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アンコール  作者: 時雨
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 2

 

「そろそろ有給を使いたくなったんじゃないか」


 土曜日、いつものように残業をしていると、上司が声をかけてきた。


 不機嫌そうにコーヒーを啜る上司に、僕はいつものように軽く答えた。


「まさか。そんな暇なんてありませんよ」


「……そうか。ならこっちの書類もやっておいてくれ」


「早く帰りたくないわけじゃないんですが」


「いいからやれ、仕事だろ」


 洪水のような文句が口から溢れそうになるけれど、喉でせき止めたまま手を動かした。


 書類を確認してパソコンに打ち込み、時には取引先への文面を考えて、時にはプレゼンの資料を作成整理改善していく。もはや息をするのと同じくらいに板についてしまった。


 それにしても、今日の作業量は一段と多い。今日は弁当を買って帰ろうか……ついでに酒も買わなければいけない。


 そう思っていたのに、作業が終えるとすでに終電がなくなる時間だった。まるで時間を飛ばしてしまったような気がして、少しもったいないなと思った。


 帰ろうとしたところ、上司に金を包んだ封筒を渡された。領収書はもらって来いとのことだった。


 外へ出ると、夏の湿っぽい空気を吸ったシャツがすぐにへばりついてきた。湿気を吸わなくなる素材でもできないものだろうか。傘と同じで根本的な解決はできないだろうけれど。


 家に帰ると、やはり彼女が出迎えてくれた。


「おかえり。今日はいつもより遅かったね。ご飯食べてきちゃった?」


 こんな時間になっても、彼女は僕を出迎えたいらしい。


 電気をつけてエアコンを起動させて、弁当も食べずに酒を開けた。外気で温められたビールは、お世辞にも喉越し爽快とは言えない。


「今日はね、高校の頃のこと思い出してたんだ」


 僕の心境を知ってか知らずか、彼女は上機嫌に笑った。


「テスト前、よく面倒みてくれたなーって。私がね、教え方が悪いって怒ると、頭が悪いって喧嘩になったもんね。懐かしー」


 言われて、思い出した。


 最初は、勉強を教えるような関係じゃなかった。


 僕はクラスで大人しい感じの人間だったけれど、妻は目立つ存在だった。


 入学式直後の教室で誰彼構わず友だちになろうと笑ったり、テストの点数が悪いと泣きそうな顔で悔しがったり、体育祭では真剣な顔で一生懸命に応援する。そんな感じだったので、異性として意識せずとも妻を見てしまう。僕以外にも、そんな人はいたんだろうな。


 仲良くなったきっかけはよく覚えている。


 土曜の夜には必ず街へ繰り出し、下手くそな歌で弾き語りをするのが高校生の頃の日課だった。たまに聞いてくれる人がお情けで投げ銭をくれるような、その程度の趣味だ。


 そこへ、たまたま通りがかった妻に『歌、下手っぴだね』なんて言われて。


「でもね、感謝してるんだ。あの時勉強教えてくれたから楽しかったもん。えへへ、勉強よりも、その後の歌の方が楽しかったんだけどさ」


 そこまで聞いて、僕はいつの間にか空になっていたビール缶を握りつぶした。


「うるさいな、いい加減黙ってくれよ」


「……えへへ、ごめんね」


 彼女は、それでも笑顔を崩さなかった。


 彼女に向かってこんなことを言うなんて、僕はとっくに狂ってしまっているんだろう。いつからこんな風になったんだっけ。


 やはり定番なのは、日々の仕事に忙殺されてしまったとかだろうか。毎週やってくる義母への接待に削られてしまっているんだろうか。もしくは、枕元の抜け毛が増えていたり、お気に入りの惣菜パンがコンビニから姿を消したり、そういう小さな絶望の積み重ねなんだろうか。


 そうするっていうと、僕はずいぶん大人になってしまったということになる。


 不思議だ。どれだけ仕事をしても、どれだけ税金を収めても、どれだけ社会貢献しても、僕はちっとも大人になれた気がしない。


 鼻歌が聞こえてくる。


 耳を塞いでも、彼女の鼻歌が聞こえてくる。

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