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キラキラ光る輝きに惹かれて、伊織は歩道橋へと足を踏み出した。
母が亡くなり、香典返しの商品を選びにきた帰りだ。
駅と百貨店を結ぶ歩道橋は人が多く行き交っていた。笑顔で歩いている人々を見ていると、急に虚しさが込み上げた。
父が学生の時に病気になり、それから働けなくなった。兄と姉は働き出して、すぐに交通事故で二人同時に亡くなった。二人の十三回忌を終えて安心したのか、父が他界。その後すぐに母の癌が見つかり、数年で天に召された。
伊織には親しい友人もいない。介護を理由に誘いを断るうちに、友人たちは一人また一人と去っていった。頼れる親戚もいない中、伊織は本当の意味での一人になってしまった。
「天涯孤独の身……か」
思い返せば伊織の青春時代は介護で終わった。
気が付けば、もう四十歳手前。結婚しても元気な子供が産めるか不安だ。もういっそ、一人身を貫こうかと思う。
周りに目を向けると、イルミネーションを楽しむカップルばかり。
「そうか、今日はクリスマスイブだ」
そっと囁いた声は誰にも届かない。
こうしてゆっくり景色を楽しめたのも何年振りだろうか。歩道橋の手摺りに両手を載せて、しばらく楽しむことにした。
「綺麗~」
隣の女の子が声を上げたので、何気なく顔を向けると視線があった。伊織が見たからか、女の子は露骨に顔を嫌そうに顰める。
「何、見てるのよ」
一瞬何を言われたのかわからなかった。ただ伊織はすぐ側で声がしたから、顔を上げただけに過ぎない。
「おい、止めろよ」
一緒にいた男の子が止めてくれたが、女の子の罵声は止まらない。
「おばさんが物欲しそうな顔で見るな。腐るだろうが」
別に声を荒げるでもない普通の音量なのだが、言葉が怖い。
(今の子って平気でこんなこと言うの? 彼氏の前でも?)
伊織は少し怖くなって身を引こうとしたが、彼氏が女の子の腕を引っ張った。
「すみません。こいつ、ちょっと酔っちゃって」
「……いえ」
まだ何やらぶつぶつ呟いている女の子の腕を引っ張り、彼らは遠ざかっていった。
「あんな姿見せられたら熱も冷めちゃうわね。あの恋人同士……別れるんだろうな~」
人の心配をしてもどうしようもない。再び伊織が走る車のライトをぼんやり見た時だった。明らかに質が違う白く光る物体がぴょんぴょんと車の上を跳ねているのが見えた。
「……え? あれ、何?」
ぼわ~とした白くて小さな光。車のライトや街灯のキラキラした光とは明らかに違う。それにその光は跳ねて移動しているのだ。
「こっちにくる」
そう声を出した時、ぴょーんと大きくジャンプした。そして伊織がいる歩道橋の手摺りに着地した。
ぼんやりした光の中に真っ白な尻尾の長い猿がいた。顔が黒くて身体を覆う毛は白。まるで某アニメの相棒を思い出す姿だった。
でも何故その猿が光っているのか、伊織にはわからなかったが。伊織の視線に気付いた猿は、こちらにテテテと駆けてきた。
伊織の前で立ち止まり首を傾ける。その仕草が可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
猿は伊織が見えていることに気付いたのか、嬉しそうな表情を浮かべて肩に飛び乗った。
「きゃっ」
少し驚いたが、別にいたずらをする訳でもなさそうだったのでそのままにする。そっと指先を伸ばし頭を撫でると、猿は気持ちよさそうに目を瞑る。
「可愛い……」
だがこの子の飼い主はどこにいるのだろうか? 伊織は辺りを見回すが、そんな人物は周辺にはいなさそうだ。
「飼ってあげたいけど……うちは動物禁止なの。ごめんね」
そう声をかけて猿を抱こうとしたが、スルリとすり抜けて身体を伝い足元へと降りた。
ブーツの靴紐が珍しいのか、それで遊んでいる。
表情がくるくる変わり、本当に愛らしい。
「ここから一番近い交番はどこだったかな?」
靴紐を解き反対側の紐と器用に結ぶ。そんな器用なことが猿にはできるのだなと、微笑ましく見ていた時だった。遠くの方で悲鳴が上がった。
「きゃあああぁぁぁーっ!!」
思わず伊織は顔を上げて悲鳴がした方を見た。男が刃物を持って振り回しているのが見える。
「あ、危ない……」
咄嗟に逃げようと身体が動いた時だった。駆けてきた男性にぶつかられて、一緒に倒れしまう。
「きゃあっ!」
共に巻き込まれた女性が二人、伊織の下敷きになったので転んだ際の身体の痛みはなかった。
ぶつかってきた男性は素早く起き上るが、謝る素振りもない。それも仕方がない刃物を振り回している男が何かを叫びながらこちらに駆けてくるのだから。
「あぁあぁ……」
起き上った男性は恐怖で言葉にならない声を発し、こちらを手助けしないまま逃げ出した。
「な、何あいつ。謝りもしないで……」
伊織の下敷きになった女性が非難するが、それどころではない。
伊織は身体を起こし、彼女たちに手を差し伸べる。
「早く起きて、逃げてっ!」
「え……?」
彼女たちからは伊織の影になって刃物を持った男が見えなかったのだろう。この危機的状況を察していない様子だった。
「はあはあ……っ」
誰かの激しい気遣いが背後から聞こえた。そう感じた瞬間に胸に衝撃を覚えた。
下敷きになっていた女性たちは、その時には伊織の手を借りて起き上っていた。だが、その衝撃的な光景を目の前にして叫び声を上げた。
「き、きゃあああぁぁぁーっ!!」
どちらが叫んだのかは伊織にはわからなかった。だってその時の伊織にはもう音さえ聞こえていなかったから。
ただ自分の胸に突き刺さっている刃先だけが見えた。刃物は伊織の胸を背中から貫通していたのだ。
(こんなに深く突き刺さっていたら、抜くことも簡単にはできないだろうな……)
自分が下敷きにした女性たちが、少しでも逃げられる時間を稼げたらいいな。そう伊織は思いながら意識を失った。
そして意識を失う瞬間、思った。
(あれ? どうして私は走れなかったんだろう。ああ、そうか。お猿さんが靴の紐を結んだからか……)
だったら男性が伊織にぶつからなくても転んだろうなと思った。
(あの人……自分のせいだと思わなければ、いいな)
最後に真っ白な猿がいたずらしていた光景が頭の中に浮かび、伊織はそっと微笑みを浮かべながら瞳を閉じた。