気じゃなかったふりをした。

 普通に進学して、普通に働いて、普通に生きている顔をした。

 それなりに上手くやっている。たぶん、周りから見れば。

 けれど今日、お前の手紙を読んで分かった。

 俺はずっと、三百二十二ページを開かないまま生きていた。』


 ペン先が止まった。

 それ以上書くと、何かが決定的に壊れてしまいそうだった。

 けれど、壊れたところで困るものが、今の俺にどれだけ残っているのだろう。

 俺は便箋の最後にあった凛の名前を見る。


 七瀬 凛。


 あいつは今、どこで何をしているのだろう。

 書き続けているのだろうか。

 それとも、あいつもどこかで折れたのだろうか。もし折れていたとしても、きっと凛は、俺みたいに負けたことをなかったことにはしない気がした。

 それが悔しかった。どうしようもなく、悔しかった。

 俺は続きを書いた。


『お前は今、勝っているのか。

 それとも、負けたのか。

 分からない。

 俺はお前の今を知らない。知らないくせに、ずっと知っているような気でいた。

 七瀬凛なら、きっとどこかで書いている。

 七瀬凛なら、きっと何者かになっている。

 そう思うことで、俺は勝手に安心していた。

 お前が勝っているなら、俺が負けたことにも意味があるような気がしたからだ。

 最低だな。

 でも、たぶん本当だ。』


 廊下の向こうから、誰かの声が聞こえた。

 閉館を知らせる声。

 それでも俺は、もう少しだけ書いた。


『この手紙を、お前が読むかどうかは分からない。

 そもそも、この本も校舎と一緒に処分されるかもしれない。

 それでも書く。

 お前がそうしろと言ったからじゃない。

 腹が立ったからだ。

 悔しかったからだ。

 それと、ほんの少しだけ、懐かしかったからだ。

 俺はたぶん、まだ書きたい。この一文を書くまで、そんなことにも気づかなかった。

 だから、ひとまずお前の勝ちだ。でも、勝ち逃げは許さない。』


 そこでペンを置いた。

 手が痛い。

 たった数分書いただけなのに、指が強張っていた。

 昔は何時間でも書いていられた。授業中も、夜中も、朝方も。書けば書くほど、どこかへ行ける気がしていた。

 そんな感覚が、ほんの少しだけ戻っていた。

 俺はノートのページを破った。破る音が、静かな図書室にやけに大きく響いた。


 三百二十二ページ。


 そこに、折りたたんだ紙を挟む。

 凛の手紙は、三百二十一ページに戻した。

 並べるように。

 追いつけない今を表すように隣に置く。

 それから本を閉じようとして、ふと手を止めた。表紙裏に、何か書かれていることに気づいた。

 鉛筆の薄い文字。時間が経ってほとんど消えかけている。

 俺は本を窓際に寄せ、光に透かすようにして読んだ。


『負け犬郵便受け。

 ただし、負けたまま終わるやつの使用は禁止。』


 その文字を見た瞬間、こらえきれずに笑ってしまった。

 馬鹿みたいだった。本当に、馬鹿みたいだった。

 高校生の俺たちは、こんなことを本気で書いていたのか。

 こんなものに、救われていたのか。笑っているはずなのに、喉の奥が痛かった。

 俺は本を棚に戻した。

 その時、廊下から先生の声がした。


「おーい、そろそろ閉めるぞ」

「すみません、今行きます」


 返事をして、鞄を肩にかける。

 図書室を出る前に、もう一度だけ振り返った。

 窓際の席。

 埃を被った本棚。


 三百二十一ページと、三百二十二ページ。


 そこにあるのは、ただの古い本と、古い手紙と、今書いたばかりの紙切れだ。

 それだけだ。

 それなのに俺は、そこに高校時代の自分を置いてきたような気がした。

 いや、違う。置いてきたのではない。

 ようやく、拾い上げたのかもしれない。

 図書室の扉を閉めると、廊下には夕方の光が長く伸びていた。古い校舎の床が、赤く染まっている。

 俺はその光の中を歩きながら、スマホを取り出した。

 検索窓を開く。指が一度止まる。

 十年以上、調べようと思えばいつでも調べられた名前。けれど調べなかった名前。知らないままでいた方が楽だった名前。

 俺はゆっくりと入力した。


 七瀬 凛。


 検索結果が表示されるまでの数秒が、やけに長く感じた。

 そして画面に現れた最初の記事を見た瞬間、俺は廊下の真ん中で足を止めた。

 そこには、見覚えのある名前があった。けれど俺の知っている名前ではなかった。


 【新人小説賞受賞作】

 『三百二十一ページの郵便受け』

 著者・七瀬リオ


 記事の日付は、八年前。

 俺はしばらく、画面から目を離せなかった。

 廊下の向こうで、先生がもう一度俺を呼んでいる。それでも俺は、動けなかった。


 七瀬凛は、書いていた。

 何者かになっていた。

 そしてたぶん、俺たちの図書室を、物語にしていた。

 胸の奥で、古い何かが音を立てて崩れた。


 悔しさか。

 嬉しさか。

 怒りか。

 後悔か。


 名前をつけるには、まだ少し早かった。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。俺は今、猛烈に腹が立っている。

 勝ち逃げ女へ。

 そう書いたばかりの自分の文字を思い出す。

 あいつは本当に、勝ち逃げしていた。だったら、追いかけるしかない。

 十年以上遅れて。

 負け犬みたいに息を切らしながら。

 それでも、まだ負けたまま終わるつもりはないと、ようやく思えた。


「とりあえず……本屋にでも寄ってみるか」


 勝ち逃げした友人に、文句の一つでもつけてやる。

 十年以上遅れた返事としては、きっと、それくらいがちょうどいい。

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